日本知識人のアジア観

■ 日本知識人のアジア観                河上 民雄

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「オルタ」50号おめでとうございます。

  まずは主宰者の加藤宣幸さんと富田昌宏さんのお二人に心からお祝い申し上
げます。
  加藤宣幸さんとは長年の知人ですが、ご承知かと思いますが、かつての社会党
では派閥の掟(おきて)が厳しくて、親しい往来はなかったのですが、お互いに年をとっ
てから却って付き合いが密になりました。人生とは不思議なものです。
  加藤さんは私とほぼ同年輩、正確に言えば一つ年長で、この年齢でI・T時代
の武器を活用し、メール・マガジンという全く新しいジャーナリズムの分野をき
り開かれたことに敬服と驚嘆を禁じえません。
  その「オルタ」50号の記念講演者として選ばれたことを光栄に存じておりま
す。

  拙著『勝者と敗者の近現代史』の趣旨も、明治以降の日本の近現代史のいくつ
かの曲がり角、分岐点――鉄道に例えれば転轍点で対立した選択肢、そこでの勝
者と敗者の選択肢を対比させることによって、日本の近現代史を見直し、現時点
での選択肢はいかにあるべきかを考えたかったのであります。鉄道の例えを続け
れば、転轍点で分かれた引込み線をたどり、その風景と本線を走行するときの風
景とを比較して味わって頂きたかったのです。
  大事なことは、Aという選択肢とBという選択肢とが対立したとき、Aを選べ
ばBが持っていた可能性が消えてしまい、それを次の段階でA、Bと繰り返して
ゆくと、選択肢の可能性の幅がどんどん狭くなり、下手をすると最後はイチかバ
チかでことを決めねばならなくなります。それが昭和一六(一九四一)年一二月
八日の真珠湾攻撃でした。あの作戦の企画者・山本五十六・海軍大将は日米開戦に
は海軍次官として反対でしたが、連合艦隊司令長官になると決まった以上は現場
の指揮官として最善をつくすことを決意し、「一年は暴れてみせます」と言って
戦場に赴きます。日本軍は半年で早くも劣勢になり、一九四三年二月にはガダル
カナル島敗退、四月山本長官は制空権をアメリカに奪われた空に突入して壮烈な
戦死を遂げます。国葬のことは私もよく覚えています。

  イギリス労働党の政治家・ジョン・ストレイチは、戦後シンガポールで行った講
演で(一九六一年)、ハワイ真珠湾攻撃の成功のあとを調べ、一方で日本人の驚
嘆すべき能力に感心しながら、同時に細部では優秀でも大局で愚かだった典型と
して批判しています。
  私はこんどの本で、つねに選択肢は一つだけでなく、もう一つの選択肢がいか
に大事かを訴えております。英語で言えば「オルタネイティブ」で、加藤、富田
ご両所が始められたメール・マガジン「オルタ」と趣旨は同じだと思っておりま
す。

  この本では、日本の近現代史のそれぞれの曲がり角で対立した選択肢を体現す
る人物又はグループを十組選んで、いわば対比列伝(パラレル・ライブズ)の形を
とっています。まず最初は明治天皇と徳川慶喜で、慶喜は江戸城を天皇側に明け
渡したのち、一旦は水戸に、そして静岡に移り、戊辰戦争が終わると正式の蟄居
はとかれますが、自ら課した蟄居生活を静岡で三十年も続け、明治三一年三月二
日、宮中に参内、天皇皇后二人だけのもてなしを受けています。天皇は慶喜に向
かって、「あんたの天下をとって悪かった」と言うと、慶喜は「それも世の習
(なら)いで致し方ありません」と受け流したと言われています。
  二重橋に天皇制二千年の尊厳がやどっていると最近の若い評論家は考えてい
ますが、歴史はもう少しふくらみのあるものだと思います。

  時間の関係もあり、今日はそのうち二つの組を取り上げます。明治以降の日本
人のアジア観をめぐって、最も鮮烈な対比を見せているからです。
  福沢諭吉と勝海舟、近衛文麿と石橋湛山です。勝海舟は慶応四(一八六八)年、
薩長方、つまり天皇方の代表者・西郷隆盛と、徳川幕府を代表する立場で交渉し、
江戸城の平和的な明け渡しを成功させたあと、歴史の表舞台から姿を消します。
しかしその後、三十年余り生きて明治近代化の歩みをじっと見て、明治三二年一
月、七七才で亡くなります。

  福沢は勝海舟より十二才年少ですが、ご存知、明治の文明開化の思想的な旗振
り、学会用語でいえばイデオローグとして人生を全うします。福沢は明治の初期、
『学問のすすめ』という本を出版(明治五年)、”一身独立し一国独立す”とい
う有名な言葉を広めます。日本が独立するためには各個人が封建思想から脱却せ
ねばならぬと説きます。築地の聖路加病院の近くに慶應義塾の発祥の地を記念す
る碑があり、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」と云う
『学問のすすめ』の冒頭の一句が彫られています。『学問のすすめ』は明治五年
の初編から明治九年の第十七編まで、当時としては断然ベストセラーになります。
海賊版が多く出て、それを合わせると、七十万冊と福沢自身が述べています。

  福沢は明治八年、『文明論之概略』という福沢にとって唯一の理論書を世に問
い、文明を”文明――半開――野蛮”と三段階に分け、欧米が文明、半開は日本
とかトルコ、野蛮は清国、朝鮮、アフリカという具合にランク付けをしました。
戦後の政治学者として今なお影響を与えている丸山眞男教授の『文明論之概略を
読む』(岩波新書)があります。
  福沢は自分の私塾を慶応四年、芝新銭座に移し「慶應義塾」と命名し、そのご
明治四年、三田に移し、今日まで多数の人材を輩出させますが、その一方で明治
一五(一八八二)年に「時事新報」という日刊新聞を発刊、社会評論や政治論を
活発に展開します。その前年、明治一四年の『時事小言』では、日本はすでに文
明の域に入り、今なお野蛮にとどまる朝鮮に対し、幕末に欧米列強が日本に対し
開国を迫るのに砲艦外交を以ってしたように遇すべきだという主張をし、明治一
八年の「脱亜論」では、日本の不幸は朝鮮、清国というおくれた国が近くにある
ことで、日本はこれらおくれた国との付き合いを絶つべしと主張、それから約十
年後の日清戦争では、日清戦争を文明と野蛮の戦いと規定し、日本は文明の代表
として勝つ責任があると、国民を鼓舞します。
  最晩年の『福翁自伝』を読むと、最後のところで日清戦争で勝利したことを涙
ぐんで喜び、大願が成就されたとまで言っています。
  この心境は福沢ひとりに特有のものではなく、注意すべきは、当時の日本の世
論全体を覆っていたことで、日露戦争に際して大胆な非戦論を唱えたことでしら
れる内村鑑三ですら、日清戦争では「文野の戦い」と称し、福沢と同じ論理で賛
成していました。

  勝海舟は、当時としてはただ独り日清戦争に反対し、開戦を知るや”隣国交兵
日 其軍更無名”で始まる漢詩を伊藤博文首相に届けています。この戦争は大義
名分がない、というのです。しかも戦勝で沸き立っている国民に対して
"一回勝った位でうぬぼ自惚れるな、日本が逆運に出会うのもそう遠くあるまいよ"
と警告しています。勝の家には、米沢出身の宮島誠一郎の息子の宮島大八(のちに
勝海舟から「詠士」という号を貰う)を九才位から書生として預かっていたが、
欧化主義全盛の明治二十年、二十才になった宮島大八は清朝末期の碩学・張廉卿
(北京に近い保定で蓮池書院を構える)のもとに留学、途中一年日本に戻るが、
明治二七年まで中国の哲学と書を学んでいる。大八は帰国後、今日の東京外大の
前身で中国語教育につくしています。

  勝は日清戦争に際し、俺が清の指揮官なら、日本が攻めてきたら奥地へ奥地へ
と逃げてゆく、そのうち日本はくたびれて帰ってしまうだろうと、約五十年後の
日中戦争における持久戦論を先取りしたような見識を披露している。こうした勝
の中国観は、読書や新聞情報から得たものではなく、中国に留学した宮島大八か
ら聞いた生の情報、または父親の宮島誠一郎の家でひらいた政治サロンで、歴代
清国公使と会話を交わして得た体験的知見が基になっていると、私は推察してい
ます。
  こんど負けるのは日本の番でその覚悟をしておけという勝の警告は、五十年後
に実現する訳です。
  足尾銅山鉱毒事件に対する見方でも、勝と福沢が鋭く異なっていました。
  勝はいっています。鉱山(ヤマ)は徳川時代にもあったが、被害はこんなに大
  きくなかった、文明開化はすべて大仕掛けだ、ただ後始末がそうなっていない、
  と今日の公害反対論のような議論をして、”人民を苦しめて、何が文明かい”と  啖呵を切っている。

  勝は徳川が野蛮で明治が文明だという議論が腹に据えかねるらしく、『氷川清
話』で、文明とか野蛮に関しては、「古今に差なく、東西の別なし」と言い放っ
ている。事例として、幕末に外国公館に焼打ちしたのは野蛮だが(実は伊藤博文
や井上馨のこと)、明治になって、朝鮮王朝の宮殿に夜陰に打入り、大勢の女官
の前で皇后を斬首する挙に出たのも同じく野蛮というのが、勝の理屈である。
  福沢の立場は、今日の政治学でいう「国家理性」の発動と見て、日本の安全保
障のためには、日清戦争後、日本の圧力におびえてロシアに後盾を求めようとし
た朝鮮国の皇后・閔妃を排除するための暗殺は正当化される。
  今日の日本の紙幣の代表的な肖像は福沢諭吉ですが、戦後、日韓基本関係条約
の交渉がまだ難航しているときに、条約成立二年前に韓国の保護国化(やがては
韓国併合)に大きな役割を果たした伊藤博文が新しく紙幣の肖像となり、それは
無神経だと言う批判に答える形で、一九八〇年代に福沢に代わった。今日でも福
沢の論理が勝のそれより優越している証拠である。

  次に近衛と石橋のアジア観を対比を取り上げたいと考えますが、残りの時間が
余りないので、まず、二人の代表的な論文の題を並べてみたいと考えます。
  近衛文麿は、まだ二七歳の若さで「英米本位の平和主義を排す」と題する衝撃
的な論文を「日本及日本人」という雑誌に寄せています[大正七(一九一八)年
一二月一五日号]。論旨は、戦争の原因は、領土の不平等、資源の偏在にあり、
持たざる国が持てる国からそれを奪うのは当然の権利であるのに、英米は平和主
義の美名にかくれて既得権益を守ろうとしている、というにある。
  第一次世界大戦(一九一四~一八年)の終結後のヴェルサイユ講和会議に首席
代表として臨む西園寺公望は、将来の自分の後継者として経験を積ますために近
衛を代表団の随員に加える。途中、上海に寄航したとき、近衛論文が上海で英訳
されたものを目にした孫文は、この若き貴公子にわざわざ使いをやって呼び寄せ、
食事を共にする。そこでどんな会話があったかは、この両者のどちら側からも証
言は出ていない。

  政治学者・岡義武は、近衛が首相になり、敗戦後、占領軍に戦犯として召喚さ
れるまで、一生を通じてこの論文に示された考え方は不変であった、とみている。
  一方、石橋湛山は第一次大戦勃発直後、日本がドイツ領の青島を占領したとき、
東洋経済新報誌上で「青島は断じて領有すべからず」(大正三年、一九一四年一
一月一五日号社説)、一九一九年三月、朝鮮に三一独立万才事件が起ると、「鮮人
暴動に対する理解」(大正八年五月一五日号社説)と、中国、朝鮮で胎動するナ
ショナリズムに理解を示し、二十世紀のアジアのナショナリズムの台頭への対応
を誤らないよう訴えた。その上で、一九二二年、ワシントンで開かれる太平洋会
議に対する日本のとるべき態度として、「一切を捨つるの覚悟」(大正一〇年、一
九二一年七月二三日号社説)を書いている。本日、これをお配りしてありますの
で、福沢の「脱亜論」と共に、あとでお読みいただきたい。

  ただ、この社説の最後に「朝鮮・台湾・満州を棄てる、支那から手を引く、樺太
も、シベリヤもいらない、そんな事でどうして日本は生きて行けるか」との予想
される設問に対し、佛教徒の石橋が新約聖書、マタイによる福音書六章の言葉を
ひいて、「思い煩うな、まず神の国と神の義を求めよ」と結んでいる。
  石橋は敗戦後、ジャーナリストから政治家に転じ、昭和三一年暮れ(一九五六
年)、ついに総理大臣になるが、病気のため二ヶ月でいさぎよく退陣を余儀なく
されます。私は病気で半身不随の彼に会っています。身体は不自由ですが、両脇
を二人の秘書に抱えられてやっとの思いで座席に着くと、実に堂々たる見解を展
開、目からうろこ鱗が落ちるような発言が続いた。出席者は感銘を受けた。最晩
年(彼は昭和四八年、一九七三年に亡くなっているが)に色紙に左手で墨筆で書
いた言葉は
   明日の事を思い煩うな  湛山
でした。
  日本のアジア主義に関する研究の最高峰だった竹内好氏は、『石橋湛山全集』
十五巻の最初の巻が刊行される迄(昭和四五年)、こんな優れた思想の持ち主が
日本にいたことを知らなかった不明を恥じ、「勉強をやりなおせねば」と嘆じて
います。
  日本の政界の保守革新にわたって知り尽くしていたジャーナリスト・宮崎吉政
氏も、湛山がこんなすぐれた思想家だったことは、取材していたとき気付かなか
ったと、告白していました。
  そのことは湛山の不幸だけでなく、日本の不幸だったと、私は思っています。

  私の今回の本に対する温かいご批評を頂いたことをこの場を借りて御礼申し
上げます。校正ミス、あるいは私の過ちについて、たとえば、福沢の全集編集者・
石河幹明が石田幹明になっている点、陸軍士官学校の最後のキャンパスは厚木で
なく、その隣の座間であること、五族共和の回族はウイグル族とイコールではな
いことなど、ご指摘頂いた方に感謝いたします。
  どうも長い間、ご静聴ありがとうございました。
           (二〇〇八年三月四日、学士会館)
           (筆者は元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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