【コラム】技術者の視点

所変われば

荒川 文生


 人間の生活を便利で豊かにする営みの技(わざ)や術(すべ)は、当然、その人間が生きて行く環境に応じて異なるものとなります。例えば、雨を凌ぐ方法は、砂漠地帯と熱帯雨林地帯とでは天地ほど異なっています。「所変われば品変わる」という訳です。

 よく言われる例は、「洋の東西」という見方でしょう。そこで意外と意識されていないのは、自然をどの様に見るかという事ではないでしょうか? 太古の昔には、洋の東西でそれほどの違いがあったとは思われませんが、「事実に基づき合理的にものごとを判断する」という「科学」が特に西欧で発展するにつれ、自然とは克服すべき対象と考えられる様になりました。
 人間を襲う嵐や雷、洪水、そして、細菌や猛獣などから、自らの身を守る為には、それらと戦って勝利する必要がありました。ユダヤ教から進展した歴史を持つ基督教や回教では、神様が自然をお創りに為られたわけですから、ある意味で、神の御わざと戦うことにも為ります。従って、神学と並ぶ哲学のある分野は、それが「科学」として確立される過程で、ニーチェのように「神は死んだ」という事に為ります。自然科学の研究をする者にとっては、太陽が地球の周りを回っていると聖職者が言う事に、自らの命を懸けてでも批判をすることが避けられないこととなります。逆に、例えば、DNAの研究がこれほど進んだ今でも、進化論を否定して自らの「信仰」を守っている人もいます。

 いっぽう、東洋ではどういう状況になっているでしょうか?「科学的合理主義」が日常生活に定着するという点において、西洋に後れを取った東洋では、「近代化」の過程で、仏教や儒教の教えの中に土着的な信仰が色濃く残りました。そこでは、まず自然を含む宇宙が有り、人知の及ばぬところを律するものとしての自然崇拝的な「神」が、自然界のありとあらゆるものに潜んでいるという観念を持つわけですから、その中に生きる人間は、自然界の為せる業に惧れと敬いの心を持ち、万一人間に不都合な事象が生じれば、それは人間の至らぬ所為と心得て反省することに為ります。

 その結果、産業革命という、18世紀後半にイギリスから展開された自然科学の成果を取り込んだ産業の変革と、それに伴う人文社会科学に裏付けられた社会構造の変革が、東西の勢力関係を大きく西寄りに傾けたと言えましょう。かくして、19世紀と20世紀の国際情勢は、西欧の文化が支配するところとなった感があります。ところが、21世紀に入り産業活動による「自然克服」が「自然破壊」と為って、洋の東西を問わず人間の営みに脅威を齎していることが明らかと為りました。

 今や、東洋においても発展途上地域の経済発展が、深刻な自然破壊を齎しつつあるときに、東洋の自然観が、人間として自然界の為せる業に惧れと敬いの心を持つものであるとは言えないでしょう。ただ、その心象の基礎には、長年の歴史と伝統に育まれた「自然との共生」が在るのは間違いないと思われます。というよりは、それを思い起こして、西寄りに傾いた東西の勢力関係を元に戻すことに拠り、現在、人間の営みに齎らされている脅威を回避できるのではないでしょうか。具体的には、「グローバル化」によって齎される金塗(まみ)れを克服し、エネルギーの無駄遣いから脱却し、そして、自然と人類の多様性を尊重する事です。

 西東(にしひがし)技(わざ)さまざまに走馬灯  (青史)

 (地球技術研究所代表)


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