【沖縄・砂川・三里塚通信】

明治150年 自由民権運動の変節と足尾鉱毒事件

仲井 富


◆はしがき
 明治から今年で150年。自由民権運動の闘士たちが国会開設を求めて、全国的な運動を起こした。田中正造は自由民権運動の出身で、立憲改進党所属の代議士として1890年(明治23年)第一回の帝国議会で当選した。しかし議会では全く孤立した闘いであった。絶望した田中は1901年(明治34年)議員を辞職、同年12月10日、生命懸けの、明治天皇への直訴を行った。
 なぜ自由民権運動は藩閥政府と妥協して、足尾鉱毒事件で田中の要求を一顧だにしなかったのか。これをふりかえってみたい。自由民権派の権力追従と戦後社会党の三里塚闘争抹殺加担、そして沖縄辺野古の切り捨てに通底するものは何かを探求してみたい。

 ① 大逆事件と谷中村抹殺 自由民権運動の挫折と女権運動
 ② 江藤新平の梟首(さらし首)の写真を見せびらかした大久保利通
 ③ 勝海舟が田中正造に与えた書き付けと海舟の非戦論
 ④ 幸徳秋水の街、中村市で墓参 秋水の母多治子の物語『一粒の砂』

●足尾鉱毒事件から明治を歩く① 大逆事件と谷中村抹殺

 06年の秋以降、田中正造の墓参に佐野市にでかけた。1890年第一回帝国議会において、田中正造が足尾鉱毒事件を取り上げて以来、110数年になる。も一度その歴史と足跡を辿ってみたいと考えた。その理由は二つある。一つは、かねてから考えていた戦前の足尾鉱毒事件の中における女性の闘いの歴史をきちんと知りたいいこと。も一つは住民運動なるものを考えるうえで、公害問題と住民運動の原点たる明治の足尾鉱毒事件を自分自身のなかできちんと捉えなおしたいということだった。

 九段の千代田区立図書館の男女共同参画室(MIW)を中心として、資料集めや文献の収集にあたっているうちに、どんどん深みにはまって行った。同時に、田中正造の生地である栃木県佐野市などの、足尾鉱毒事件の現地にも、も一度足を運んでみることにした。旧知の田中正造大学の事務局長坂原辰男氏を訪ねて、友人の女性研究者とともに、田中の生家や佐野市の記念館、さらに足利市の田中を祀る寺や、足尾鉱毒の救済に奔走したキリスト教矯風会の潮田千勢子の碑などにもお参りした。
 足尾鉱毒事件において、田中正造の妻として生涯、正造の闘いを支え、正造亡き後も毅然たる人生を全うした田中カツ夫人のこと、谷中村が国家権力によって完全に破壊されたあともとどまって戦った少数の農民たち、それを最後まで支えたと言われる、弁護士や福田英子のことなども、改めて掘り起こしてみたいと思うようになった。

◆自由民権運動の挫折と女権運動
 足尾鉱毒事件の歴史を追うていくと、田中正造や女たちのたたかいを抹殺したのは明治藩閥政権だけでなく、かつての自由民権運動の大隈重信、板垣退助、あるいは平民宰相と言われた原敬たちまで、古河財閥擁護に関与していたことがわかる。田中正造は自由民権運動の出身で、立憲改進党所属の代議士として1890年(明治23年)第一回の帝国議会で当選した。しかし議会では全く孤立した闘いであった。絶望した田中は1901年(明治34年)議員を辞職、同年12月10日生命懸けの、明治天皇への直訴を行った。
 自由民権運動の政治家たちが、藩閥政府と財閥の手先となって、足尾銅山の古川市兵衛と結託し、財閥の権益擁護のために民衆運動の唯一の担い手だった田中正造を排除し、足尾鉱毒事件に苦しむ農民を北海道などに追放するという強権政治を行った。谷中村残留農民16戸に対する強制破壊が1907年(明治40年)7月、それと時を同じくして、大逆事件のでっち上げによって、幸徳秋水など社会主義者、無政府主義者を一網打尽にとらえて、死刑12人、無期12人の極刑によって、息の根を止めた。同年12月のことである。ときの内務相は後の平民宰相原敬である。

 明治の民衆運動も無産運動も、符節を合わせたように、警察権力と、ときには軍隊の出動をよつて鎮圧した。いわば明治の富国強兵と近代化なるものはこのような、民衆運動に対する強権的な圧殺によって成り立ったのである。
 田中正造の明治天皇への直訴は、まさに大事件であった。無関心だったマスコミや世論は沸騰した。とりわけキリスト教矯風会の潮田千勢子などは、被災地の鉱毒を視察し、足尾鉱毒救済会を発足させ、鉱毒に苦しむ現地の農民へ衣類の提供や、子どもを東京に呼んで世話するなどの活動を積極的に行った。また平民社の福田英子などの女性群も同じように被災地救済に立ち上がった。これらは明治初期の自由民権運動に触発された明治の女権運動の系譜につながるものである。男たちの自由民権運動は挫折し、裏切り、権力に取り込まれたが、女権運動は独自の発展を遂げ、田中正造の唯一の援軍として存在し続けた。

●足尾鉱毒事件から明治を歩く② 江藤新平の梟首(さらし首)

 歴史というものは、中央の学者や評論家が書くものだと思っていたが、住民運動で全国を回った経験から、地方にも独自の歴史研究を続ける民間史家の方が多くいることに気付く。昨年、高知県東洋町の友人、原田英祐さんから『江藤新平の土佐路』なる自費出版の本を送呈された。300頁を超える力作である。原田さんとは2007年春に全国に喧伝された、東洋町の核燃料再処理場誘致問題で取材に行き、はじめてお会いした。
 彼を紹介してくれたのは、かつて徳島県木頭村の村長だった友人の藤田恵さんである。藤田さんも村長時代の二期8年、最大のテーマであった細川内ダム反対の村長として、ついにダム中止という歴史的な勝利を勝ち取った。そういう縁で、東洋町の反対派のリーダーであった原田さんを紹介してくれたのである。

 原田さんに会った2007年は、誘致を決めた元共産党出身の現職町長のリコール闘争と町長選候補者の選定で多忙を極めていた。町長選挙は東洋町の女性たちの立ち上がりを中心にひろがり、ついに町長を退陣に追い込み、選挙に持ち込んだ。ここで反対派が担いだのが元全共闘の沢山保太郎氏(元室戸市議)だった。そしてついに沢山氏が有効投票の7割を獲得する大勝で核廃棄物処理場を誘致しようとした田島裕基氏を破った。元全共闘が元共産党を退けた一戦だった。

 その原田さんから、08年の春、前記の『江藤新平の土佐路』が送られてきた。読んで見ると実に面白い。とりわけ土佐の自由民権運動のリーダーたち、板垣退助、有村友造たちの、盟友江藤新平に対する態度が興味深い。彼らは援助を求めてきた江藤を一見、もてなすふりをしながら言を左右して相手にしない。江藤新平一行はやむなく、土佐路を東に向けて阿波徳島に逃れ、東京をめざすが、ついに東洋町甲浦で警吏の手によって捕縛される。江藤らは知らなかったが、高知県令と板垣らは連絡を取り合い、江藤の逃走経路はつぶさに知られていたのである。

 東京に出て一身の釈明をして公正な裁判にかけられることを期待した江藤の思惑は外れた。直ちに江藤一行は熊本に送り返された。佐賀に派遣された裁判長河野敏謙は江藤新平の元書生だった。中央政府の三条太政大臣の意向を受けた岩倉具視の密使が、大久保利通に、江藤を死刑にするな、という意向を伝えようとしたが、大久保は密使との会見の前に江藤死刑判決を河野裁判長に命じたという。河野が「賊魁江藤その方は・・・」と言った時、江藤は「河野、きさまは何の面目あって余にまみゆるか!」と一喝。河野は顔を上げられず、かろうじてその日の裁判を続行したという。
 明治7年4月8日と9日の二日間だけの裁判で結審、13日に斬首のうえ梟首の判決を下し、当日の夕方処刑された。その日の大久保日記には「4月13日、今朝、裁判所へ出席、今朝江藤以下12人の斬刑に付罪文申聞を聞く、江藤醜態笑止なり。今日は都合よく相すみ大安心」と記している。

 最大の政敵を葬った大久保はその後、江藤の梟首の写真を中央政府各省の掲示板に貼らせたた。同時に大久保は料亭に行った際、江藤の梟首写真を持ち込んで、芸妓にその写真を買わせたという。新橋の料亭「しらがき」の芸者小禄は、かつて江藤新平にかわいがられていたことから、大久保に、写真を売るのはやめてほしいと泣いて哀願したが「芸者の分際で小癪千万」とどなりつけられた。それを隣の部屋で聞いていた石川県士族出身の警視庁巡査島田一郎は、はげしい怒りをもち大久保暗殺を決心した。明治11年5月14日朝、大久保は馬車で出勤途上、島田ら6名によって暗殺され49歳の生涯を閉じた。

●足尾鉱毒事件から明治を歩く③ 勝海舟が田中正造に与えた書き付けと海舟の非戦論

 012年に亡くなった河上民雄さんからある会合で、面白い話を聞いたことある。晩年の勝海舟と足尾鉱毒事件に取り組んでいた田中正造との出会いがあった。このとき海舟は田中に対して「このものは百年後の総理大臣なり」という阿弥陀と閻魔にあてた書付を渡した。田中正造はそれを大切し、死の枕辺にも置いていたという。この話は勝海舟全集に出ているはずと教えられた。今から数年前の話である。

 興味をもって広尾の都立図書館を訪ねた。司書の方に調べてもらうとなんと勝海舟全集(講談社刊)なるものは二十五巻もある。このなかから探さなければならない。勝海舟は明治三十二年(1899年)に亡くなっているから、その前あたりの一巻ともうひとつ全集二十二巻の「秘録と随想」の二冊を書庫から出してもらった。最初の一冊にはそれらしきものはない。これは気の遠くなるような作業だなあ、と思いつつ「秘録と随想」を開いた。あった。この本の533ページに載っていた。「百年の後、浄土又地獄江罷越候節は、屹度惣理(総理)に申付候也、半髪老翁請人 勝安芳 阿弥陀、閻魔両執事御中」となっていた。

 解説によるとこの話は雑誌『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第四号に田村秀明氏によって紹介されているとあった。早速、国立国会図書館に出かけて借りてきた。田村氏によるとこれは巌本善治編『増補 海舟座談』(岩波文庫)、「明治三十一年六月三十日」((1898年)の項で、海舟は次のように語っている。「田中が夕べ来た。お前は何になるのだというたら、総理大臣というからそれは善い心がけだ、ワシが請判すると行って、証文を書いてやった。名宛が、閻魔様、地藏様、勝安芳証としてやった。大層悦んで帰ったよ」。田村氏は「まぎれもなく、海舟がこの日、明治三十一年六月三十日の前日、つまり六月二十九日の夜に書いたのである」と述べている。

◆勝海舟の非戦論と田中の亡国論
 『氷川清話』に収録された、勝の発言を見てみると、明治二十七・八年(1894年)の日清戦争に反対の主張を述べている。「朝鮮をバカにするのも、ただ近来のことだヨ。昔は日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー」「日清戦争は俺は大反対だったよ。なぜかって兄弟喧嘩だもの、犬も喰わないじゃないか。日本は支那と組んで、商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ」「支那は昔から日本の師ではないか。…俺などは維新前から、日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くることを計画したものさ」侵略戦争を否定して日清韓による〈東洋三国同盟〉をと言っている。

 明治37年(1904年)の日露戦争のころには、田中正造も明確に非戦論に立っている。「陸海軍を全廃して軍事費を人民の福祉に振り向けるべきである。皇居からわずか八〇キロ離れた関東の沃野を足尾の鉱毒で荒廃せしめ、幾十万の人民に塗炭の苦しみをさせながら、満州を占領したとて何になる。力をもって得たものは、必ず後日、力をもって奪い返されることは必定である」。
 勝海舟や田中正造の予言は1898年の日清戦争から51年後の1945年の無条件降伏で的中した。日本軍国主義は、沖縄と二つの原爆とで完膚なきまでに叩きのめされ敗北した。この間に日本は台湾併合、朝鮮併合、そして満州国独立と領土拡大をつづけ、ついに1937年のシナ事変、1941年の太平洋戦争へとなり、大敗北で一挙にすべてを失う結果となった。

●足尾鉱毒事件から明治を歩く④ 幸徳秋水の街、中村市で墓参

 高知県中村市。かつて田宮虎彦の小説『足摺岬』が評判を呼んでいた頃、友人と足摺岬を訪れ、中村駅前の旅館に一泊したことがあった。四国歩き遍路を始めた2001年12月末のことだ。足摺岬の金剛福寺に参り、帰途中村市に立ち寄った。松山の親友、渡瀬巧さんの紹介で、同じ全逓出身で若くして中村市長をつとめた長谷川善彦さんに出会った。「どこを見たらいいでしょうか」と相談すると「幸徳秋水の墓があり、資料館もある」と教えていただいた。なんという無知だろうか。わたしは長年、政党とか住民運動などの世界にいながら、中村市が大逆事件の幸徳秋水を生んだ街とは知らなかった。せいぜい四万十川下流の小京都といわれる古い街だという程度の知識だった。

 長谷川さんの示唆によって、はじめて幸徳秋水の資料館を訪ね、そして市内の四万十川河畔にほど近い秋水の墓に詣でた。南国とはいえ厳しい寒さで雪さえ舞っていた。天下の革命家幸徳秋水の墓とは思えぬほど質素な墓である。墓前に線香を手向けた。資料館にあった秋水最期の言葉にも大きな感動を覚えた。明治四十四年(1911年)一月二十四日、秋水は東京市ヶ谷監獄で絞首台の露と消えた。四十歳である。
 資料館には死刑宣告を受けた二日後に秋水が、看守の求めに応じて書き上げた絶筆がある。「区々成敗旦休論 千古唯応意気存 如是生而如是死 罪人又覚布衣尊」(こまごまとした成功失敗について今あげつらうのはやめよう。人生への意気を捨てぬことこそ古今を通じて大切なのだ。このように私は生きてこのように死んでいくが、罪人となってあらためて無官の平民の尊さを覚ることができた)。

◆秋水の母多治子の物語『一粒の砂』
 2004年の一月、長谷川さんから『一粒の砂―小説・幸徳秋水の母多治子の生涯』という本を送ってただいた。中村市出身の作家山岡千代子氏の書かれたものである。秋水の母親多治子が七十一歳の病弱の身でありながら、当時の汽船や汽車を乗り継いで市ヶ谷監獄に最期の面会に訪れる物語である。秋水は多治子に「ぼくの生まれたのが百年早過ぎただけと思うちょります。お母さんもそう思うてください。百年経てば、ぼくの考えが、自由思想というものが理解されるようになります」という。多治子は秋水の目を見てわが子の無実を確信する。「あの子は百年後の島を作るために一粒の砂になるのじゃというた。わちもお前と同じ砂の一粒になろうぞ」と心に決める。食事を口にしなくなり数日後他界した。明治四十三年十二月二十八日、享年七十一才。大逆事件公判終了の前日だった。

 母とはいつも強く哀しきものである。被告すべてが死刑または無期懲役となったが、家族もまた大逆事件の重みを一身に背負う犠牲者だった。長谷川さんのおかげで『一粒の砂』という心に残る作品に出会った。まこと歩き遍路の旅とは、鎌大師庵主の手塚妙絹尼さんのいわれる「邂逅の不思議」によって尽きせぬ悦楽を味わうものなのである。

 明治議会に絶望した田中は1901年に議員を辞職、同年12月10日、東京日比谷において、帝国議会開院式から帰る明治天皇に、足尾鉱毒事件の直訴状を渡そうとして取り押さえられる。東京中が大騒ぎになり号外も配られ、直訴状の内容は広く全国に知れ渡った。直訴状は田中に依頼された幸徳秋水が書き、それに加筆修正を加えたものであった。原文を書いた幸徳秋水は1910年、大逆事件に連座して逮捕され翌年1月24日絞首刑執行で40歳の生涯を閉じた。遍路途中の中村市における幸徳秋水との出会いが、その後足尾鉱毒事件と自由民権運動への追究を試みる第一歩となった。

●足尾鉱毒事件と明治の自由民権運動 メモ 問題意識

(1)田中正造は、立憲改進党所属の民権派議員、栃木の民権派の草分けだが、田中が明治23年に第一国会に出てから、ひたすら足尾鉱毒の農民被害を訴えたが、民権派多数の議会は一顧もしなかった。明治23年(1890)年後藤入閣、明治28年(1895年)板垣入閣
(2)逆に、足尾鉱毒事件の元凶である、古河鉱業の古川市兵衛の擁護に回った。孤立した田中は、明治34年(1901年)12月、議員の職を捨てて、明治天皇に直訴、この直訴状の草稿を書いたのは、反戦論に立つ平民新聞の秋水であった。
(3)究極のところ最後まで田中の鉱毒反対の運動を真っ先に支えたのは、キリスト教矯風会の潮田千勢子らで、潮田亡きあとは、東京平民社の福田英子、堀保子らと毎日新聞の取材記者松本英子であった。
(4)日清戦争に、日本人で公然と反対したのは、勝海舟で、逆に朝鮮、支那への侵略を公然と支持し理論的に支えたのは福沢諭吉だった。後年、福沢が「やせ我慢の説」を書いて、幕臣でありながら明治政府の高官となった勝を批判したのは、こういう伏線がある。
(5)非戦、反戦が国内で公然と出て来たのは、日露戦争の時であり、古河財閥と結託した民権派は、民権から国権主義に転じ、自由党の一部は朝鮮などへの進出を、フランスなどからの資金で実行しようとした。いわゆる激化事件[注1]。
(6)明治政府は、藩閥官僚の支配を強め、一方では、板垣外遊や後藤象二郎入閣などの餌で民権派を切り崩した。その最大の事件が1991年2月の第一議会における「土佐派の裏切り」である[注2]。1911年、足尾農民を北海道に強制移住。同年1月には大逆事件のでっち上げで幸徳秋水ら12名を絞首刑にした。
(7)藩閥官僚による支配は、昭和期の内務官僚から、戦後も平成の財務官僚にそのノウハウが継承され、1993年からの細川連立、村山連立、鳩山以下の民主連立政権が、国民福祉税、消費税値上げの先頭に立ちことごとく自滅、消滅して、自民党政権復権に貢献。
(8)消費税という毒まんじゅうを二度、三度食わせて、天下り改革を阻止して権益を守り、ひいては保守本流の自民への政権復帰を成功させた財務省。その陰謀に未だに気付かぬ輩が多い。お金が足りないことがわかったから消費税値上げに走ったと弁解のお粗末。

[注1]この事件は1885年に起こった自由民権運動の激化運動の一つ。朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくものであった。大井憲太郎を中心に、旧自由党の一部が参加。朝鮮半島に渡って改革派の独立党を支援し、立憲体制を築こうという計画が立てられた。海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうと考えたものである。
[注2]明治23年(1890年)に帝国議会選挙が実施された。第一回議会で山県首相の予算案が審議されたが、民権派が多数をしめる議会では「政費節減(予算削減)」「民力休養(減税)」を唱えて政府と対立した。これにたいして政府は、自由党の土佐派(竹内綱・林有造・片岡健吉・植木枝盛ら)の切り崩しに成功、軍拡予算案を通した。これにたいして、中江兆民は帝国議会を「無血虫の陳列場」と批判。明治24年2月(1991年)2月「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也」という辞表を議長に提出して議員を辞職した。

 (『オルタ広場』編集委員 公害問題研究会代表)

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