日本育英会と三宅正一(下)

■ 【研究論叢】 
戦時期社会政策と社会民主主義政党政治家

日本育英会と三宅正一(下)             飯田 洋

───────────────────────────────────


■政府案の作成と連盟の修正案


  文部省も衆議院の決議を受けて育英奨学制度創設のための政府原案に着手し、
専門教育局長永井浩、学芸課長剣木亮広がその中心となった。

 文部省での原案作成上、まず問題になったのは
  (1)育英(英才補助)と社会政策的な教育の機会均等とどちらに重点をおくか。
  (2)貸費制か給付制か。
  ということであった。

 (1)に関しては文部当局は、連盟の三宅案は、英才補助ではなく機会均等を主と
した社会主義的なものであると難色を示した。剣木は、後に「当時三宅さんが発
表した案は、のちの育英会法の趣旨とは行き方を全く別にしたもので、英才の教
育補助ではなく教育の機会均等を主とした社会主義的なのだった」と語っている
ように文部省は教育の機会均等という考え方にはあまり乗り気ではなかった。

この点に関しては連盟の間でも主張の相違があった。三宅が、「育英制度の目
的は不出世の英才に十分教育の機会を与えざるは国家的損失なりとする英才教
育を主眼とする国家的要請が重点か、あるいは、才能あるにもかかわらず経済
的理由により高等教育を受けられぬ者に相当の教育を受けさせる機会均等の社
会主義的趣旨が重点か、二つの要素が絡み合っている。森田氏らは前者を重
視、私らは、後者を重視した。」と述べているように必ずしも意見の一致をみ
てはいなかった。

 (2)に関しては、連盟案は、子供の教育は親の責任においてなされるべきであり、
教育の国家管理はなすべきでないという基本方針のもとに、当時の財政状態でも
し給付制をとれば、きわめて小規模のものにならざるを得ないので、貸費制をと
ることになった。三宅は、この点に関して「太平洋戦争が始まろうとしている当
時の状況ではとてもたくさん国費を要求しても取れない。然し僅かな金では、優
秀な青年学徒の要望を満たすことは出来ない。そこで生命保険の原理を適用して
貸費制にすることにした」と述べている。一方、文部省側は、国家が必要とする
人材の確保には給付が当然であることや、事務の簡便性から給付制の主張が大勢
を占めたが、最終的には貸費制でまとまった。

 しかしながら、議員連盟、文部省のせっかくの努力にも関らず、文部省案は具
体案を伴っていないとの理由で否決され、昭和十八年度の予算案では、実施のた
めの予備調査をするとして調査費予算一万円が認められただけで、育英制度予算
は計上されないことに決定してしまった。
  教育振興連盟側は更に検討を続けた結果、これを一層実際に即した完備したも
のとし、一日も早く実現を期することとなり、独自の研究を進め、対象の中学校
生徒二十万人を三万人に改めた。
 
  特に具体性を欠くと指摘された資金の運用方法の作成は、三宅が担当すること
になった。彼はかねてからの協力者であった渡辺定(当時安田生命の幹部)を介
して生命保険中央会の中心的人物で大蔵省の嘱託を兼ねていた川井三郎に援助を
依頼した。当時三宅は日本医療団の理事となり調査部を担当していたことから、
医療団のスタッフも領域を超えて積極的に協力した。川井は、三宅らと協力して
作成した案のほか、密かに大筋の似た別の案を文部省と協力して作成し、文部省
の顔も立つようにした。

これに対し文部省側も剣木学術課長らを中心とするいわゆる新官僚とよばれる
グループが対応し、両者の間ですりあわせをしながら呼吸を合わせ修正案の作
成にあたった。出来上がった修正案は、非常に精密なもので、後に永井浩は
「通常議員から提出される案はおおまかでずさんなものが多いが、三宅さんが
書いたあの案だけは我々役人でも直しようのない位精密で完璧なものだった」
と述懐している。


■国民教育振興連盟の督促と政府の方針


  昭和十八年、文部省と議員連盟とのこのような動きの中で第八十一回帝国議会
は再開した。育英奨学制度制定の成否はこの議会での衆議院における議会活動に
かかっているとして議員連盟による政府督促はまことに激しいものがあった。
二月八日の衆議院予算委員会で金光康夫委員長が自ら行った質問演説は当時の育
英会法をめぐる状況をよく表しているので長文であるが引用する。

「衆議院は、さる第七十九議会において、満場一致の院議をもって大東亜教育体
制確立を建議し、その重要なる一項目として、興亜育英金庫創設を要望し、橋田
文相は、政府を代表してその実現に努力する旨を約されたが、本年度予算にいま
だその具体案が提出されていないのは遺憾の至りである。大規模な育英金庫制度
を創設し、資質優秀な国民子弟で学費足らざるがために進学の機を失い、あたら
良能をして空しく埋没される者無からしむるは、大東亜建設の経綸を完遂する上
に、緊切なる要務であり、また実に士気高揚の大方途であると確信する。

 しかして聖戦完遂の途上、靖国の英雄となられた軍人遺孤児の教育のため、或
は、職業再編途上、祖先伝来の業を転換せる子弟で、現に学業中途で退学のやむ
なきを迫られるものの就学を継続させる為にも、また、下級棒給生活者及び一般
勤労大衆中、教育資金を出し能わざるもののためにも、本案の実施は、焦眉の急
に迫られているのである。

この時局の緊切なる要望に沿うがため
  一、十八年度から即時実施すべきこと
  二、規模は議員側骨子にのっとり、国家の要請するに足る規模雄大なるものた
  ることを、絶対に必要なりと思う。以上につき政府の確固たる決意を承りたい。」
  これに対し橋田文相は「十八年度において実施できるよう万全の努力をしてい
るところである」と答弁した。
 
  なお金光質問にある"規模雄大"という用語は三宅が好んで使ったもので、育英
奨学制度の創設準備の期間中に三宅がしばしば使用したことから育英奨学制度に
関係する一つの通り言葉となったといわれている。
  三宅の最初の原案に示された対称学生二十万人という数字は、一年後連盟自体
の手により三万人に減らされはしたが、構想は相当大きく、育英会二十周年に当
たる昭和三十八年においては七十万人の貸費生を世に送る基礎となった。
 
  こうした議会での追求活動と平行して、連盟による内閣、大蔵省、軍部、企画
院など関係方面に対する直接交渉もきわめて活発に展開された。主に政府との交
渉に当たったのは、三宅のほかに、小山亮、山本粂吉、今井新造、小柳牧衛、西
村茂生、などで、先ず東條首相兼陸相を説得し、次いで米内海相の賛意を得、予
算支出の大元である大蔵省の説得にあたった。

大蔵省は将来に及ぶ巨額の経費の計上を必要とする立場上、難色を示した。三
宅によれば「直接賀屋興宣大蔵大臣のところは二十日間通い詰めて折衝した
が、彼は青年時代私的な育英制度の恩恵を受けていたこともあり、また当時新
官僚の一員とされ国民健康保険制定時からの理解者であったことから交渉がし
易かった」。また主計官として実際の事務的折衝にあたったのは後の首相大平
正芳で、積極的に大臣に賛意を勧めた。なお三宅はこれを契機に大平とは戦後
も親交を結んだ。


■大日本育英会の創立


  これにより文部省は、議員連盟と連絡を密にしながら鋭意具体案の作成に入り、
「財団法人大日本育英会」(仮称)として成案を得るに至った。その後、議員
連盟代表や関係各省担当者による「育英制度創設準備協議会」を設置して協議、
十月一日閣議決定を見た。全ての準備が整った十月十八日「財団法人大日本育英
会」として発足、ここに待望の国家的育英奨学制度が実現した。
 
この頃、世界大戦は既に終盤戦に入り,戦局は日々に激しさを加えていた。昭
和十八年に入っては、同盟国の一つイタリアが連合軍に無条件降伏をし、いわゆ
る枢軸国の一角は崩れ去って、秋からは、連合国の総反攻は太平洋の各地で開始
され、我が国の劣勢は覆いがたいものがあった。既にこの年六月には「学徒戦時
動員体制確立要綱」が閣議決定となり、九月には学徒動員を送り、更に十月、学
徒徴兵猶予が停止となって、まさに学徒出陣を迎えていた時期であった。こうし
た未曾有の国難の時期でありながら、一方では教育の機会均等の理念をも有した
育英奨学制度の誕生を見たことは、我が国教育史上劇的な出来事であった。
 
  政府は特別法の検討を急ぎ「大日本育英会法」を策定、第八十四帝国議会に上
程して可決した。昭和十九年総理級の人物をあてるという方針のもとすでに拓務、
逓信、鉄道等各大臣を歴任した永井柳太郎を会長に任命「特殊法人大日本育英
会」が創立され「財団法人大日本育英会」は解散した。
 
日本育英会は国民の意思を代表とする議員の手によって発議、推進され、政府
はその趣旨に沿って実現に努力し,終始民主的な手続きを踏んで実現したもので
あった。戦時下、しかも戦局はますます我が国にとって不利になる状況の下、官
民挙げての民主的手続きによって実現したのは驚嘆すべきことであった。
  
  このように「大日本育英会法」は、三宅が専門家の協力を得てまとめあげた「
興亜育英金庫創設案」がもとになった。その狙いは、出来るだけ多くの青少年に
就学の機会を与えるとともに国家の負担を少なくするために保険計算の方式を取
り入れるのが骨子となっている。
  実現した制度は、修正が加えられてその規模において、事業を行う組織・機構
において、奨学金の貸与・返金方法において、案とはかなり異なったものとなっ
ているが、三宅の提唱した保険方式は、事業の発展を支える原理として現在も生
かされている。


■大日本育英会創立時の基本構想と実際


  大日本育英会の創立当初における基本構想は、優秀な才能を持ちながら経済的
に恵まれないために国民学校卒業だけで上級学校への進学困難な児童に対して、
国民学校在学中に上級学校進学後の奨学金貸与を予約して進学を経済的に保障し、
その優秀性を維持する限り、専門学校(高等師範学校を含む)あるいは高等学
校、大学へ進学しても奨学生として貸与を継続するという予約採用制の仕組みで
あった。
 
  制度の基盤をなすものは、教育の機会均等の精神であったが、国家的育英奨学
事業の本質上、英才教育、人材養成という意図も同時に本会制度運営上の重要な
指標として掲げられた.ことに,当時は戦時下のことでもあり、終局的には国家
有為の人材の育成という国家目的への貢献が大きく謳われ英才教育と人材養成が
機会均等に優先することになった。
 
  日本の育英奨学制度を育英と奨学(機会均等)の観点から分析した研究には、
前述した服部憲司の「日本育英会奨学生推薦基準の変遷」がある。これに拠れば、
大日本育英会設立から終戦までの期間においては、学力等の優秀者を財政援助
の対象者とする選抜原理である「育英原理」が経済的に恵まれない者を対象者と
する選抜原理である「奨学原理」に比べ優先していたとする。

服部は、「日本の高等教育では経済力のみを基準とする制度の導入が、歴史的
に見ても容易でないことが示唆される」とし「奨学」原理に基く財政援助制度
が導入されなかった理由、導入の可能性、その是非等については検討する必要
があろう」と指摘するにとどめているが、その大きな理由の一つが当時の国家
的要請に基く国家有為の人材育成という要請にあったことは間違いない事実で
あろう。


■終わりに


  戦前、戦中に策定、実施された社会政策の殆どは、戦後その存在意義を失った。
その結果、戦前、戦中に社会的意義なり明確な存在理由を有していた事業は敗
戦とともに消滅した。特に戦時社会政策や社会思想と密接に関連する教育関係の
領域においては、戦中に誕生した事業で戦後にも存続し、進展を示している事業
はほとんど稀である。この点において、戦中に発足した大日本育英会が、名称こ
そ変われ今日一層の発展を示していることは、単に類例の稀な事実であるばかり
でなく、時代や社会を超越してこの事業が重要な存在意義と価値を持っているこ
とを物語っているといえる。
 
  三宅が戦時中に実現を主導したあるいは深く関与した社会政策は、国民健康保
険制度と国家的育英奨学制度であった。三宅の両政策への取り組みの原点には、
衆議院議員に当選する前からの小作争議指導を中心とする農民運動にある。当時
の貧農階級の病気になっても医者にかかれない、勉強したくても学校へ行けない
という悲惨な状況を改善するための闘争の体験がその根底にあった。
 
その後前述したように、昭和十七年に初めて衆議院議員選挙に立候補した頃か
ら、政治的軸足を小作農民一辺倒から広く国民一般に広げて行った三宅にとって
全国民層を対象とする国民保険制度と育英奨学制度が彼が取り組む政治的課題と
なったのである。
 
  三宅が育英奨学事業の問題に取り組んだ昭和十五年は、新体制運動という名称
のもと近衛第二次内閣の成立とともに社民党を先頭に、政友会、民政党、国民同
盟などの保守政党も一斉に解党し、幾多の曲折を経ながら大政翼賛会に結集し、
国家総動員体制が確立していった時期である。
 
政党が消滅した中で政策の実現を図るためには、三宅が議会活動を通じて得た
党外の多くの知己による人脈が役立った。閣僚の中では、広田内閣の文相平生 
三郎、林内閣の内相河原田稼吉、近衛内閣の逓相永井柳太郎、第二次近衛内閣の
厚相小泉親彦、東条内閣の蔵相賀屋興宣などといずれも議会の論戦を通じて親交
を得た。三宅の演説の鋭い論鋒は、数々の法案審議の過程で議会の論戦の中に十
二分に発揮され、政府や保守陣営首脳にも多くの共鳴者を生み出した。
 
  また産業組合の活動や国民健康保険法案、電力国家管理法案等の審議を通じて、
農林、厚生、逓信などのいわゆる新官僚と親交を結び、その関係で文部省にも
大きな人脈が形成された。日本育英会ももし官僚の協力がなかったならば実現は
不可能であったに違いなかった。
 
議員の間では、産業組合を背景として超党派の議員が作った農村議員連盟の関
係で、助川啓四郎、赤城宗徳、吉植庄亮、黒澤酉蔵他の多くの議員と親交を結び
その中から特に農村子弟の教育問題に熱心であった小山亮、森田重次郎などと教
育振興連盟を作って育英奨学制度制定運動に共闘することになった。

 こうした多角的な人間関係は、議会人としての三宅を無産政党政治家としては
珍しい幅広い政治家に育て上げた。芳賀綏によれば三宅は「政界きっての接触面
の広い政治家」で「広く異質の人と接触してひとたび意気に感じその人物に心服
すれば、持ち前の牢騒心と相まって、手をたずさえて事に当たろうとする意欲に
動かされずにはいられなかった。」
 
このように、三宅は日本育英会創設の運動をかつての社大党を中心とする同志
とではなく、政友会、民政党を基盤とした保守系議員と連携して進めた。運動の
中心となった「国民教育振興連盟」に参加した議員の数も、最盛期には二百十六
名に達し衆議院の議席の三分の二を占めるまでになり、当然旧社大党の議員も多
数参加したが、連盟創設以来中心となって活躍したのは主に保守系の議員であっ
た。
 
  旧社大党の議員の中には、三宅のほかにも農民運動の指導者は存在し、貧困の
故に農村の子弟が就学出来ない悲惨な状況を熟知していた者は多かったが、小作
農民子弟の教育機会援助の必要性についての関心は必ずしも高くなかった。彼ら
の間には、教育事業に国家が関与することによって時の国家の要請する方向へ教
育の中味が偏向することへの警戒心があったと考えられる。また小作制度の廃止
による小作農民の解放が農村の窮乏化を救う唯一の解決手段であるとして、小作
争議に専念すべきだという思想が強かった。
 
  国家的育英奨学制度に反対する声は保守側にもあった。彼らは教育への国家関
与は社会主義的思想である、また親が子を教育する責務を国みずからが侵すもの
で、子に親の恩を忘れさせ、ひいては我が国古来の家族制度の美風を破壊し、さ
らには忠君の念を薄くして国体観念をも危うくするというような懸念があった。
 
  これに対して、三宅は農村の貧困な子弟の教育の必要性を強く感じていた。前
述したようにそれは彼の少年時代の経験以来一貫して彼の思想を貫いてきたもの
である。彼は、小作農民が無知の故に現状を肯定し貧困にあまんじることから脱
却してより主体的に闘いに立ち上がるためには、何よりも現状の正しい分析によ
って現状の矛盾を認識し是正の方向と方法を思考する能力を身につけるための教
育が必要であると考えていた。それを可能にする貧困子弟に対する国家の財政的
援助は、彼にとって是非とも実現させなくてはならない政策課題であった。
 
  三宅の政治家としての特性はその現実性にある。芳賀綏が三宅の特性について
「戦前の三宅の活動について特に強調すべきは、空虚な観念として社会主義を呼
号するのではなくて、実際にある成果を必ず生み出すという具体性、現実性にあ
る。」と述べているように、彼は政策の実現のためには時として大胆な妥協も辞
さなかった。「政策を実現するのが、本当の革新だ」を口癖にした三宅は、既成
政党の枠にこだわることをしなかった。

こうした三宅の幅の広さは時として味方の革新陣営からも批判を買うことが
あったが、一向に気にかけなかった。苦渋の決断を迫られる場合も多かった
が、現実を改革するための政策の実現を第一義とした。それは三宅自身の「権
力の締め付けが厳しければ厳しいほど、それに対応する戦術は柔軟でなければ
ならない」という言葉どうり、時の権力の政策を逆に利用して自己の政策を実
現させるといった柔軟な現実主義といえるものであった。
 
  前述したように三宅らが育英会創立運動を活発化した昭和十八年には、日本の
敗色は濃厚になり、戦線の至る所での戦闘の結果多くの犠牲者を出し、その補充
としての徴兵の必要に迫られていた。元来、日本の軍隊の貯水池となったのは、
地主制下にあった貧しい農村であり、粗衣粗食に耐えて命令に忠実な農村の青年
が軍隊の卵とされた。同時に軍隊は飢えに苦しむ農民の口減らしとしての就職先
でもあった。戦争の激化に伴って、青年にとどまらず一家の働き手である壮年者
までが徴兵されるようになった結果、多くの戦死者を出した農村の家族は、働き
手を失い生活はより一層困窮化した。

国は、農村の不満を解消し厭戦気分の高まりを和らげるために遺家族や留守家
族に対する何らかの援助の必要性に迫られていた。同時に、国にとっては拡大
する戦線に対応するために、優秀な頭脳を有する「国家有為の人材」としての
青年の育成は緊急の課題であった。その意味では日本育英会も当時の過酷な戦
況下にあった国家の状況がもたらしたいわば「戦時下の産物」の一面を持った
制度であったともいえる。
 
  このように三宅が最初に衆議院選挙に出馬した際の選挙公約「農村に医療を、
農村に教育を」は戦時中に現実化し、現在も国民健康保険制度、独立行政法人日
本学生支援機構による育英奨学制度として存続している。国民健康保険制度は、
彼の社大党衆議院議員、産業組合代表としての職能性を発揮した活動の結果とし
ての制度であるのに対し、国家的育英奨学制度は、彼の独創的発想から生まれた
超党派の活動の結果成立したものであり、成立経過を異にする。しかしいずれに
せよ、戦時中に成立した社会政策は、その殆どが終戦を境にその存続意義を失い
消滅したのに対し、両制度が人間の健康と教育にかかわる時代や体制を超越した
ものであることから今日も存立していることは、三宅の政治活動を評価する上で
重要である。
 
  三宅を含め社会民主主義政党の政治家達が戦時中に提起した社会政策は、最初
から国策協力を意識したものではなかった。しかしながら、国家総動員体制の中
で社会政策の国策化が進むにつれて、戦時社会政策なかんずく社会保障的政策は、
労働者、農民の保護よりも戦時非常時における生産力の拡充という立場から戦
争遂行のための人的資源の「保全」と「培養」またはその「確保」と「配置」の
政策にその重点を移行し、軍部の影響下に置かれることになった。

三宅が全力を傾注した「国民健康保険法案」は、徴兵年齢にある青年を疾病か
ら守り、多くの兵力の供給源でありながら貧困と医師不足のため病気治療が不
可能な農民の体力を強化するという国家建設における農民動員の補完装置とい
う国策の一環として取り上げられて初めて実現したのである。育英奨学制度も
これまで述べてきたように、大東亜戦争において東亜全域に送り出す国家有為
の人材の育成という建前のもとに成立した。
 
  このように社会政策、社会事業を通じての国策協力は、戦中期における社会民
主主義政党政治家に多く見られた。社会民主主義政党に属する代議士の多くは各
種の委員会、政府系団体に関与した。彼らの意見や行動はそれがたとえ階級的な
立場からなされたものであっても、国策遂行へプラスなものとして「読み替え」
可能なものはむしろ積極的に政策に取り入れられた。

三宅は、すぐれた政治リアリズム,戦略・戦術的な政治感覚を以って、戦時国
策機関への進出を「行政権の確保の場」として捉え、戦時社会政策におけるブ
レーンとしての立場を国策協力という立場に立ちながらの労働者、農民保護を
同時に可能にする場として活用した。このことは結果的に、国家総力戦の遂行
母体であり挙国一致体制の担い手であった戦時内閣への支持と協力を意味し、
後に一部から戦時国策推進を通しての戦争遂行協力責任を問われることになっ
た。
 
  戦時中に活動した社会民主主義政党の政治家の多くは、彼らの活動が結果とし
て戦争遂行に協力する立場に至ったことの責任については余り口を開かない。三
宅もこの点に関しては多くを語らないが日本育英会制度については次のように述
べている。「私は、戦前、国会に議席を持った者として、多くの責任を感じなけ
ればならないことがあったと思うが、ただ育英奨学制度を作ったことは、国民に
対する大きな貢献だったと思い、敗戦の責任についてもいささか慰めるところが
ある。」
 
大戦中に衆議院議員を務めたことに対する忸怩たる思いとともに、日本育英会
の創立の意義を語る三宅の感慨は、教育の機会均等という日本育英会創設の戦い
の理念が第二次世界大戦末期という困難な時代に成立し、戦後の教育理念として
よみがえったことに対しての達成感を感じさせるものであった。


◇参考文献及び引用文献


三宅正一『幾山河を越えて 体で書いた社会運動史』(恒文社、1966年)
三宅正一追悼刊行会編『三宅正一の生涯』(三宅正一追悼刊行会、1983年)
日本経済新聞社編『私の履歴書 三宅正一』(日本経済新聞社、1971年)
飯田洋『農民運動家としての三宅正一 その思想と行動』(新風舎、 2006年)
三宅正一『激動期の日本社会運動史 賀川豊彦・麻生久・浅沼稲次郎の軌跡』(現
代評論社、1971年)
『日本育英会十五年史』(日本育英会、1960年)
『日本育英会二十年記念誌』(日本育英会、1965年)
『日本育英会三十年史』(日本育英会、1975年)

『日本育英会史 育英奨学事業60年の軌跡』(独立行政法人日本学生支援機構、2
006年)
辻功・木下繁弥『教育学講座20 教育機会の拡充』(学習研究社、1979年)
西田美昭『近代日本農民運動史研究』(東京大学出版会、 1997年)
横関至『近代農民運動と政党政治』(三笠書房、 1999年)
芳賀綏『現代政治の潮流』(人間の科学社、 1974年)
服部憲児「日本における学生財政援助制度の展開 育英と奨学の観点から」(『
教育制度学研究 第5号 』1998年)
服部憲児「日本育英会奨学生推薦基準の変遷」(『広島大学 大学教育センター
大学論集』1996年)
山室建徳「1930年代における政党地盤の変貌 新潟三区の場合」(『日本政治学
年報1984年』1984年)                        
                                以上

             (筆者は法政大学大学院博士課程在学)
         

                                                    目次へ