日本の技術革新力(3) 日本の技術革新

荒川 文生

 惜しくも急逝された加藤宣幸様のご依頼で始めた「日本の技術革新力」のシリーズ第3回は、エンジニーア・エッセイ・シリーズ#22として、#20「技術の位置づけ」、#21「イノベーション」に続き、「日本の技術革新」のお話を申し上げます。“Innovation”を「技術革新」と訳したのは「世紀の誤訳」と謂われる中、これを以って日本の経済成長が図られた情況を紹介します。
 シリーズは#23「技術史の分析」、#24「日本の技術力」と続く予定です。

◆◇ 1.日本型イノベーション

 通産省の技官としてユニークな存在であった寺西大三郎は、1999年に設立された私的な研究会「イノベーション工学フォーラム」Vol.1に「日本技術の特徴の研究方法について」を投稿し、「技術には個性がある」との興味ある書き出しの下、日本技術の「個性」を体系的に検証する方法を提案しています。
 そのひとつの切り口として、技術変化のプロセスを、①個々の技術開発、②世代交代、③技術革新への発展、という三段階に分け、①については更に、開発目標の設定、目標達成方法の開発、開発された方法の商業的実用化というプロセスが繰り返されて改良へと技術が変化する構造を設定しています。こうして「新世代技術」が「旧世代技術」と交代するのが②の段階であり、このプロセスの中で革新的技術が社会、経済、生活の変化と技術の雪崩的変化との相互作用を伴って登場するとき、日本的にイノベーションと称される③の段階となるのです。

 技術の「個性」の分析研究は、このようなプロセスのなかで、特徴的なことを事実に基づき明示することであって、単なる感想を語るものではないということです。ただ、ある事実が日本の特徴を示すものと言えるかどうかを科学的に証明することは、実は、容易でないでしょうが、寺西はイノベーションプロセスの日本的特徴として以下を挙げています。

 ① 新技術への好奇心が強く、抵抗感が希薄である。
 ② 異質とみられることを恐れる国民性がある。
 ③ 他社に平然と追髄する企業行動がある。
 ④ 最新技術は民生品から採用される。
 ⑤ 技術の現地型への改変がはやい。

◆◇ 2.日本の技術革新事例分析

(1)製鉄技術
 新日鐵(株)の技術者として父子二代に亘り製鉄技術の現場に立ち、その後情報センターの業務を通じて、日本の製鉄技術の歴史を分析した中村正和は、上記「イノベーション工学フォーラム」のVol.4に「製鉄技術移転の意義について」を投稿し、日本が導入した製鉄技術を伝統的な「ふいご」の技術などを応用した日本独自なものに発展させ、更にこれを中国や韓国に技術移転する過程で、移転先の「イノべーション」を促すとともに国際的製鉄市場の提携と共存の道を探る事が可能と為ったとしています。

 その経験から得られる示唆として技術導入について、①既存の技術は潰されることになるので、関係者のモラルダウンなどを考慮すべき、②フルセット導入は導入側にある程度の技術的ポテンシャルがないと円滑には進まない、③市場拡大期の技術導入は導入コストの面で有利であり、協同開発により技術ポテンシャルの急速な向上が期待できる、④基盤的、共通的技術の共同導入は有効だが、導入後に競争原理が働きにくい弊害がある。一方、選択肢の多い対象技術の導入には企業ごとあるいは作業所ごとの判断で導入し、それぞれの工夫を加えることが多様な技術の発展に繋がる、としています。
 また、技術供与について、①その必要性は世界市場再編の動きの中で判断すべき、②相手国の技術水準はもとより、政情の安定度、資金調達能力などの確認が必要で、それにより様々なオプションが発生する(現地の真のニーズの見極め)、③温暖化防止のため京都議定書における京都メカニズムなどへの配慮も必要、④労働に対する考え方、知的財産についての認識など必ずしも一様でないことに留意する必要(技術指導した当人の競争相手への移籍)、などを挙げています。

(2)新幹線
 1960年代日本経済の「高度成長」を象徴するもののひとつとして、国鉄による新幹線の技術開発が挙げられます。国鉄在任時代の技術的業績を買われ、明星大学で教鞭を執ることに為った宮本昌幸は、上記「イノベーション工学フォーラム」のVol.4に「新幹線開発における新規技術と成功要因」を投稿し、次の五点を指摘しています。

 ① 適切な基本方針の決定: 当時の総裁・十河信二と技師長・島 秀雄のコンビが、「標準軌、別線」の基本方針決定に信念をもって強力なリーダーシップを発揮した。既存設備との互換性をなくすことにより、その「しがらみ」に縛られることなく最新技術を導入し、システムの最適化を図る事が出来た。
 ② 指導者の存在と明確な目標: この二人の指導者のもとに、「5年後に世界に誇る鉄道を完成させる」との明確な目標が、研究、設計、製作、建設などの各現場に浸透していて、関係者一丸と為ったモチベーションが高かった。
 ③ 各要素技術完成度のバランス: 鉄道という総合的なシステムを構成する車両、軌道、架線、き(饋)電、構造物、信号、通信、駅・接客設備などからなる各要素の完成度にバランスが取れており、致命的な「穴」が無かった。その要因は、「実績のある技術を使う」という島技師長の方針にあったと思われる。
 ④ 鉄道技術と航空技術の融合: 太平洋戦争後、職を失った航空技術者の多くが国鉄に勤務したが、経験工学として発展してきた鉄道技術に、経験を一般化する理論を不可欠とする航空技術が融合されたことは、新幹線の成功の大きなポイントと為った。
 ⑤ 設計陣、研究陣、技術陣の呼吸: ともすると反発が生み出されやすい研究陣と設計陣との呼吸が合い、現場の技術者が粘り強く技術を駆使し、知恵を絞り課題を解決した。

(3)コンピュータ
 コンピュータは、それを構成する要素としてのハードウェアが継電器(リレー)から真空管、トランジスタ、LSIへと進化し、その性能を高度化する要素としてのソフトウェアが論理回路やオペレーティング・システム、データ処理技術などの面で発展すると言う「技術革新」をコンピュータ・システムそれ自身で体現すると同時に、投入されるデータの多様性やそれらを蓄積する記憶装置を含む情報通信(交換)システムの発展と相まって、様々な Innovation とイノベーションを国際社会に齎し「情報化社会」を形成してきました。
 今や、戦争が情報を武器に闘われていると言われる中で、その中核的システムであるコンピュータは、国家や民族、或いはそれらを動かす集団の「力」の基礎を為しているとも言えます。その力の分析を試みるのは容易な事ではありませんが、そこに日本の研究者や生産技術者がどの様に関わってきたのかを観て置くことは、単に興味深いばかりでは無く、今後の展開を考える上で重要な要素と為ります。
 此処でその詳論を展開する能力も紙数もありませんが、上記「イノベーション工学フォーラム」のVol.3に、NECから東京電機大学に遷って教鞭を執った山田昭彦が投稿した「シャノンに先駆けた中嶋 章のスイッチング理論の研究」や、電気学会が1999年に調査専門委員会の研究成果を基として、朝倉書店から出版した『技術創造』などを参考として注目すべき三点を挙げて置きます。

 ひとつは、計算機の原理的基礎と為る論理回路である「スイッチング理論」に関し、人口に膾炙されている C. E. Shannon の業績に先駆けたものを、中嶋 章が1935年に『電信電話学会誌』に「継電器回路の構成理論」として発表していることです。中嶋は1930年に大学を卒業後ただちに入社したNECでリレー回路の研究に従事し、この内容を翌年には英文で公表、1941年に懸けて自らの理論を集大成しています。C. E. Shannon は、中嶋の文献も引用しながら、1938年に“A Symbolic Analysis of Relay and Switching Circuits”をAIEEの論文誌に投稿しています。その情報理論として有名な“A Mathematical Theory of Communication”は、1948年に発表されています。
 ふたつは、後にトランジスタ電子計算機に市場を奪われる事とは為りましたが、真空管式に次ぐべく世界に先駆けるパラメトロン素子(パラメータ励振によって論理演算または記憶作用をもたせた素子)を用いた電子計算機の存在です。これは当時の電電公社・武蔵野通信研究所が、東京大学理学部・高橋英俊研究室における後藤英一の発明を用いた電子計算機(PC-1)を1938年に、其の改良型(PC-2)を1960年に製作したものです。これにより、太平洋戦争による技術情報遮断もあって10年は遅れていたと言われた日本の電子計算機開発の歴史の中で、日本はその遅れを取り戻していることを1959年のパリUNESCO展示会で会場唯一のトランジスタ電子計算機となったNEAC2201の実演により証明して見せました。
 続くみっつは、このような基礎研究の理論的展開や実績と、その上に商業的展開を試みた日本のコンピュータ技術開発を、1960年にトランジスタ式電子計算機IBM-7090を発売し世界市場を席捲した国際企業による収奪の危機から救ったのが、時の通商産業政策とそれを支えた電機産業の活動であったことです。特にその後者に関し、例えば、急速に発展した半導体設計製造技術の面で日本の工業力が先導的地位を保ちえたことが、政策の実施を可能としたことが指摘できます。

◆◇ 3.失敗に学ぶ

 ここに述べた日本のイノベーション事例は、技術革新に傾斜したもので、Innovation とは些か趣を異にしますが、何れも「成功体験」として語られております。しかし、「技術力」として「事実に基づき、合理的に判断する」ためには、成功の陰にある失敗に学ぶことが明示的に重要なのです。有名な格言に「失敗は成功の母」と言うものがあります。これは失敗に落ち込んだ人間の心を励ます言葉として使われていますが、実はそこにより深い示唆が籠められているのです。
 日本の製造業の中で「落ち穂拾い」と言う合言葉で仕事をしている人たちがいます。これは自分たちが造った製品に「落ち度」があった時、それをお客様の不平不満の中から「拾い」出し、次なる改良と改善に活かそうとするものです。ただ、この作業は決して気持ちの良いものではなく、記録に残すことも躊躇われることが多いのです。技術史の研究は、実は、このような作業を配慮と我慢を重ねたうえで、意義あるものとして「成功」への道を拓くものと為ります。この事は、次稿(技術史の分析)でご説明致しましょう。

  失敗は語る事なく山眠る  (青史)

 (地球技術研究所代表)

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