日本の病理 子供が危ない           早川 光

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このところ殆ど連日、家庭内での殺傷事件が報道される。被害者は幼い乳児か
ら少年少女たち、大人、老人とあらゆる世代に及ぶ。しかも加害者のほとんどが、
被害者の肉親や連れ合い、友人、知人たちである。この国が恐ろしいことになっ
ている。もはや危機は水面下ではなく、表面に噴出してきている。

 ある新聞によれば、今年になって公立小学校の校内暴力事件が過去最多の2017
件にのぼったという。うち対教師が38%増え、三年連続で増加、歯止めがかか
っていないという。 
 心や体に障害を持つ子供も殖えている。筆者の周囲にも何人か発達障害を持つ
子供を抱えた家庭がある。病気の度合いも異なり、家庭での取り組みも、周りと
の状況も異なるが、それぞれが出口の見えない大きな悩みを抱えている。

 昨年2月、寝屋川市で小学校教師三人を殺傷し、今月14日無期懲役を求刑さ
れた十七歳の加害者は、弁護士によると「広汎性発達障害者」と診断されている。
 かつてこのように、人間に細分化されたレッテルを貼る習慣のなかった時代は、
少々の障害は、大きく受け止めて、それなりの平穏があったのではないか、と思
うことがある。

 昨今では、いわばみんなが神経を尖らせ、時として、さして益のない後ろ向き
の論議に振り回され、ますます社会不安を増幅させる仕組みになっている。未消
化なままの情報の氾濫。教育の無力。医療の限界。法制度の矛盾。支援の余りに
も不備なこと。一般の理解不足。数え上げればきりがないが、強いて云えば地域社
会や国全体に愛のエネルギーが枯渇しているといえるだろう。潤滑油のない巨大
機構がきしみながら目標に向かって容赦なく動いているのである。その目標とは
ひたすら経済、経済、経済あるのみ。適応できない人間は吐き出される。うっか
りしていると社会のごみとなるしかない。

 これでいいのか。もう歯止めは利かないのか。この国がじりじりと危うくなっ
ていく。食い止める手立てはあるのだろうか。為政者や教育者たちは真剣にそれ
を考えているだろうか。こうなった根本原因は何なのか。取るに足らない問題に
かまけていていいのだろうか。

 国民全体がもっと真剣に考えて取り組むべきではないのか。先ほど細分化とい

ったが、こうした問題をひとつづつ丁寧に解きほぐして、じっくり考えていくこ
ともまた大事なことである。
 

 この際誤解しないようお願いしたいが、真剣に取り組むといっても、矢鱈会議

を開いてその道の専門家と称する肩書きのある人を集め、空論を戦わすのではな
く、実際に困っている人たちの状況を足と手で把握し、解決の糸口を見つけてい
く姿勢こそ望ましい。
 為政者も教育者もあえて言えば、もっと現場主義に徹して欲しいのであるが、
現実には事態は益々逆方向に向かっている。交通違反取締りですら委託制になっ
てしまった現在、現場の生の状況は、益々関係機関の役人の認識から遠ざかって
いく。

 現実に扱うべき実態は、いったい誰が把握するのか、役人たちは何が忙しいの
か。
 過日子供家庭支援センターという大きな表示を見て入ってみた。どのようなサ
ービスが受けられるか知りたいと思ったのである。立派な建物の一室に男女七、
八人の係官が机を並べている。入るなり、一人の男性が駆け寄るようにカウンタ
ーに来た。
 「どういう御用件で」きわめて慇懃に聞く。
 「幼児を抱えている場合どういう支援が受けられるのか知りたいと思いまして」
 「それはですね。こちらに、」とパンフレットを差し出した。ボランタリーの
意志をもつサポーターを募り、各グループごとに取りまとめ、利用希望者の事情を
聞いた上、適当な人を斡旋する仕組みらしい。いわば派遣サポーター斡旋業務で
ある。確かに必要なことかもしれない。しかし民間のボランティアさんが自分た
ち独自にグループを作ってもできない仕事ではない。 現にやっているところも
ある。福祉の世界で税金をふんだんに使う限り、しっかりした人材を活用し、も
う少し実のあることに力をいれてもらえないものか、と思いながら辞去した。こ
れはほんの一例に過ぎない。
                        (筆者は東京都在住)