日本の「領土問題」を問う  ~私的体験と「東京発」の対比から

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日本の「領土問題」を問う                田中 良太

   ――私的体験と「東京発」の対比から――
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  いま語ると「ウソだろう」と言われたりするが、私は1964年7月、毎日新
聞の入社試験のとき、最終の役員面接で「領土問題」論争を展開してしまった。
当然、「これでダメだったな」と思っていた。しかし意外にも結果は「合格」だ
った。この体験は、日本の「領土問題」の本質と深くからまるものだと思うので、
「オルタ」に寄稿し、皆さまのご批判を仰ぎたいと考えた。

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◆就職面接で領土論争

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 役員面接で領土論争となったのは以下のような経過による。当時新聞社の入社
試験では、身上書に「支持政党」を書かせるのが普通だった。「自民党」などと
書くヤツらは軽蔑すべきだと「硬派」を気取る学生も多く、私もその1人。当然
のように「社会党」と書いた。

 役員面接で向かって左端に座っていた小柄な男が、しつこく私に質問した。最
初は
「君は社会党支持と書いているが、江田派と佐々木派が別れて対立している二本
社会党>だ。どちらがいいのかね」
だった。

 「どちらかといえば江田派です」と答えた。いま民主党にいる江田五月氏(前
参院議長)はそれ以前から友人の1人だったから、まるっきりの嘘ではない。そ
の後さまざまな質問を受けた。大学は文学部社会学科なのだが、何を学んでいる
か?とか、卒論を書くのか? そのテーマは? など「人定訊問」めいたしつこ
さだった。

 最後に「二本社会党」の人が再び口を開いた。
「君は北海道出身だね。社会党の人は沖縄返還を声高に叫ぶが、北方領土返還と
はほとんど言わない。それはおかしいとは思わないかね」

 このあたりで私は抑えが効かなくなった。「もうこんな新聞社には入らなくて
もいい」と考えた。そこで「演説」を始めてしまった。

「お言葉ですが、沖縄と北方4島の返還要求が、同じ強さでなければいけないと
いう主張はおかしいと考えています。沖縄では90万人の日本人が生活しており、
現地の人たちが祖国復帰を求める強い運動も展開されています。北方4島には、
いまでも住んでいる日本人はいないと聞いています。ですから現地住民による復
帰運動もありません」

 当然、座はしらけた。気まずい空気の中で、中央に座っていた人(社長?)が、
「じゃあこの辺で。ご苦労さん」
と言い、私も「有り難うございました」
と言って終わった。

「これで毎日は落ちた」と思った。NHKと共同通信に願書を出しており、1次
の筆記試験はパスし、面接の呼び出しが来ていた。「なんとか潜り込めるだろう」
と考えることにした。

 その毎日からは「採用」の通知がきたのにはびっくりした。
  入社後数年経過してから分かったことだが、「小柄な男」は当時の論説委員長
だった。外信畑の人で、当時の新聞が抱えた大問題「中国呼称問題」に一家言あ
った。
「<中共>というのは、正式国名<中華人民共和国>の略なんだヨ。<中国共産党>の
略というのは俗説にすぎない」

 そのころ「中共」としてきた隣国の新聞紙面での表記を、「中国」に変える動
きが進行中だった。朝日はもちろん読売も、その時点で「中国」とし、毎日はい
ちばん最後まで、「中共」のままにしていたはずだ。論説委員長氏の一家言こそ、
「中国」への移行を阻んでいた元凶だった。

 当時の毎日も、経営陣の中では「中国への移行が時代の流れ」という認識が支
配的だった。理屈優先で、「中共」にこだわった論説委員長氏は嫌われていたら
しい。

 入社試験の最終面接で、この論説委員長氏を理屈でやりこめたヤツがいる。
「面白いじゃないか」ということになったという。自分では「ああやっちゃった。
大失敗」と思っていた「演説」が、逆に評価されたというのだから、不思議なこ
とだった。いまでは起こりえない事態だろう。

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◆原点だった引き揚げ住宅

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 私の出身地は北海道胆振管内の東北端、穂別村(その後町制、現在合併してむ
かわ町)だった。そこにも「引き揚げ者住宅」があり、千島・樺太から引き揚げ
た人たちが住んでいた。中学、高校時代の友人の中には、そこに住んでいた人も
いる。その中に、生まれ故郷であるはずの千島などに「帰りたい」という人は一
人もいなかった。

 じつは私の生家も「外地」暮らしだった。両親は北海道小樽市の出身だったの
だが、早々と旧満州に行って生活していた。母の話では、1941(昭和16)
年に、「満州で暮らしている日本人が、本土に帰ることが自由にできるのは今年
限り」という布告のようなものが出たという。夫婦で相談したところ、「やはり
本土に帰りたい」ということになり、北海道で職探しをした。

 穂別村にはレアメタルの鉱山があった。父はその鉱山会社の事務員となること
ができた。41年暮れに「帰国」し、私は42年10月その穂別村で生まれた。
兄2人はともに満州生まれだが、もちろん私の両親も兄たちも、満州が再び日本
のものとなったと仮定しても、「満州に帰る」などと言い出すことはなかったは
ずだ。

 沖縄住民の祖国復帰運動は理解できたが、北方領土返還要求は、「誰が望んで
いるの?」というのがホンネだった。だからこそ「沖縄と北方領土は違う」とい
う演説になってしまったのである。

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◆官製の「北方領土復帰」国民運動

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 こういう経過があったから、新聞記者になってからも北方領土問題にはこだわ
り続けた。私は1980年5月から政治部所属となり、総理府(当時)や外務省
も担当した。領土問題に関わる役人たちと取材と雑談を兼ねたような会話を交わ
した。その結果たどり着いたのが、北方領土返還要求を強めたのは、外務官僚た
ちだという「強い推測」である。事実とまでは言えないが、私自身は確信に近い
ものを持った。

 根室市を中心にした地域には、「島に帰りたい」と願っている旧島民が多数暮
らしていると、国は喧伝している。しかしこれはあまりにひどいフィクションで
ある。サンフランシスコ平和条約が発効し、連合軍総司令部(GHQ)による日
本占領が終わったのは52年4月だった。当時のソ連もまた、連合軍を構成する
一員であったから、占領下の日本政府にとって「北方領土問題」はタブーだった。
占領終了によってそのタブーはなくなった。吉田(茂)自由党の政府は、東西対
立の国際社会の下で「西側の一員」というポジションを選択した。

 北方領土問題を取り上げるため、翌53年に「旧島民調査」を実施した。唯一
のポイント「北方領土に帰りたいか?」については、「帰りたくない」が圧倒的
多数だった。当然のことであろう。終戦時に北方四島から北海道など各地に引き
揚げ、それぞれ生活を築いてきた人たちなのだ。辛酸を舐めながら、ともかく帰
国後の生活を成り立たせた。また元の島に戻れと言われても、「困ります」と言
う以外ない。

 私が毎日の入社試験を受けた64年の時点では、北方領土返還の「国民運動」
などなかった。歴史年表(岩波書店「近代日本総合年表第三版」を愛用している)
を見ると、初の「北方領土復帰促進国民大会」が東京で開催されたのは1968
年10月19日だったことがわかる。

 翌69年5月22日、「北方領土問題対策協会法(北対協法)」が公布された。
政府に北方対策本部(総理府所属)が置かれ、国民運動を展開する組織として北
対協が設置される。毎年2月7日を「北方領土の日」とする▼北対協の下に全国
各都道府県に「北方領土返還要求県民会議」を設置▼各県に北方領土問題担当課
を設ける――。こういうことは全て北対協法に定められた措置だった。

 73年9月20日には、衆議院本会議が初の北方領土返還要求決議を全会一致
で採択した。以後繰り返し行われた国会決議の嚆矢である。

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◆沖縄基地永続のために

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 どうしてこの時期に北方領土返還要求が急速に高まり、新たな「国民運動」が
生まれるような動きになったのか? 
  周知のように沖縄返還は71年6月、日米両国が協定に調印、72年5月施政
権の返還が実現した。沖縄返還を最大の政治課題に押し上げた佐藤栄作政権は、
69年11月に誕生した。68、9年はまだ池田勇人政権で、「沖縄返還」への
取り組みなど、それほど強いものだはなかった。

 しかし米国はその時期すでに、沖縄の施政権を早晩、日本に返さなければなら
ないと考えていたはずだ。米国は沖縄基地を、東アジア全体をにらむ戦略上、極
めて重要と位置づけていた。台湾、韓国にも米軍基地はあったが、ともに分裂国
家で、政権の安定性が盤石とは言えない。フィリピンにはクラーク空軍、スビッ
ク海軍の両基地があったが、80年代には「反基地」の世論が高まった。フィリ
ピンは1898年の米西戦争によって、スペインから米国に譲渡された。その後
米国の植民地だった歴史があり、米軍基地は植民地時代の残滓だった。

 それ以後のことになるが、86年2月の民主化革命で、マルコス大統領夫妻を
追放すると同時に憲法を改正し、米比基地協定期限切れの89年以降の外国軍受
け入れには、上院の3分の2以上による承認が必要という厳しい条件をつけた。

 基地継続使用をめぐる米比交渉が最後の山場にさしかかろうとしていた91年
6月、ピナトゥボ火山の噴火によりクラーク空軍基地は降灰のため使用不能とな
った。米軍は同基地の放棄を迫られ、継続使用を求めるのはスービック海軍基地
だけになった。スービック基地についてアキノ政権は米国との間で新協定を締結
したが、上院は旧協定期限切れの9月16日夜反対12賛成11で批准を否決し
た。3分の2の賛成が必要なのだから、反対が賛成を上回ったことは「大差」だ
った。

 韓国・台湾・フィリピンの基地について米国は、1960年代からシビアな見
方をしていたのではないか? だからこそ沖縄基地は、手放してはならないもの
だったのである。施政権を米国が持ち続けるなら、「反基地」の民意は強まるば
かりだ。施政権を返還し、沖縄統治を日本政府の手に委ねた方が、沖縄基地は
「長持ち」する……。こうした認識は、60年代から米国にあったと思われる。

 だからこそ米国は、1960年代から日本の外務省を動かし、「北方領土返還
の国民運動」をつくらせた……。私は外務省の幹部たちに、何回かこの推測をぶ
っつけたことがある。「新聞記者さんの推理としては100点満点」と言った外
務省高官もいたのである。

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◆道庁職員が化けた地元住民

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 1981年夏、中山太郎総理府総務長官(当時)が、大臣として初めて北方領
土を視察した。このとき総理府担当だったので、同行記者団の一員となった。根
室市から納沙布岬に行き、歯舞諸島を見る。その後中標津町に移動、野付崎から
国後島を見るといったコースだった。同行した朝日新聞の記者が、札幌から転勤
したばかり。行く先々で歓迎陣の中に知り合いがいるらしく、言葉を交わしてい
た。

「ずいぶんいろんな人を知ってるんだネ。このあたりを担当していたこともある
の? 」と訊いた。
「イヤ、みんな道庁の役人ですヨ。彼らもバスを仕立てて、同行してるんです。
われわれと同じですヨ」という説明だった。その道庁の役人たちが、「歓迎」の
地元住民に化けていたのだ。まさに「官製国民運動」そのものの情景だった。

 領土問題で争いのあるのは北方領土に加え竹島(韓国名・独島)尖閣諸島(中
国名・釣魚島)の3つの島群である。北方領土にかつては日本人が、いまロシア
人が住んでいるだけで竹島・尖閣諸島は無人島である。

 この3つの「島」ともに、「住みたい」という日本人は皆無であろう。それな
のに領有権を主張する人々には何の知性も感じられない。知能レベルという言葉
は使いたくないが、他人の持ち物なら何でも欲しがる乳幼児程度と言うよりほか
ない。

 私の故郷の旧穂別村は、香川県(47都道府県中、面積は最少)の3割程度の
面積がある。私が18歳で村を出たころが人口は最多で、1万人をわずかながら
上回ったこともある。しかしその後、人口は減り続け、現在旧町域には3千人足
らずしか住んでいない。「領土要求をするぐらいなら、現国土から超過疎の『限
界集落』をなくしてほしい」というのがホンネである。

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◆「民族国家」とほど遠いドイツの国境線

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 本誌読者諸兄姉は当然ご存知のことだろうが、ヨーロッパの領土問題は比較に
ならないほど深刻だ。国境紛争のある地域では、複数の民族が入り交じって住ん
でいる。よく知られているのが、仏独国境のアルザス・ロレーヌ問題である。こ
れはフランス語の呼称で、ドイツ語ではエルザス=ロートリンゲン問題となる。
フランス人とドイツ人が混住しているのである。この場合の「フランス人」「ド
イツ人」はともに、国籍ではなく、民族を示す。

 国籍、民族とは別に、人々は使用言語によって区分されることもある。この地
域では、フランス民族はフランス語を、ドイツ民族はドイツ語を、それぞれ話す。
しかし現在(第2次世界大戦後)はフランス領となっているので、学校の授業は
フランス語で行われている。民族意識の高いドイツ人の場合、家庭ではドイツ語、
学校ではフランス語となる。

 家庭と学校で「バイリンガル」を強いられる子どもの暮らしをテーマに書かれ
た短編小説にアルフォンス・ドーデの「最後の授業」がある。アルザス・ロレー
ヌが明日からドイツ領となるから、フランス語の「最後の授業」となるという設
定であったと記憶する。何故かこの短編小説が国語の教科書に載っていたという
記憶がある。

 ドイツ民族が他国で暮らすことになっている地域としてはポーランドのグダニ
スク市とその周辺地域がある。ポーランド北部、ウィスラ川河口に位置し、バル
ト海にのぞむ都市である。グダニスク、ウィスラ川はともにポーランド語の呼称
であり、ドイツ語ではダンツィヒ、ヴィスツラ川となる。

 神聖ローマ帝国が成立した10世紀ごろからドイツ人の植民が盛んになり、ポ
ーランド領域内のドイツ人居住区ダンツィヒ回廊と呼ばれるようになった。13
09年には「ドイツ騎士団領」となり、1793年にプロイセン(プロシャ)領
に編入された。

 ナポレオン戦争末期の1808年から再び独立、同14年にはプロイセン領に
復帰した。第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約(1919年6月)では自由都
市とされ、ポーランドの関税圏に入った。しかしナチスドイツは、ダンツィヒ回
廊の領有を強く主張、第2次大戦開戦(39年1月)と同時に、ドイツに編入し
た。第2次大戦後は、ポーランド領とされた。

 ダンツィヒ回廊と同様のドイツ人居住地に、現在チェコ(旧チェコスロバキア)
領となっているズデーテン地方がある。ここもドイツ語を話すドイツ人(民族と
しての)が、20%を上回るといわれ、ナチスドイツはドイツ領とした。

 第2次大戦後の国境線を見るなら、ドイツ人居住地域は6カ国に分割されてい
たことになる。ドイツ人の国としては、西独、東独のほか、オーストリアがあっ
た。ほかにアルザス・ロレーヌ(仏領)ダンツィヒ回廊(ポーランド領)ズデー
テン地方(チェコスロバキア領)の3地域である。

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◆ヘルシンキ宣言からソ連・東欧圏崩壊まで

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 日本と同じ敗戦国である西独にとって「領土問題」は、日本とは比較にならな
いほど深刻なものだった。「にもかかわらず」と言うべきかどうか、1975年
に第2次大戦終戦時に確定した国境線の承認を決断した。

 この年、フィンランドの首都ヘルシンキに、アルバニアを除く全欧州諸国と、
米国、カナダの計35カ国の首脳が集まり、全欧安保協力会議(CSCE)を開
催した。そのときの最終文書である「ヘルシンキ宣言」は欧州のデタント(緊張
緩和)をうたったのだが、その当然の前提条件が国境線の承認だったのである。

 当時の西独はシュミット政権。前任の首相・ブラントに次ぐ社民党政権だった。
だからこそヨーロッパの平和を最優先し、「ドイツ民族」意識はあえて放棄する
道を選んだのだと思われる。この大胆な選択によってヨーロッパのデタントはい
っそう進展した。

 85年3月、ソ連共産党書記長にゴルバチョフが就任。ペレストロイカ(改革)
・グラスノスチ(情報公開)路線をとった。その後は東欧諸国の民主化革命とソ
連の民主化が同時進行し、1989年11月ベルリンの壁が崩壊▼1990年1
0月東西ドイツ統一▼1991年12月ソ連の消滅など、東欧社会主義圏とソ連
の崩壊という歴史的な大展開に発展していった。

 西独が抱えていたのは、単純な「領土問題」ではない。「ドイツは民族国家た
りうるか?」という他国にはあり得ない深刻な問題だった。ドイツは東西両ドイ
ツの分裂国家であり、さらにオーストリアもまたドイツ民族の国家であった。ド
イツ民族はそのほかポーランド、チェコなどにも住んでいる。現実に大半の住民
がドイツ人である土地を放棄しなければならなかったのが第2次大戦後のドイツ
であり、ヘルシンキ宣言のさい、それを再確認したのだ。

 深刻な問題だから、国民的な論議が展開されたはずである。だからこそ「ヘル
シンキ宣言」を受け入れるという大胆な選択があった。そして東西対立という国
際社会の構図事態を崩すという歴史の原動力となったのである。

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◆あまりに軽い日本の領土騒ぎ

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 この「ドイツの選択」を考えるなら、日本の「領土問題騒ぎ」はあまりに軽い。
北方領土、竹島の両問題は、相手国が実効支配している地域なのだから、日本に
とって「実害」はない(北方領土周辺にロシアが設定している漁業選管水域内で、
日本の漁船が「入漁料」を支払ってサンマなどの漁をしているのが事実だとする
なら、その入漁料が高騰するといったことがあるだろうが、日本国として正面か
ら向き合うことのできない問題だ)。これに対して尖閣諸島は、日本の実効支配
が定着した地域だから、「問題」が顕在化すること自体、日本にとってマイナス
でしかない。

 今回の「尖閣諸島騒ぎ」の発端は、東京都知事だった石原慎太郎氏が今年4月
16日午後(日本時間17日未明)、米ワシントンで講演し、尖閣諸島を都が買
い上げる構想を明らかにしたことである。このとき正確には、最大の魚釣島と北
小島、南小島の3島で、将来的には男性の親族が所有する久場(くば)島の取得
も目指すという構想。島の所有権を持っていた埼玉県の男性の同意を得ており、
年内の取得を目指すと語った。石原氏にしては珍しく、単なる思いつきで言った
のではなく、「都による買い取り」を実現させるという意思表示だったのである。

 このとき石原氏は「尖閣諸島は日本の固有の領土で、沖縄返還の時に帰ってき
た。(中国が)俺たちのものだと言い出した。とんでもない話だ」「本当は国が
買い上げたらいいが、びくびくしてやらない」「東京が尖閣諸島を守る。どこの
国が嫌がろうと、日本人が日本の国土を守るため島を取得するのに何か文句があ
りますか」などと語った。

 明らかに中国が「わが国の領土」と主張していることを意識し、中国を挑発す
ることが目的だったのである。「石原語」で中国は後進国「シナ」である。先進
国・日本は、中国と友好関係を増進させることなどとんでもない話で、シナと戦
うことこそ美しいのである。

 5月13日、北京の人民大会堂で行われた日中首脳会談で温家宝首相は野田佳
彦首相に対して、尖閣諸島は中国領との立場を主張した。これに対して野田首相
は「尖閣を含む海洋での中国の活動の活発化が日本国民の感情を刺激している」
と、日本の立場を主張した。

 6月11日の山梨県・山中湖そばのホテルで行われた日中外務次官級の戦略対
話でも、中国外務省の張志軍次官は「両国の政治基盤を損なうことは断固阻止す
べきだ」と牽制。佐々江賢一郎外務次官は「尖閣の平穏かつ安定的な維持・管理
が重要だ」と述べた。この発言は、国有化の検討を示唆したものであることは明
らかだった。

 野田首相は7月7日、尖閣諸島国有化を検討する意向を表明。中国は驚きを隠
そうとせず、態度を硬化させた。7月7日は、日中全面戦争の契機になった盧溝
橋事件(1937=昭和12年)が起きた、中国が重視している記念日。中国は
「日本政府に圧力を加えて国有化を進めるという石原氏の狙いに乗り、日本政府
は茶番の主演を演じるつもりか」(新華社)と猛反発した。

 4日後の同月11日には、中国の漁業監視船3隻が領海に侵入した。「国有化」
の方針に、強く反発するのが「国の意思」であることを行動で示したのである。

 私自身は中国の実態に詳しいわけではないが、タテマエ上、土地は国有となっ
ているようだ。「国有化」は、日本では単なる所有権の移転であり、領有権問題
と何の関わりもない。しかし中国では、「国有化」こそが、日本の領有権を明確
にするための、日本政府の行為と考えているようだ。

 野田政権は、中国の反発がホンモノであることを読めず、9月11日「国有化」
を断行してしまった。旧所有者から買い上げた価格は20億5千万円という法外
な高値であり、それもまた国有化=領有権を具体化する行為、という中国政府の
解釈を正当化することになった。その2日前の9日、野田首相はアジア太平洋経
済協力会議(APEC)首脳会議の場で胡錦濤総書と会った。胡総書記は首相に
国有化への反対を表明したのに、それは無視され、中国政府内では胡氏のメンツ
が潰されたという結果になった。

 野田政権が尖閣諸島国有化を急いだのは、「石原都政が買い取ると何をするか
分からない」という思いにとらわれ、さらに21日投票だった民主党代表選を前
に、領土問題で「断固たる対応」を示す必要があったから、と考えられている。
外交という場の問題であるのに、国内政治の事情、それも野田政権にとっての利
害というもっとも卑俗な「政治の論理」で処理されたのである。

 「政治の低迷」が指摘されて久しく、日本政治のパフォーマンスは「恥ずかし
い」レベルに落ち込んでいるが、これほどひどいものはなかったといえる。すで
に紹介した西独のヘルシンキ宣言受け入れのことを考えると、比較自体が成り立
たないといえるほどだ。

 じっさい国有化の結果は中国で日本企業の経営するスーパーマーケットなどが
襲われ、建物や商品に損害があったほか、営業停止も迫られた。日系企業の生産
ラインが止まったケースもひん発した。さらに日本メーカーのクルマの販売実績
が大幅に落ち込んだなどの結果が出ている。

 火付け役だった石原氏は、この事態について、「反省」の意思など示していな
い。むしろ「大成功」と喜んでいるはずだ。石原氏の意図は、尖閣諸島領有権を
ネタに「シナ」を挑発し、日中友好をぶち壊すことにあった。その意図は見事に
達成されたのである。

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◆右翼団体との濃密な関係30年余

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 石原氏が尖閣諸島がらみで行動したのは、少なくとも1997年5月6日にさ
かのぼる。いまから15年前で、当時石原氏は衆院議員だった。このとき、衆院
議員(当時)西村真悟氏をはじめ石垣市議やカメラマンら4人が魚釣島に「上陸」
した。西村氏の秘書が、この行動を「快挙」として記者たちに発表したらしく、
新聞はその日の夕刊で、テレビは昼ニュースで報道したのだ。

 西村氏らは英国船籍の小型客船(550トン)をチャーターし、石垣港から魚
釣島に向かった。その舟には石原氏も同乗していたが、上陸はしなかった。石原
氏は同行しながらどうして上陸しなかったのか? 上陸しない同行に何の意味が
あったのか? 疑問だらけだが、石原氏はどうやら「尖閣諸島に行った」つもり
らしい。

 産経新聞の一面に連載(?)している署名入りコラム「日本よ」の昨2011
年4月12日付は「国会議員は尖閣に行け」というタイトルだった。国会議員に
「行け」と命じるのだから、本人は行ったつもりなのだろう。

 言うまでもなく、この日は、東日本大震災と福島第一原発事故という重複災害
が起きた3・11(11年3月11日)の1カ月後である。石原氏はその日のコ
ラムを、
<日本の政治はなぜこんなに短絡的になってしまったのか。なぜ大切なことを、
幾つか重ねて一緒に行うことが出来ないでいるのだろうか。>という文章で始め
ている。

 その後、以下のように続けている。
  <未曽有の大災害からの復旧復興も焦眉の問題だが、他に考えつくだけですぐ
にも行うべきことがあるのに、なぜそれが出来ずにいるのだろうか。国政を担う
議員たちの発想力がこんなに貧しく、衰えてしまった時代は過去に無かったよう
な気がしてならない。

 災害のもたらした損害だけがこの国を危うくしているのではない。他にも、す
ぐにも対処しなくてはならぬ問題が目前にあるのに、国を憂い司(つかさど)ら
なくてはならぬ政治家たちが迂闊(うかつ)にではなしに、私が忠告し建言し登
録した国家の存危に関わる問題をすっかり忘れてしまっているのには、あきれる
というより慄然(りつぜん)とさせられる。

 私は昨年の秋に中国が侵犯しようとしている、まぎれもない日本の領土尖閣諸
島を守るために、国政調査権を持つ国会議員たちこそが超党派で、尖閣諸島に自
衛隊を駐留させるための調査に赴くべきだと幹事長を務める息子を含めて総裁や
政調会長にも申し入れ、彼等もそれを了としたのに、この災害騒ぎに右往左往す
るだけで一向にその兆しも見えない。谷垣総裁は早速議会のしかるべき委員会に
動議してことを行うといったが、その気配はない。>

 石原氏の言葉をそのままつかって、「あきれるというより慄然とさせられる」
のはこちらの方だ、と言い返したくなる。あの巨大重複災害以後1カ月の時点で、
政治はその巨大イシューへの対応に追われ、十分な対応ができなかった。だから
こそ菅直人内閣が、わけの分からない理由で退陣を余儀なくされたりした。その
中で「尖閣諸島に自衛隊を駐留させるための調査」を開始すべく動くことこそ焦
眉の急だ、と主張しているのだ。「良識」とはほど遠い主張であると考えるのは、
私だけでないだろう。

 この文章ではその後、右翼団体「日本青年社」との接触の経過を、自ら語って
いる。その部分も引用しよう。

 <実は私はかつて青嵐会を代表して大宮まで出向き、当時健在だった一族の主
人役の老齢の未亡人に、どの島でもよいからあれらの島々の中の一つを是非売っ
て欲しいと申しこんだことがある。

 その時彼女は慇懃(いんぎん)に、しかしはっきりと、あの島々をこの国のい
かなる政治家にも預けるつもりはありません、私たちは戦争中政府から酷い目に
会わされ、飛行機会社の用地のためということで一方的に広大な所有地を奪われ、
戦後もこの屋敷の半ばを市の区画整理のために削りとられましたので、自分の財
産は自分自身で必ず守りますといわれ、返す言葉も無く引き下がったものだった。

 青嵐会の仲間たちに計って挙金し、関西の大学の冒険部の学生に依頼して魚釣
島に上陸させ、ささやかな灯台を作らせたのは私だが、その後政治結社の青年社
が莫大な金を投じて立派な灯台を作ってくれた。私はおおいに感謝し運輸省の水
路部に視察させて正式の灯台として足りぬところを指摘させ、青年社もそれに応
えて完璧な灯台が出来たのに、それを海図に正式登録する段になって日本の外務
省が何ゆえにか『時期尚早』と称してこれを阻んだ。

 以来折角の灯台は海図に記載されぬまま、航海上かえって危険な状況が続いて
いたが、誰に相談してのことか、後にようやく正式に登録され、灯台本体に『日
本国国交省これを建造』というプレイトが張られたものだった。>

 調べてみると、政治団体日本青年社が魚釣島に私設灯台を建設したのは197
8(昭和53)年である。石原氏はその3年前、75年都知事選に出馬し、参議
院の議席を失った。76年12月の衆院総選挙(いわゆるロッキード選挙)で当
選、衆院議員として国政に復帰した。その「初仕事」が、右翼団体との接触、私
設灯台を「作らせた」ことだったかもしれない。

 日本の政治家で、これほどあからさまに右翼団体との濃密な関係を語っている
人物はいない。その濃密な関係は少なくとも30年以上継続しているのだから驚
く。

 尖閣諸島をめぐる日中両国の対立が顕在化したことは、右翼思想の信奉者・石
原氏の「挑発」によるものであることはすでに書いた。石原氏の尖閣諸島「重視」
は、氏の生活とは何の関係もない。日本が実効支配しているのだから、住もうと
するなら道は開けると思うのだが、もちろん住みたいために尖閣諸島論を展開し
ているのではない。生活と無関係な領有主張である。

 北海道の知人が北方領土返還要求について、「東京発だね」と言っていたが、
尖閣諸島についての石原強硬論は、まさに「東京発」である。だからこそ、中国
をシナという蔑称で呼び、文字どおりの挑発を行うことができたのだろう。

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◆成立する(?)両当事国強硬派の連帯

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 この日中対立は、両国の「強硬派」が共闘する構図に発展するのではなかろう
か? 「強硬論の連帯」と名付けるべきこの構図は、パレスチナ紛争で確立して
いる。イスラエル側も、PLO(パレスティナ解放機構)側も、それぞれ強硬派
と穏健派が共存している。その中で双方の強硬派は、連帯・共闘して主導権を握
っているのである。

 米国の仲介などによって、「和平」の機運が高まることもある。しかしPLO
の強硬派なら爆弾テロを行う。イスラエル軍部なら、ヨルダン川西岸のパレスチ
ナ人入植地などを軍事攻撃する。テロか軍事攻撃で火が付くなら、それ以後は双
方の「報復」合戦となり、和平の機運は吹き飛んでしまう。

 双方の強硬派がじっさいに話し合って共闘しているとは思えない。しかし「紛
争」の推移を見るなら、両強硬派は阿吽の呼吸で気脈を通じ合い、適切な時期に
テロや軍事攻撃を実施し、和平を潰しているとしか思えない。

 尖閣諸島をめぐる日中対立に軍事攻撃は要らない。中国側は漁業監視船の行動
をエスカレートさせ、日本の領海内で行動させれば、それだけで日本の世論を
「刺激する」ことができる。日本側は現段階では、石原氏らの挑発的発言で中国
を刺激するにとどまっている。問題はいつまで、このレベルですんでいるか? 
であろう。

 朝日新聞は11月10日から、二社面で、総選挙を意識した連載「あした、ど
こへ 民意のありか」をスタートさせたが、その第1回は「ずっとお隣なのに 
領土、振り回される島」というタイトルで、台湾を望む国境の島、沖縄・与那国
島のルポ。

 その中に「自衛隊基地ストップ」と「自衛隊誘致は悲願」を両論併記した形の
小見出しが見える。本文を引用すると
<周囲約27キロの島のあちこちに、与那国町が国に要請する自衛隊配備をめぐ
る賛否の横断幕がはためく。

 父を沖縄戦で亡くした安里与助さん(70)は「島に武器が入ると攻撃対象に
なる」と反対する。台湾との交易を再び盛んにし、島を活性化するには緊張を高
めるべきでないと思う。賛成の金城信浩さん(68)は「自衛隊員と家族が来れ
ば過疎に歯止めがかかる」。父は安里さんの父と同じガマ(壕〈ごう〉)で戦死
した。もちろん反戦だが、1万人以上だった人口が約1600人まで減った島の
将来に危機感が募る。「人がいなくなれば町も国も成り立ちません」>

 まさに両論併記だ。
  朝日が両論併記するということは、「自衛隊配備」論を認知することになる。
それが日本の世論構図なのだ。石原氏に限らず右翼的な人たちはどんどん自衛隊
派遣論を強めるであろう。右翼的な人たちだけでない。

 新聞・テレビの論調を含め、「領土もの」情報のほとんどは、「日本領」だと
いう主張だけに終わってしまっている。領有権の主張が、隣国である中国・韓国・
ロシアと対立しあっている現状の下で、日本はどう行動すべきかという外交政策
論議の次元に達していない。「国際関係」という場の中での行動様式としては、
まことに稚拙なレベルでしかない。

 総合誌「世界」12年11月号は<特集「尖閣問題」 東アジアの真の平和の
ために>と銘打ってはいるが、外交政策論議こそ必要だというポイントを欠いた
内容となっている。領有権問題で「日本の固有の領土=領土問題は存在しない」
という政府の主張を否定、中国の主張にも一理あるという論考ばかりが目立って
いる。

 領有権をめぐる日中両国の対立が当然のものであることを前提に、なおかつ
「引っ越しのできない隣人」である両国は友好関係を維持しなければならないこ
とを強調。そのために何をしなければならないか、を探る文章はなかったと言っ
てもいいほどだ。

 日本の官庁の例に漏れず、外務省の仕事を「外交」と考えると、あまりに低レ
ベルなのに驚く。日本独自の外交など無いに等しいのだ。米国依存は、外交政策
ばかりではない。外交政策を組み立てるため不可欠な情報からして米国依存なの
だ。米国務省からおこぼれの情報をもらっているのが実態だ。米国から自立した
政策体系など打ち出せるはずがない。

 今回の尖閣騒ぎにしても、「外交のプロ」集団であるはずなのに、固有の領土・
問題は存在しないという政治家と同様の主張を展開しているだけだ。外務省エゴ
を押し通すことこそ、日常活動の目的となっているから外交という活動はオソマ
ツ極まりないものになる。だからこそ、日本の外交論議も低レベルにとどまって
いるのだが、それにしても「世界」の尖閣問題特集はひどい。

 中国の方も、共産党総書記を胡錦濤氏から習近平氏に世代交代させる第18回
党大会が11月8日始まった。胡氏の政治理論「科学的発展観」が、毛沢東思想
などと同列の指導的理論と位置づけられるという前評判だったが、フタを明けた
段階では、不協和音が目立つという報道が目立つ。新体制移行後も抗争が残るな
ら、対日関係は絶好の「争いのネタ」になる。もちろん対日強硬論を展開するこ
とこそ、抗争に勝つ道となる。

 こうしてみると、「尖閣紛争」でも、パレスチナ紛争と同様、「双方の強硬論
者が手を結ぶ」展開が実現する可能性は高いといえるだろう。朝日が認知した形
の自衛隊配備が実現するなら、中国側も軍を全面に出すことが想定される。そう
した事態の下では、偶発的な戦闘行為が生じる危険性が高まる。恐ろしいことで
ある。

 声を大にして言わなければならないことはただ一つ。「自分で住むつもりのな
い土地について領土要求することを止めよう」である。これは呼びかけだが、石
原氏のような右翼に対しては、「止めよ!」と命令形にすべきかもしれない。

 (筆者たなか・りょうた=元毎日新聞記者 千葉県四街道市在住)

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