【オルタの視点】

新潟県野党共闘前史 ― 新潟米軍飛行場拡張反対運動(2)
反対運動の実相

仲井 富


◆◆ 相次ぐ強制収用に抗議し、県民ぐるみ反対運動へ 組織化と大衆動員

 新潟米軍飛行場拡張反対闘争の歴史は、唯一、新潟県教職員組合史第2巻に8ページにわたって掲載されている。以下はその概要である

 新潟飛行場は戦前、小さな民間航空基地だった。戦時中は操縦員養成所となって敗戦を迎えた。そして米軍の進駐に伴って1945年7月1日、23町歩の農地が占領軍の圧力で一方的につぶされて一文の補償もなかった。さらに1952年11月、第二次接収で農地2町2反、第三次接収で農地27町歩がつぶされた。そしてさらに1954年11月25日、調達庁は第四次計画を発表した。
 拡張計画は、①農地約70町歩、②土地所有者240人、③所帯42所帯に及んだ。これから1958年3月返還まで足かけ3ヵ年にわたる、県民ぐるみの闘争が展開されるのである。同じ時期に砂川町の米軍基地拡張問題が起きたが、新潟より半年遅く、1955年5月4日、調達局から砂川町長に対して、5万2,000坪の拡張計画が示された。ともに合い呼応して反対闘争の連携共闘が始まるのである。

 米軍飛行場拡張反対闘争はまず同年12月に入り、川渡新町はじめ関係4部落が反対を決議し、新潟県知事に陳情、社会党、農民組合、新潟大職組、学生自治会等の反対運動も盛り上がり、12月20日、新潟大学自治会が街頭署名運動を始めた。年明けて1955年1月14日、地元農民、日農三派、新潟大農学部、県労協、社会党、共産党などによる「新潟飛行場拡張反対期成同盟」が結成され反対運動を統一した。
 同盟はまず、その闘争方針の中心を、地元農民の結束と、知事、市長、県議会、市町村議会に反対決議を上げさせることに置き、4月の知事選には、北村一男を拡張反対の立場に立たしめて、当選させた。こうして県民ぐるみの構想の下に反対運動は盛り上がったが、鳩山政権の動きもまた活発化した。

 1955年5月6日、福島調達庁長官が新潟に来て、5月12日~8月13日の立ち入り調査の実施を通告した。反対同盟は直ちに福島長官と交渉を持ち反対を通告、また村田新潟市長、北村県知事もそれぞれ反対を表明。さらに5月24日新潟市議会、5月25日新潟県議会がそれぞれ反対決議を行い、市長会、町村長会をはじめ各種団体もぞくぞくと反対決議を行い、全国に例のない県民ぐるみの闘いが着実に進められた。こうした反対運動の盛り上がりには、全国的に珍しい野党共闘による知事選挙の勝利がその背景にあった。

 新潟県だけは終始、新潟県知事、県議会、新潟市長、市議会ともに最後まで反対の姿勢を崩さなかった。砂川米軍飛行場拡張反対闘争と時を同じくしながら、砂川は流血の闘争となったが、新潟米軍飛行場拡張反対闘争は一人の犠牲者もなく、いわば無血の完全勝利を勝ち取ったのである。その最大の要因は、当時の左右社会党、共産党、県労協、農民組合などの革新系団体が統一候補として、保守系参議の木村一男を担いで、保守系の岡田知事の三選を阻止したことにある。

◆◆ 北村知事野党候補として26万票差で現職岡田を破る

 これについて奥澤久夫著『北村一男の生涯』が要旨以下のように述べている。

 ――戦後の民選知事には、官僚知事と違って、意欲と実行力のある人たちが次々と現れた。特に岡田は典型的なタイプで、後進県新潟の開発と繁栄のため、自ら推進力となって進めた。もっとも経済基盤がそれほど強くない本県に、多額の予算を要する大事業に着手したから県財政の赤字は累積し、昭和29年度決算には24億円余に膨れ上がった。それが昭和30年4月の三選を目指した岡田の前に立ちはだかった。

 また、岡田には政党的ないざこざが付きまとっており、彼は改進党系の政治家で、同党の県会議員にもなっていたが、知事就任後は次第に改進党、民主党から自由党に接近した。特に知事の二期目は吉田内閣の時代であり、中央政界のバックアップを受けて、強力に県政を推進するため自由党寄りになり、それに対して民主党では、岡田への不信感を増幅させていた。

 一方、野党の左右両派社会党は岡田県政の財政赤字を厳しく追及し、知事の交代を望んでいたが、党内に適任者がなかった。1955年2月の総選挙で実弟稲村順三の身代わり候補となって当選した左派社会党の稲村隆一は、個人的に親交のあった参議院議員北村一男と密かに接触していた。1955年3月18日、新潟県選出の民主党8人が会合し、北村に知事選出馬を要請。3月24日北村は知事選立候補を宣言し自由党を離脱した。北村の説得が不調に終わった自由党県支部は、3月28日に現岡田の推薦を決定した。
 左右両派社会党県連は3月26日に、また民主党県本部は3月30日に、それぞれ正式に北村支持を決定した。自由党員である北村を民主党が積極的に支持し、民主党から出た岡田を自由党が推薦するという奇妙なねじれ現象が、県内保守政界を混乱に陥れたが、自由、民主両党とも必ずしも常に一致結束したわけでなかった。ただ、左右両派社会党、県労協(新潟県労働組合協議会)などの革新勢力が、保守政治家北村一本にまとまったことは注目された。

 知事選挙告示の3月29日、現職知事三選をかけた岡田候補は二期8年の実績を誇示し、農業、工業の併進による本県の繁栄を力説し、県は赤字になっても県民のフトコロは黒字になっていると主張した。これに対し、北村候補は専ら子孫のために赤字を残すなと訴え、農林政務次官の経験を生かして、農商工循環政策を力説した。4月23日県内を二分した知事選挙の投票が行われ、83%をこす高い投票率となった。開票の結果、北村が25万8千票差で大勝した。――

◆◆ 衆議院内閣委員会における参考人陳述 箱岩善一 馬場敬博

 1955年6月3日、衆議院内閣委員会で、新潟、砂川、横田、木更津、小牧、板附等の米軍基地拡張計画に反対する代表による参考人陳述が行われた。そのトップに新潟代表の箱岩善一(反対期成同盟事務局長)と馬場敬博(地元農業者代表が立った。両参考人は要旨以下のように陳述した。

●箱岩参考人 新潟飛行場第四次計画の当該地域は新潟市の都市計画の中心地帯であり、この地域がもし拡張されるとするならば新潟市の将来の都市計画が全部めちゃめちゃになるわけであります。四十二戸の住宅や、七十町歩の耕作者に、適当な金を出せばいいではないかというような問題ではない。
 赤い鉛筆で表示をされておりますのが今度の拡張予定地であります。さらに青い鉛筆で表示をされているのが道路であります。従ってこの青い道路というのは、御承知のように、新潟市と隣接するところの松浜あるいは南浜というところの郊外の地域とを結ぶところの最も大切な県道であります。従って地図にごらんになるように、この県道が今度の計画ではめちゃめちゃになってしまうわけであります。中国でも、ソビエトでも、あらゆる国と自由に貿易をすることによって、新潟市の繁栄が保たれるわけであります。そういう重要なところに米軍の巨大な飛行基地を拡張されるということは、新潟市の将来の発展のためにも全くのど元にあいくちを突きつけるものであり絶対に承服できない。新潟では再軍備反対の方も、賛成の方も、こぞって満場一致反対をされるという理由はここにあるのです

●馬場敬博参考人 私は新潟飛行場拡張反対地元の代表であります。職業は僧侶であります。まず拡張によりまして直接拡張の対象となるところの部落面におきましては、関係するところの部落民の数は河渡地区約五十世帯、松崎地帯約六十世帯、その他多数に上っておる。しかも第三次の問題につきましてはいまだ解決も見ず、部落民は数次にわたるところの当局の甘言にだまされて、その土地を取り上げられ、しかも補償の問題もなお解決していない。
 耕地面におきまして、飛行場から流れ出るところの汚濁水が、直接水田に流しっぱなしであり、また畑地のある耕地には、牛街道というところでありますが、その耕地におきましては、駐留軍の石炭がらを一メートル以上も高く堆積して、全く耕地として使用するにたえない。何とかお願いしたいという死の叫びに対しても、何らの補償も与えてくれない。河渡地内にあります新潟大農学部におきましては、今でさえも飛行機の爆音によって授業も満足にすることができない、これ以上拡張されたなら全く農学部は廃校の運命にあります。
 河渡部落におきましては、ほとんど連日連夜この問題のために集まりまして、苦闘を続けておるわけでございます。箱岩参考人の方からも申されましたごとく、拡張が容認せらるるならば、幼い子供たちはあのジェット機が飛ぶごとに頭をかかえ、地べたに匍匐するありさまで、病人等に至りましては、こんな状態が続くならば私はもはや死んでもよろしいと言い、またいわゆる赤線区域というものが設定され、現にその第一歩が現われておるようなわけであります。教育面におきまして、風紀の面におきまして、実に今後の状態というものは、アメリカの植民地に化してしまうということは必然であります。

◆◆ 最大の陳情行動 東京国技館に新潟から1,091名が夜行列車12両で上京

 新潟飛行場拡張反対期成同盟の最大のイベントは、1955年11月21日の大陳情団の上京だった。「列車十二両にギッシリ 陳情随行記 田園の怒りを都へ各県で盛んな歓送風景」「鉄傘ゆるがす大歓声 国技館で結成大会 全国の支援団体も参加」(新潟日報1955.11.21夕刊)。「中央へ陳情団が出発 新潟飛行場の拡張阻止へ千九十一名が参加 県民ぐるみの闘争展開」(同日報1955.11.21.)などと報じた戦後最大の米軍基地拡張反対の全国集会だった。
 1955年11月21日早朝の上野駅着、社会党軍事基地委員長加藤勘十、三宅正一、桜井、石田、稲村、清沢、小林の衆参議員が出迎え、両国国技館で砂川、大高根、木更津、茨城神之池、福岡板付など全国から合流、総勢約1,500名の大陳情団が結成された。10時半28台のバスに分乗して調達庁、自治省、農林省、首相官邸、米国大使館、防衛庁、大蔵省など氷雨を衝いて陳情。午後3時半から浅草公会堂で報告大会後、夜11時半発夜行列車で帰郷した。

 2013年1月27日、オール沖縄の『オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会』が主催した「NO OSPREY 東京集会」には全国各地から4,000人以上が参加したが、1県単独で1,200名の大代表団が参加したのは、戦後の基地反対闘争としては空前絶後のことである。オール沖縄に先立つこと64年前に、オール新潟の米軍基地拡張反対闘争が、県知事を先頭に米軍飛行場拡張反対で先駆的な運動を展開していたのだ。当時はテレビもほとんどなく、主な報道手段は、新聞とラジオだった。砂川では1956年の1,000名の重軽傷者を出した砂川事件は、朝日新聞が「暴徒と化した警官隊」という大見出しで報じた。しかしオール新潟で結集した新潟米軍飛行場拡張反対闘争は、一兵も損ずることなく、1958年3月、米軍撤退を勝ち取った故に忘れ去られていた。しかも新潟米軍飛行場拡張反対闘争の歴史は、新潟県教組以外、見るべき闘争史は残ってゐない。新潟県教組の資料にも、重要な部分が欠落しているところがある。しかし、同教組の資料の末尾に注目すべき項目があった。それには以下のように記してあった。「またこの闘いが県民ぐるみに盛り上がるまでの組織化の一大要因として、各社新聞記者の活躍をあげなければならない。特に朝日支局の中瀬記者、日報滝記者の活躍は特筆すべきであり、今もなお関係者の間に忘れがたいものが残っている」。

◆◆ 温故知新の旅ふたたび 中瀬記者をめぐる因縁話

 当時の報道機関が新聞とラジオ主体であったことを思えば頷けるところがある。しかもその朝日新聞の中瀬信治記者は、60年安保闘争後、浅沼刺殺後の委員長代行となった江田三郎委員長代行時代の社会党担当記者だった。そして1977年の5月、社会党を離党して急逝した江田三郎の追悼記を書いているさなかに急死した。その中瀬記者の追悼記『回想の中瀬信治』には、新潟日報の滝秀則記者(当時新潟日報校閲部長)が「忘れ得ぬ取材態度」という追悼文を書いている。
 さらに、11月の新潟行きで、新潟県立図書館で検索した『新潟県史 通史編9 現代』には、新潟米軍基地拡張反対運動の記述は3行しか載っていない。これも奇怪なことではある。これも次号以下で追究してみたい。

 オルタ1月号で新潟米軍基地反対運動を訪ねる旅に新潟に出かけて「新潟米軍基地反対運動の源流を訪ねる温故知新の旅」という話を書いたが、さらに広げれば人生は常に温故知新の旅として存在することを85歳の私は強く実感する。

<参考資料>
 ①新潟日報
 ②新潟県教職員組合史第2巻
 ③奥澤久夫著『北村一男の生涯』個人出版
 ④回想の中瀬信治―中瀬信治回想文刊行委員会
 ⑤新潟県史 通史編9 現代

 (世論構造研究会代表)

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