政治報道は公正に機能したか ―「菅首相退陣」をめぐる新聞の現実 ―

■ 政治報道は公正に機能したか             羽原 清雅

  ―「菅首相退陣」をめぐる新聞の現実 ―
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 小選挙区比例代表並立制による最初の衆院選挙は1996年6月。したがって、こ
の15年間の政治状況はこの選挙によって動かされてきたことになる。この制度の
導入を決めた1993年から代わった首相は13人、選挙の実施からは10人に及ぶ。1
年程度でリタイアした首相は前者で13人中8人、後者で10人中6人である。これ
では継続的に政治を進め、時代の変容に伴う難題に取り組むことは不可能だ。そ
れ以上に問題なのは、次第に強まるのは「政治の劣化」、あえて言えば国民の政
治への不信だろう。
 
  だが、このような構造化した劣化現象について、メディアは断片情報は積み重
ねていても、そのよってくる事情や背景、改革策については十分な解明、論及を
果たしているとは思えない。 この稿では、「菅首相退陣」を中心に政治報道の
実態について考えたい。当然のことだが、菅政権や民主党政権の擁護などは毛頭
考えていないし、むしろ政治権力の劣化責任を問いたい立場でもあるが、ここで
はメディア、とりわけ新聞についてのみ、長い記者生活の自戒を込めつつ触れて
いきたい。 


◆1> 「菅退陣」の理由


  菅首相退陣を求める声は3・11の大震災以降徐々に高まっていたが、野党な
どによる内閣不信任案を、土壇場の6月2日に否決したことで決定的になった。
これを機にメディアを含めて「即時退陣」論、「辞めずに衆院解散に持ち込みそ
う」説などが流れ出す。ひとことで言えば「辞めろコール」である。筆者は、菅
首相は当然辞める、ただ2、3ヵ月の期間は緊急法案成立のために必要、と見て
いたので、むしろ退陣せずに衆院を解散することはありえず、辞任を迫って大し
たことではない口実を設けて国会審議にブレーキをかけ、緊急課題への対応を遅
らせることこそ問題、と考えていた。そうした事態が政治・政党の劣化の現実、
だった。
 
  一例を挙げれば、西岡武夫参院議長が異例の「退陣要求」を読売新聞に寄稿、
大きく掲載されたことである。その内容とともに、立法機関の長の言動として問
題視されたものだが、のちに小沢一郎が西岡に対して菅のあとの「首相の座」に
誘い、その気になっての対応であったことが露呈される。背景を承知しての掲載
だったか、西岡にのせられたのかはわからない。
 
  菅首相の原発対応もまた、経済界とその暗黙の圧力を感じる与野党からも批判
を招く。5月6日の中部電力浜岡原発の運転停止発言、7月6日の海江田経産相
の原発安全宣言を引っくり返す首相の「再稼動にはストレステストが必要」発
言、7月13日の「脱原発」宣言・・・・たしかに、その言動は政府なり閣僚なり
の統一的な決定を経ていない、いささか不用意なもので、権力のありようとして
大きな問題をはらんでいた。

 このようななかで、メディアはそうした批判的言動に傾斜しているかの報道を
重ねていた。現実に起きている事実を伝えることがジャーナリズムの使命である
ことは間違いないが、短視的にそのレベルにとどまっていると、すべてが「菅政
権はおかしい」との印象をつくりあげてしまう。菅首相の対応の問題点をえぐる
だけではなく、将来にわたる重い発言内容についてその可否をもっと論じるべき
だった。原発依存をやめる場合、代替エネルギーの確保策、そのコストと期間な
どはどうなるか、といった論議を進め、また最新の原発が安全だというなら、そ
の実情を伝えるなど、なすべき報道の課題は多い。

 原発の存在は、多くの子どもの健康に長期的な不安を抱かせ、残留放射能の汚
染は福島近県に大きく広がり、その除去した大量の土壌、あるいは将来的に生じ
てくる汚染された損壊原発の機材の処分にメドは立たず、さらに「安上がりの原
子力発電」というPRを覆す賠償、除去、救済などに要する巨額な費用の捻出に
苦しむ状況にあって、原発のあり方について首相が触れないことの方がむしろお
かしいのだ。しかも、国際的にもEUはストレステストを義務づけ、IAEAも
すべての原発保有国での導入を提言している。地震多発国の日本において、菅首
相の資質はともあれ、その発言は一概に間違いとは言えない。

 じつは、東京新聞の「こちら特報部」が取り上げたように、電力不足を懸念す
る大手企業・財界や同調する与野党などの原発維持勢力は、この菅発言のたびに
「菅おろし」を強めていた。菅政権打倒によって原発推進政策を維持継続させよ
うとしたもの、と思える。

 メディアはこの波に飲まれたといえよう。ジャーナリズムは、原発の存廃いず
れの主張に立ってもいいが、一部の権益集団側の見解に惑わされず、その論議を
高める方向にあれば、政権倒壊による局面転換策に走ることはなかっただろう。
浜岡原発中止の菅発言直後に、NHKニュースウオッチ9の大越キャスターらが
原発必要論に傾斜したコメントを述べ、菅発言を批判して奇異に感じさせたが、
電力依存の放送関係の利害に立っての発言だったのだろうか。

 もともとメディアが内閣総理大臣の政治責任を追及するとき、基本的にはすべ
ての責任は総理大臣にあるが、個々具体的には首相自身に関わる問題か、閣僚や
各省庁なのか、あるいは関係政治家の個人がらみか、あるいは形式上の責任か、
などそれぞれの守備範囲において問われる。菅政権のみならず、最近の短命政権
を見るとき、野党が攻撃を仕掛けるのはとにかくとして、メディアはそうした軽
重・緩急の分別に欠けているように思われる。首相の権限は強いとはいえ限界が
あり、どこまでが実質責任であるか、おのずからそのわきまえが望まれよう。

 それをさらに加速するのが、毎月のように行われる世論調査の扱いだ。政治状
況が賛否両論に分かれて激論になったり、混迷したりすると、支持率はどうして
も下がる。よほどのことがないと、右肩上がりは期待しにくい。「支持率が下が
った」という指摘が、各紙各テレビ局一斉に報じられることで相乗効果を生み、
さらに下げる方向にむかわせる。菅政権の支持率10~20%台は決して高くはな
いが、森、麻生政権の10%前後に比べれば、菅政権はあの混迷のなかではむしろ
よく維持していると思わせたほどで、これはむしろ「災害対策を急げ」という声
に支えられていたからだろう。

 世論調査は「民意」を確認するには必要な装置だが、その大きな扱い、分析の
ありようなど、検討が望まれる。


◆2> 報道対象の欠落


  新聞がなにもかも報道できるものではない。しかし、必要とされながら、その
網から漏れている大きな問題や視点もある。とりわけ、政権を批判する以上、そ
のような必要情報を的確に示したうえで、政権の存続を問わなければなるまい。
とかく目先にとらわれ、軽薄に陥りやすいジャーナリズムは、すくなくとも目標
としては、重厚で奥行きのある姿勢を心がけなければなるまい。

 3・11以降、物足りなかった報道について、3点ほど挙げたい。
  第一に、菅政権は「脱官僚」「政治主導」を言って、官僚群を軽視するような
姿勢が目立ったが、そのなかで官僚システムが十分に動いていたかどうか、その
点の報道はきわめて弱かった。異常な事態を迎えた日本が、復旧・復興の道を進
むには、官僚という優秀な人材が知恵を絞り、先手を打つ動きが必要で、それは
はたして機能していたのか。各省庁にまたがる課題が多いなかで、タテは強いが
ヨコの連絡調整に弱いといわれる日本の行政がサボっていたのか、従来の慣行を
克服できなかったのかなど、中央政府の実態をまず現場的に検証していくべきだ
った。

 首相府の司令塔だけを攻撃しても現地の被災者たちの救済には役に立たず、ま
ず頭脳集団の実態や問題の所在を伝えたうえで、その姿勢や問題点を批判すべき
だった。具体的なデータを提供しないままに、倒閣運動に与するかの論調を張る
メディアは正当とはいえない。

 第二は、野党である自民党や公明党が提案した震災・原発対策について、政府
や民主党がどの程度受け入れ、どのような施策で衝突したか、といった報道がき
わめて乏しかった。「大連立」云々となると燃えあがるメディアだが、災害現場
にとって急を要する個別の問題で歩み寄りがあったか、あるいは国会審議や実施
が遅れるほどの対立点は何であるのか、こうした実証の記事がやや乏しいように
感じられた。そうした説得材料を欠くと政権打倒を叫んでも、読者は半信半疑に
ならざるを得ない。
 
  同時に、原発の導入と定着、安全神話の広がり、一方での安全対策の欠落など
は、自民党長期政権下での方針決定に起因している。大震災の責任は問わないま
でも、原発関連では自民党は野党になったとはいえ、その責任において非協力は
許されない。民主党政権の未熟さを理由に、国会審議の引き延ばしを図るなどは
もってのほかだろう。 こうした報道による野党の取り上げ方には、改善の余地
が大きいといわざるを得ない。

 第三に言いたいのは、こんどの災害を機に、各新聞社とも中央での取材経験を
持ったキャリアのある新聞記者を数多く、現地に投入しているのだが、地方と中
央のぎくしゃくを解明するような記事があまり出ていないことだ。被災地の状況
を伝える単発的記事はいいのだが、復旧・復興策についての進行を妨げているの
は行政機能のパイプの目詰まりか、現行法制のありようか、中央での政党間ない
し政府内、あるいは各行政機関間での政治的対立か、こうした構造的とも思える
ネックの事情が読者に提示されていない。

 まだ問題点はあるが、少なくともこのような報道の欠落ないし不十分さを補完
強化することなしに、政権おろしに熱中した紙面を作ることでいいのだろうか。
菅首相の「短気」「自己中心的な発言性癖」など個人的資質の問題に多くの紙幅
を割き、肝心の政権の内情や行政等の運営などの構造部分を十分に示さず、「お
ろし」作業に参加する愚は改めたいところだ。


◆3> 取材・報道の的確さ


  政治報道は、政治家や周辺関係者、あるいは官僚群などからの断片的な発言を
もとに、複数の一致した発言内容を重視しつつ、政治家たちの日頃の発言傾向や
性格、その立場や狙い、対立者やボスなど利害関係者とのスタンス、その人物の
民意掌握度、あるいは対立陣営からの見方や分析などを重層的に勘案して、キャ
ップやデスクなどの経験者のもとで判断されて原稿が作られる。その判断に差異
が出れば、取材記者は異議を述べ、修正を加える。あるいは、デスクらが譲らな
いこともある。
 
  その前提にあるのは、政治家を日頃から距離感を持って見つめ、その人物の性
向や資質をつかんでおくことだ。同時に、個人的に極力本音で会話できる関係も
必要で、そのなかで、オフレコは守るとか、冗談などの扱いをわきまえるとか、
人間関係にとって必要なマナーのもとに信頼を築くことである。ときに、それを
「癒着」といわれ、政治記者は政治家の言いなりのようにいわれるが、それは違
う。報道のうえで、なにが重要か、ということである。

 かつて立花隆が、田中角栄とその愛人について書いたとき、政治記者は癒着し
ているがゆえに政治家の下半身の問題について書けないのだ、と強く厳しい批判
を受けた。そうした素行が政治家にはきわめて多かったことや、国政の報道には
それらの問題は影響なく不要とか、触れないできた長い慣行・惰性とか、のいい
わけもあったが、この投じられた一石によって政治家の道徳性、倫理観、社会常
識などの観点から、下半身問題も執筆するようになった。しかし、それでもスキ
ャンダルを狙うといった視点ではなく、政治責任上問われるべきかどうかの視点
からの記事化であった。

 こうした反省は新聞記者の間に定着していく。これは望ましいことだが、迷う
ことも少なくなく、それはそれでまた反省して進むしかあるまい。話はちょっと
違うのだが、小沢一郎取材についても反省の材料を提供している。小沢の検察批
判が的外れとか、三権分立論云々でもない。

 小沢が記者会見と称して開催している会見の舞台についてである。この会見
は、一般の政治記者が対象ではなく、主にフリーの記者たちを相手とする。4億
円の出所など都合の悪い質問に終始しかねない一般紙の記者ではなく、小沢に理
解を示すような面々を集めるのだ。小沢初公判の際の記者会見は通常の会見だっ
たが、これはテレビ2、新聞2、フリー2という質問制限があり、新聞記者には逆
質問で自らの応答を回避し、フリー記者のやわらかい質問にはにこやかに答えた。

 このように、いわゆる記者会見の舞台の設定自体がおかしく、メディアはどの
ような環境での会見か、を書くべきだろう。記者会見は、驕った言い方のようだ
が、記者が国民に代って疑問を正しているもので、当事者は記者相手というより
も国民に語りかけるための装置でもある。したがって、このような当事者有利を
狙った世論操作の舞台裏については明かしたほうがいい。

 もう一点、鉢呂経産相の辞任問題である。福島視察から作業服のまま宿舎にも
どった鉢呂が近くにいた記者に放射能をつけるようなしぐさをしたことを、各紙
各テレビがそれぞれ違う表現で報じた。「放射能をつけちゃうぞ」「移すよ」な
どさまざまだった。じつは最初に、ある記者が「放射能が着いているのでは」と
軽口をたたいたのに応じて、鉢呂がそのような発言をした、と言われる。鉢呂は
その前後に現地の状況を「死の町」といって批判の対象にされており、あわせて
一本の引責ということだろう。

 問題はいくつかある。
  まず「死の町」の表現は、使い古されたゴーストタウンと同様に、地元の被災
者には刺激的だろうが、新聞でも一般的に使っており、引責につながるような言
葉ではないだろう。 鉢呂の軽口は、たしかに閣僚として望ましいものではな
い。だが、その場の記者とのやり取りからすれば、誘発した原因は記者側にあ
る。それに、このような軽口や一般的表現は、公式の場ならとにかく、記者連中
との日常の付き合いのなかではありうることだ。

 「書かないとやられる」というトク落ち警戒の気分から、とにかく各紙各様に
出稿、掲載する。そして、いっせいに報道されると、もう黙殺や言い訳は通じな
い。それにしても、バラバラの言葉で記事になったのは、そうした会話が特定の
記者との間で持たれ、また彼にしか鉢呂の言葉が聞こえなかったからだろう。な
ぜその特定の記者に取材し、その明かされた事実をもとに状況を伝えなかったの
か。このように密室のような状況で、記者たちが気楽に創作した表現によって、
閣僚の重い辞任を招くのはメディアの行き過ぎといわざるを得ない。

 かつて朝日の記者が、時の実力者小沢一郎がエレベーター内で話したことを、
同乗せずにまた聞きで書いたことがある。これに小沢が噛みつき、朝日は小沢対
策に腐心、結局なんと政治面のほとんど全面を使ったインタビュー記事を載せる
ことで和解したケースがあった。このようなちょっとしたミスが、報道の根幹を
揺るがす。新聞社が、自らのミスで屈服することは読者の信頼を損ね、ひいては
政治との緊張関係を失うことにもなりかねない。


◆4> 中長期の視点を持つ


  メディアは政治の劣化に手を貸してはならない。
  だが、制度が政治をゆがめることがあり、これを見逃し放置すると、劣化は進
み続ける。新聞は「ねじれ国会」「強い参院制度」までは制度の問題点として指
摘するのだが、本体の衆院の選挙制度には触れない。ある論説委員は「小選挙区
制はもう少し見守る。二大政党がともに政権を経験すれば、たがいに歩み寄り協
調できるよう、学んでいくのではないか」といった。しかし、5回の小選挙区選
挙で、政治家の小粒化、未熟な組織政党離れ、死に票の黙殺、政党得票率と議席
数のアンバランス、などすでに問題点は事実をもって証明されている。
 
  さらに、小選挙区制を生んだ細川護煕、河野洋平をはじめ、谷垣禎一や加藤紘
一ら、多くの政治家が疑問や反省を述べているが、メディアはその問題点を追及
しようとしない。政党の利害は厄介で、そう簡単には改革できないからこそ早い
問題提起をメディアが果たしていかなければならない。もうすこし遠い先の展望
を持たなければ、ジャーナリズムの責務は果たせまい。また、景気の沈滞、少子
高齢化のなかでの1000兆円に上ろうとする国債の問題も、長期的な点検と国民的
理解のアピールが足りない。これも、その日暮らし的報道と映るのだ。

 新聞記者は日々の動きに敏感で、またその動きに追い回される。そのために、
目先の動向が気にかかり、それを追うことが仕事になる。それは記者の宿命であ
り、やむを得ない一面だろう。また、このような動きに鍛えられて、冷静な判断
力が養われ、自ら伸びていくことも事実である。
 
  しかし、世の中が複雑に絡み合い、イエスかノーか、是か非か、賛成か反対
か、ではすまされない多様化した社会では、学ぶ時間がいっそう必要になる。
ネットで調べるなど便利さは増したが、やはりじっくりと本を読み、奥行きある
思考力判断力を伸ばさないと、社会の動きに付いていけない。そういう時代に、
旧来のままの記者のありようでは、新聞紙面は説得力ある指針や分析、展望を示
すことはできない。
 
  では、どのようにするか。
  やはり学ぶ時間を、新聞企業は記者たちに与えるべきだ。確かに、かつての記
者は家庭を顧みる暇もなく、それでも面白くてしょうがない日々を送ったが、い
まはそのハードな労働環境もかなり改善されてきている。しかし、学ぶ時間は就
業の一環として確保されるべきだろう。新聞企業は、恒常化した広告と部数の減
少で経営も厳しい。しかし、紙面の質の低下を招いては新聞の存続に関わってく
る。

 無理をしてでも、記者生活の一時期一定期間、特定のテーマある記者を研究セ
ンター的な場に、ノルマなしに投入したらいい。海外に派遣する特派員にして
も、一定の準備期間を持たせれば、その国・地域についてより深い洞察力を持つ
だろう。それに、優れた記者は必ず将来に生きる財産を蓄え、紙面に還元する。
いま、都会型の全国紙は「農業」問題の専門家をほとんど持たない。だから、
TPP問題総体についての見識が示されず、右往左往している。農協の存在にも
メスが入らないままだ。多くの問題をはらんでいる自治体の行政についても、定
点観測のような調査報道はされていない。残念なことである。
 
  こうした先行投資が、新聞の信頼を高める。もともと優れた新聞記者がいるの
ではなく、環境がいい記者を作るもので、それは新聞社のこれまでの歴史が雄弁
に物語っていよう。中長期の視点を持った新聞記者を多く抱えることは、そのよ
うな環境を整えることだといっていいだろう。
 


◆5> 小さいことだが・・・


  最後に 二、三の提案をしたい。
○ひとつは、地方議員や首長も含めて、政治家が反社会的な行動をとったり、警
察沙汰になったりして、ニュースに登場するときには、その選挙区、所属なり推
薦の政党党派などを書いてほしい。これは選出した地域や選挙母体を示すこと
で、その選挙区民に知ってもらうとともに、送り出した「責任」を考えてもらう
ためだ。

○第二は、政治記事では、匿名の政治家が激しい批判や中傷の弁を記者に漏ら
し、新聞もその発言をテコに責任論や退陣論などのトーンや見出しを作るケース
が目立っている。こうした発言には責任を持ち、また読者が影響力ある発言かど
うかを判断できるよう、本来 実名にすべきである。取材記者にとっては、政治
家との関係上匿名が便利であろうが、政治局面を動かすような物言いには読者の
納得が得られるような記事として提供すべきだろう。

○三つ目だが、新聞記事は、思いのままに物言いのできるテレビのキャスターや
コメンテイターとは違って、客観報道に属する「雑報」と、個人的ないし企業的
意見を記す「論評」とを厳密に分けて、雑報記事に主観的と受け取れる表現は使
わない。だが、これが時折崩れているケースが見受けられる。この原則は守るべ
きことだ。これを見逃すデスクは、その力量が問われるだろう。

 メディアのうち新聞を取り上げたが、影響力の強いテレビはいわゆるタレント
族が起用されることの多いコメンテイターの質、同じ方向の意見でテーマをまと
めてしまうスタンピード現象などをはじめ、さらに多い問題点を抱えている。い
つかそのあたりにも触れてみたい。<敬称略>

(筆者は帝京平成大学客員教授・元朝日新聞政治部長)

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