映画「断食芸人」(足立正生監督作品)

【コラム】大原雄の『流儀』

映画「断食芸人」(足立正生監督作品)
―グロテスクな「近未来」を描く―

大原 雄


● 1)断食、断食芸、断食道、断食行ということ

 「断食」とは、本来3日以上やるのを「本断食」というそうだが、半日断食、1日断食など美容や健康のためにやるのが流行っているらしい。本断食は、専門家の指導の下に行われないと、危険だというが、本断食の効果は、宿便の排泄だという。しかし、「宿便」とは、なにか、というのが結構難しそうだ。断食の指導者たちの説明に耳を傾けるならば、「体に悪影響を及ぼし兼ねない腸内敗残物」というところか。標記の映画批評に入る前に断食の系譜を簡単に追っておこう。

 その断食を見世物にする芸があるという。「断食芸」というそうだ。それを担う芸人は、そのものズバリ、「断食芸人」というのだというが、これがまず、分かりにくい。とりあえず、断食は、すでに説明した通りとしよう。ならば、断食「芸」とは何か、を考えなければなるまい。断食芸を検証するために、似て非なるものとの比較検討が大事だろう。そこで断食「道」、あるいは断食「行」とは何か、を調べてみた。

 昔の書物に、以下のような記述あり。「此庵に住する尼、二十年来断食の行をなして、奇妙の人なりと、其あたり評判して、参詣信仰の人群集す」。断食「行」とは修行の一つだが、自らが修行者にならない限り、昔から修行も見世物になるようだ。

 断食「道」とは、専門家の指導の下、断食道場などの施設で本格的な断食のやり方を実践すること、という説明を見つけた。

 これに対して断食「芸」とは、生命を維持する食をギリギリまで絶ってみせるいわゆる見世物芸。断食という方法で生命の限界、つまり、死の手前まで近づくという意味で、逆に生を超越しようとする人間の欲望を実践して見せる芸ということか。死か、生か、の汀(みぎわ)とはどういう状態か、を見せる。

 普通に生活している人間は、当然ながら腹が減る。腹が減っているのに、食べずに我慢する、つまり、断食するということは、断食期間が長くなればなるほど、辛く苦しいことになる。だから、普通の人間は、適度に定期的に食べ続けるということになる。

 さらに加えて、繰り返すが、断食「芸人」というのが、どういうものか判りにくい。インターネットで断食芸人を探そうとすると、カフカの「断食芸人」という短編小説に行き当たるばかりで、ネットの迷路に誘い込まれる。

 断食芸人は食べないということを観客に見せて、観客になにがしかの金を払わせて、観客を満足させなければならない。断食をすることで生命の限界まで自分は近づいて見せているということを観客に見せつけ、納得させることで生活費を稼ぐ芸人のことである。

 そもそも「断食芸人」とは、実際にいたのだろうか。調べてみると、こうある。
 断食芸人:ヨーロッパでは見せ物として19世紀後半から20世紀前半にかけて実際に多くの興行が行なわれていた、という。りっぱに一本立ての興行だったらしい。但し、この文章はあちこちに引用されているが、まだ、原典を探し当ててはいない。孫引きという段階である。
 断食芸は興行、つまり、見せ物ですね。人間が、何も食べない、というのを見ていておもしろいのか。私などにはよく判らない。逆に、ものを食べる場面を見せるものに「大食い競争」とか「早食い競争」とかがある。大量にものを食う、身体に悪いことをしているなあ、と呆れながらも見たいと思う人がいる、ということは理解できる。早くものを食う、これも同断だろう。でも、ものを食わずにそこにいる、というのがなぜ、見せ物になるのか。
 本当にものを食べていないかどうか、こっそり食べているのではないか、やはり飢餓感には勝てない、などと監視したい気持ちなら、まだ、判る。でも、興行側から見れば、断食芸を見せるといいながら、断食を中断するような行為を興行側がしてしまえば、それで興行は終わりになってしまうだろう。興行として成り立たない。興行として成り立つためには、断食行為を死なない範囲で継続させなければならない。いつ、断食が中断するかしないか、同じ思い、あるいは同じ期待を持って集まった観客がハラハラドキドキ見守る。そこにこそ、断食芸の醍醐味があるのだろう。

 興行としてみると、断食が芸となるためには、
1)断食を芸として実践して見せる人間が必要だろう。少量の水以外には、口に入れない。芸人として各地で興行を続けるためには、断食を継続的に、何度も繰り返して実践できる「芸」の持ち主でなければならないだろう。断食芸で生活の資を得ている。
2)また、それを見世物として見せるための場を成り立たせ、その期間を一日でも長く維持し続けることが出来る優秀な興行師(プロデューサー)も必須。
3)芸人の芸を楽しむために鑑賞料や入場料を支払う観客、観客と芸人との間に立ち、芸の適切な遂行、つまり断食に不正がないことを見守る、あるいは見張る番人たち(通常、観客から選ばれた3人がひと組となって、交代で24時間、芸人の行動を監視した、という)も必要だろう。そのためにも、断食芸人は檻の中に閉じ込められて、管理されなければならない。断食の進行に連れて世間の人々の関心も高まって来て、観客も押し寄せて来る。観客は、断食芸の遂行の成否を賭けの対象にするかもしれない。
4)そのための胴元、賭けの不正防止の管理人も必要。
5)断食進行中の芸人の健康管理をする医師たち。
6)見事、断食に成功した後の、食事や健康管理、リハビリもするスタッフも必要だろう。

贅言1);近年も断食芸という芸は生きていて、2003年イギリスでアメリカの奇術師が44日間の断食芸を披露したというが、奇術師だから、なにか「仕かけ」があったのだろうか。

贅言2);芸ではない断食でありながら、一種の見世物として現代においても行われる断食の系譜には、すでに述べてきたこととは別のものも見つけられよう。例えば、「ハンスト」、ハンガーストライキである。自発的な飢餓状況を作り、主張を込めて権力側に抵抗する。抗議のために、己の食欲の抑圧と健康への影響を犠牲にして権力のあるものに対して、彼らの人道観に訴えようという方法である。例えば、刑務所などで被収容者らが、彼らの生死を管理する刑務所側を脅迫して、人権侵害を広く訴えようとハンストをする、といった類である。

● 2)カフカの場合

 ずばり、その名も『断食芸人』(だんじきげいにん)という短編小説がカフカにある。『断食芸人』(Ein Hungerkünstler)は、フランツ・カフカが、1921年から1922年頃に執筆した、と言われる。1922年に文芸誌『新ドイツ展望』に掲載となった。1924年、「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」「最初の悩み」「小さな女」とともに『断食芸人―四つの物語』として作品集が編まれたが、刊行はカフカの死の2ヶ月後となった。この小説「断食芸人」は、断食芸人の死(断食の究極としての死)、あるいは、断食芸人の盛衰史をコアにした短編小説といえそうだ。

★カフカとは、どういう人物だったか。

 20世紀の代表する作家のひとり、フランツ・カフカ(Franz Kafka、1883年7月3日~1924年6月3日。満40歳)も、このごろの人たちには、説明がないと判らないらしい。カフカは、現在のチェコ・プラハのユダヤ人の家庭に生まれた。ドイツ語で作品を書いた作家。法律を学んだ後、保険局に勤めながら作品を執筆。どこかユーモアを滲ませながら孤独感や不安が溢れる、実存主義的な独特の味わいを持つ小説を書き残した。
 生前は『変身』など数冊の著書が刊行され、ごく限られた範囲でだけ知られる作家だったが、死後、長編小説の『審判』、『城』、『失踪者』などの遺稿が友人によって発表されると再評価の対象となった。その著作は数編の長編小説と多数の短編小説、日記、および恋人などに宛てた膨大な量の手紙からなり、純粋な創作はその多くが未完であったことで知られている。現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の世界文学を代表する作家のひとりと言われる。

★カフカが描く「断食芸人」

 映画監督・足立正生は、カフカの短編小説「断食芸人」を映画化した、という。映画を論じる前にカフカによって描きだされた断食芸人の姿をスケッチしておこう。小説は、ざっと95年前の作品である。

1)断食芸の成功。
2)断食芸の衰退。
3)断食芸人の衰弱死。

 大いに注目され、観客も詰めかけ、興行的にも成功した主人公の断食芸人は、興行師によって、断食期間を40日で終了させられる。芸人は、もっと断食を続けられると主張するが、興行師はこの芸の潮目を見ている。興行師の読みの通り、人々の人気を呼んだ断食芸に対する観客の関心はやがて衰えていく。浮動票が選挙、そして政治をドラスティックに変えることがあるように世間の人々は移り気である。時代とともに人々の嗜好が別のものに向かって行く。

 断食芸人は有能な興行師と別れ、ひとり大きなサーカスに雇われる。サーカスでは断食芸も数ある演目のうちの一つの演目に過ぎない。以前のようなマネージャー(興行師)の管理もなくなる。その代わり、断食芸人は自己責任で今や自分が望むだけ断食を続けることができる。しかし、断食芸が披露できるのは華やかなスポットの当るメインの舞台ではなく、観客が幕間の時間に過ごすための空間で、サーカスに出る動物たちの待機する檻の並びという場所である。さらに、ここでも観客のお目当ては動物たちである。人々は断食芸人の檻の前は素通りして行くばかりである。

 サーカスの監督に声をかけられた檻の中の断食芸人は、自分が断食を続けていたのは自分に合う食物を見つけることがでなかったからだ、と言って自分の断食の記録更新に挑戦し続けている、とアピールする。挑戦をしながらやがて死んで行く。

 邦訳の原文から引用してみよう。なぜ、断食をするのか、という問いへの答え。

 「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」(原田義人訳。筑摩書房刊「世界文学大系58 カフカ」)

 この言葉から明らかになるのは、断食芸人がもう長い間、記録や世間の栄誉などに関心を持たずに、まったく次元の異なる課題を自分なりに掲げて生きてきたということである。

 断食芸人の死後、彼が使っていた檻には若い豹が入れられる。豹は人間と違って檻の中でも自由に動き回り、与えられた餌だけで満足し、生命力溢れる所作を披露し、新しい人気者としてサーカスを訪れる人々を魅了する。

 カフカにとって、断食芸人とは、生涯不遇なまま文学を志して、うれない作品を書き続けてきた己の姿の写し絵だったのかもしれない。断食芸人が求めたものは世間の賞賛でもなく、自身の記録づくりでもなく、己が課した価値あることを求めて生きることが自分なりの人生の意味だと悟り、断食を続けた果てに納得して死んで行った。カフカも、未完の作品をいくつも残しながら、自分なりの世界へ突き進んで行ったのではないのか。

 小説の中で、カフカが描き出す円形劇場、あるいは巡業会場で、一本立ての「興行」となった断食芸という演目。*格子檻の中で断食し続けている様子をみせる男。*興行主と男、興行主と観客、男と観客、という三角関係。見る側のポイントは、断食という興行は、本当に実践しているのかどうか。隠れて、何か食べているのではないか。断食の最大の期間を興行主は、*40日間と決めている。断食男は40日を越えてみせたい、という執念を燃やす。(*印をつけた辺りは、足立正生監督の映画にも生かされているキーワードなりエピソードなりである)

 カフカが描いた時代でも、時代の趨勢で、断食芸は廃れていった。観客の興味は、ほかの見世物へ流れる。芸人は長年の付き合いの興行師と別れ、サーカスへ身売りする。サーカスの、単なる一演目になる。舞台に出る主要演目ではなく、外の動物小屋の一郭。幕間のアトラクション並み。動物小屋の魅力以下になりさがる。そして、サーカスの片隅で孤独な飢餓死を迎える。今の社会と繋がる光景だろう。

● 3)足立正生の場合

 足立正生監督は、1939年生まれ、76歳。試写会で配られた資料によると、足立正生監督の略歴と大雑把に私が抄録したフィルモグラフィーは、次の通り。
 若松孝二の独立プロに加わり、セックスと革命をテーマにした前衛的なエロ映画(当時は、「ピンク映画」とか、「ポルノ映画」とか称した。その前は、「エロ映画」。いまも、また、「エロ映画」という言葉が復活した)の脚本(若松孝二監督作品)を多数執筆。1966年、監督としてもデビュー。1968年、大島渚監督作品「絞死刑」に出演。1969年、大島渚監督作品「新宿泥棒日記」の脚本執筆。1971年、カンヌ映画祭に参加した帰途、若松孝二監督と共にパレスチナへ入り、パレスチナ解放人民戦線のゲリラ隊に参加・共闘しつつ、パレスチナゲリラの日々を描いた「赤軍―PFLP・世界戦争宣言」を監督・撮影・出演・製作した。1974年、重信房子が率いる日本赤軍に合流し、国際指名手配された。1997年、レバノンで逮捕され、2000年刑期満了後、日本へ強制送還されて、帰国。2007年、赤軍メンバーの岡本公三をモデルにして描いた「幽閉者 テロリスト」で、35年ぶりに脚本執筆と監督を担当した。2015年、「断食芸人」は、監督復帰、第2作である。

★映画「断食芸人」は、どういう作品か。

 映画の冒頭シーンは、海岸に打ち寄せる波の映像で始まる。だが、この波が、どうも異常だ。強く、高い。凶暴性をむき出しにしているように見える。牙の生えた波。そのうち、波は防波堤を乗り越えて、押し寄せて行く。「津波ではないのか」と気がつく。海辺の街を襲う津波。家々をなぎ倒し、道路を浸水し、車や人や動物を飲み込む。原発の爆発の映像も映し出される。白い煙が立ち上っている。5年前の、2011年、3月11日から、それ以降の実写映像だろう。私も、翌年の3月10日から11日にかけて福島県にある東電福島原発以北の浜通り地方へ行き、現地の爪痕を見た記憶がある。足立監督は、こういう。「日本では3.11で、原発の安全神話だけじゃなく、日本の30年の経済神話が全く根元から壊された」。そういう問題意識で、足立監督は、この映画の冒頭シーンを決めたという。

 次のシーンは、ウロウロしているという感じの足どりで歩んで行く男の足元の映像だ。男は、地方都市の商店街を当て所(ど)なく歩いているようだ。アーケイドのある商店街。シャッターの降りたある商店の前の道路に男は座り込む。なにか目的があるようには思えないが、とにかく、座り込んだ。

 いつの間にか、本人の意志とは無関係に男は「断食芸人」となった。かつてはただの男だった。悠久の時の中で人類の愚かさを知り、哀しみをとらえ、絶望を眺めてきた。過去の時は新しく、未来はとても懐かしい。「断食芸人」。永遠の意味を知る唯一の存在である、という。

 カフカの「断食芸人」は、見世物で生計を立てるタレントだったが、足立正生監督作品・映画「断食芸人」は、ひたすら何もしない男だった。

 足立正生監督は、次のような男を映画に主人公に据えたのだ。
男:1)何もしないこと、することは、2)断食、という一種の「自傷」行為のみ。つまり、食べないこと→ 誰にも迷惑をかけない。3)商店街のアーケード、シャッター前に座り込むこと→ 商店街には幾分迷惑をかけるか。4)ほかの人と違うことをしていること→ これが、いちばんの罪なのかもしれない?

 ある日、ある町の片隅にこの男がフラフラと現れ、そのままそこに座り込んだ。最初に男に気付いたのは、子ども。一人の少年がかけより男に問いかける。「おじさん、なにしてるの?」その問いかけに、返事をするどころか何の反応もせずにじっと虚空を見つめている男。その写真を少年がSNSに投稿すると、翌日から男の周りには次々と人が集まってきた。次いで商店街を巡回している商店街の役員。その通報か、苦情かが寄せられ様子を見にきただけの交番か駐在所の警官など。多数の一般の人々、国民(多数派):権力者を支える、権力神話の源泉。
 断食男が格子檻に入れられたことで一般の見物人たちが増える。男を激励する人。馬鹿にする人。断食男に食べ物のさし入れをする人。賽銭をあげる人など。現場中継するテレビ局などマスコミ。全てが戯画的に描かれる。騒ぎに金の匂いを嗅ぎつけた見世物の興行師。男と見世物契約書を無理強いに交わし、男を独占するために檻に入れたのだ。断食男は、格子檻の中から外を見る。檻の外の見世物たち。つまり、人々。つまり、私かあなたか。檻の内と外の逆転。行政から派遣されたのか、男の健康管理をするという女医ら医師団。無理強いに男を連れて行く。1回目の「断食」は、ここで中断。
 檻の反対側の道路端に座り込むふたりの托鉢僧。定点観測者のような托鉢僧たち。般若心経を唱えながら、四六時中、断食男の様子を見守る。事態の観察者、記録者であるようだ。いつの間にか隣に座り込む自殺志願の女。引きこもり男。白衣を着た「死のう団」という団体、詩人吉増剛造は特別出演、誰が派遣したのか、勝手に志願してきたのか、監視人と称する兵士姿の男、最後は断食男の処刑人となる。なにかをしながら生きて行く人々にとって、何もしないで日がな一日座り込んでいる、ということは、興味深い。普通と違うと認知された結果、男はちょっとした有名人になっていく。「この男は一体何をしているのか?」人々はそれぞれの持論を繰り広げる。男は自分の意志に反して勝手に「断食芸人」に仕立てあげられて行く。

 この男を取り巻く、ほかの登場人物たち。キッチュな連中ばかりである。例えば、彼らのエピソード。自殺志願の女をレイプするチンピラたち。女が暴行を受ける場面を離れて見ているだけの引きこもり男。その引きこもり男も暴行されて瀕死となる。その男とセックスする自殺志願の女。病院への搬送を拒む断食男の抵抗。ほとんど唯一の意思表示。警察から連絡が行ったのか、行政の対応か。断食男を保護する名目で、病院に搬送する女医たち。軸となる女医は、つげ義春原作の漫画「ねじ式」に登場する女医のイメージだという。色気で迫る女医たち。檻の中に乱入して断食男を取り囲み、胸乳をさらす女子高校生たち。檻の前で、割腹自殺をする「死のう団」の連中。軍服を着た男=興行師。見世物小屋の呼び込み男。

★ 足立映画のキーワード

 足立正生映画のキーワードを拾い出してみよう。
ある日=2015年。
ある町=地方都市のアーケード商店街。
片隅=シャッター商店前の道路。
SNS=ネット社会→ ただの男を有名人に仕立てあげて、逆にそれに踊らされるという構図=マスメディア、テレビに出る取り巻き(評論家)たち。

★「断食芸人=トリックスター」の意味

ただの男=無職男。
人類の愚かさ=原発事故がもたらしたもの。
哀しみ、絶望=津波。
過去=今後の日本。未来=戦前の日本。

★ キッチュを演じた主な役者たちは、次の通り(顔と名前が一致しない役者さんに陳謝。偏にアングラ演劇への私の知識不足に拠る)。

山本浩司:断食男。座り込み、何も食べず、何もしない。
桜井大造:世界見世物協会、ヒトラー(権力のパロディ?)。
擬似権力者:興行師。恣意的に判断できる特権を持っている。断食男と無理矢理契約書を交わし、男を檻に入れて、見世物にして、金もうけを企む。
流山児祥:世界見世物協会、マスメディアのパロディ。擬似権力者の同調者。
伊藤弘子:「ねじ式」の女医(つげ義春の漫画「ねじ式」の登場人物)、「国境を『守る』医師団」のスタッフ。
井端珠里:若い女、自殺願望、傍観者。引き籠り男とのセックスシーン、死んだ断食男の檻に粘土人形を置いて立ち去るラストシーンの意味は深長。

引きこもり男:断食男のパロディか。
チンピラたち:自警団、白衣の「死のう団」、興行師とは同類か。国民のパロディかもしれない。
テレビ中継班のリポーターたち:マスメディアのパロディ。
一般の見物人=国民(多数派):私か、あなたか。

吉増剛造:本人(特別出演)。超越した詩人。
和田周:老いた僧侶、傍観的な評論家。
川本三吉:若い僧侶、老僧に問いかける人。国民の少数派を代表するようだ。
本多章一:断食男の入る檻の監視人、兵士、ラストでは断食男を殺す処刑人(胸と頭を銃で撃ち、即死させる)、国家権力の暴力性を具現。
田口トモロヲ:ナレーション。

 断食男の陥穽。断食の系譜にハンスト、ハンガーストライキがあることを私たちは既に見てきた。ハンストは権力者に対する弱者の抵抗策の一つである。断食はハンストに似ている。→ 権力に反抗していると恣意的に判断される隙がある。男は何もしないのだが、意志に反して抗議のスタイルという誤解を生みかねない。それゆえか、それとは別にか、映画では、断食男は監視人の兵士に殺される。権力者に睨まれた? 青春時代に観た大島渚監督作品「絞死刑」が連想された。

 右傾化した2015年を描くように、点描の数々。軍服を着た男たち。擬(もど)きの「死のう団」。檻の監視人という名の兵士、あるいは、結末的には処刑人でもある。2015年の8月15日に私は、初めて靖国神社の異常さを見物に行った。その時、観た靖国神社境内界隈のわい雑さ、というような感じの雰囲気を映画から連想した。初めての8・15の靖国界隈ウォッチング。九段下駅は階段出入り口付近から、もう長い長い行列が出来ていた。参詣人は、行列にならぶことが必要だが、ウオッチャーならば、横道は自由に通れる。境内に入り、本殿までゆっくりと進む。あちこちでいろいろな人たちがメッセージを発信している。軍服を着たお年寄り。日の丸を掲げて、練り歩く団体の人たちなど、午後0時までじっくり見物。その印象の所為か、足立正生監督作品「断食芸人」は、地方都市のシャッターの降りた商店街を一時ながら靖国神社化したように見える。

 2015年。この映画の主要舞台は、地方都市の商店街を想定。ロケ地となったのは、宇都宮市のオリオン通りというアーケード商店街と宇都宮動物園。エロっぽい、あるいはグロっぽいシーンは、動物園のオープンセットで撮影された。檻の周辺の背景が違う。商店街のオープンセットには各地から撮影見物に来た人たちが、そのままエキストラになって出演した、という。一種の都市ゲリラ的に映画は撮影された。その結果、現実と幻想を超えたグロテスクな足立ワールドが出現した。

 残酷で不条理な国で見世物にされる一人の男。人々は勝手に「断食芸人」を創りあげ、過熱する。やがてその男の周りはグロテスクに膨張して不穏で禍々しい異様な世界へと姿を変えていく。そこは観る者の姿を映し出す小惑星。もう傍観者ではいられない。断食芸人は天使か悪魔か。いったい何者なのか。混沌とした異空間をエモーショナルに描き出す。自由に拘束された現代人の生をえぐり出す物語。以上、映画のチラシにちりばめられた言葉からは、落語のような話が浮き彫りになる。

 2015年に起こった事を明確にできる映画だと主張するのは、足立正生監督。脳裡に描いているのは、安保法制化問題、いわゆる「戦争法案反対」で盛上げた人たちと、空虚なおしゃべり男、もうひとりの主役である去年の夏以降のアベ政治、という状況か。2015年を描く。政治状況のグロテスクさ(国民主権とは逆転した発想、それを覆せない国民。戦争法案、違憲というルール違反、強行採決という民主主義、その後の放送局に対する介入発言など、マスメディアへの威嚇、権力者たちは、確信犯的に逆転の発言を続けて、世間の瀬踏みをしている。それを防げない世間)を寓話に変えて描いているのだろう。

 「現状、でたらめなことは起こって」いると日本外国特派員協会での記者会見で足立正生監督は語った。スチール写真撮影は、我らがアラーキー・荒木経惟。映画にはないシーンだが、格子檻に入った足立正生監督を撮影した。断食男は監督自身だ、ということだろう。自由という格子檻の中で人々は生かされているということ。豹の自由。現状告発のメッセージ。

★ カフカとの違い。

カフカ:断食の可能性にかけて自発的に衰弱死する男。未完の作品を多数残して死んで行ったカフカ自身とのアナロジー。

足立正生:断食という自傷行為すら許さない社会、時代を告発する。ほかの人と違うことをすることは罪悪。戦前の隣組という監視社会への逆戻り、という世相を告発しているのか。足立監督自身は、あまり、直接話法では語っていないように見受けられた。

 映画のキャッチコピー(「断食芸人」らしい時代がかった宣伝文句)で紹介するなら、この映画は「奇想天外にして遣る瀬無き世の写し絵となる、最強にとんちきで最高に奇天烈なムービー」ということなのだろう。

● 4)このグロテスクさは、「遣る瀬無き世の写し絵」か

 テレビ中継のある場面を思い出す。
 2015年9月17日午後4時半過ぎ、NHKテレビが午後1時から放送していた国会中継の映像に突然、「混乱」が写し出された。中継の映像を見逃した人でも、ニュースなどで放送された録画映像は、ご覧になった人が多いと思う。いわゆる「戦争法案」を審議していた参議院特別委員会の「強行採決」の瞬間であった。
 議事進行に対する不信任動議が野党から出された鴻池委員長。不信任動議が与党によって否決された直後、鴻池委員長が委員長席に戻るのをきっかけに委員会室の後方で立ったまま待機していた約10人の自民党議員らが委員長席に忍び寄る姿が見えた。彼らは委員長席の周辺を取り囲むように並ぶと、突然スクラムを組み、鴻池委員長を饅頭の皮のようになって包み込んだ。鴻池委員長と野党議員を分離するためだ。政治家の隠語で、「かまくら方式」とか「人間かまくら」という強行採決の際の手法らしい。雪国の幻想的な「かまくら」とは、ほど遠い、みにくいグロテスクな光景だった。慌てて駆け寄る野党議員と援軍の与党議員の間で「混乱」の映像(今回の与党の姿勢の本質をなによりも如実に語る歴史的映像)となった(委員会の未定稿段階の速記録には、「議場騒然、聴取不能」としか書いていない)、という次第。代議制民主主義を議員自らが形骸化させた瞬間だ。

 このグロテスクさは、今回の映画「断食芸人」を覆う、何かに似てはいないか。もうひとつのグロテスク=現在と近未来の状況。政治も社会も文化も。

 最近、俄に、巷に流行っているのは、「アベ政治」というのは、……なに?
 憲法と共に生きるという食事をさせないという「断食」によって戦後の生活構造の原理というものを、恰も「宿便」だと言い張り、国民に力づくで排泄させようとしているのではないか。こんなことを考えてみようというのが、今回のコラムの趣旨であった。

 足立正生監督の映画製作の弁。3・11へのこだわりを次のように語る。「足立正生監督インタビュー」(「TOCANA」、取材・文:ISHIYA)より以下、引用(基本的に原文のママ)。

 「時代の権力を持ってるヤツは危機感を持ってはいないけど、そういうのを恐ろしく感じながら生きてきた僕らは、そういった神話の崩壊の前で『何が言えるのか?』というのをみんな問うたと思うのね」。

 「原発っていったら『地獄の釜』じゃないですか。原爆と同じなんだから。その釜の上に蓋をして、廃れ行く廃村でコミューンを再建するとか美しいことを言いながら、地獄の釜の上に住むことになるのを知りながらやってきた神話が全部壊れた」。

 「3.11以後って『本当に言葉を発することができるか?』っていう悩みを、みんな持ってると思うんだけど、言葉を発しない、発することもできない『民の恨みのまなざし』をテーマにしたいというのがあったんだよ。だから、原発の前に恨んでるのか、怒ってるのか、恥じらってるのか(略)その後ろに日章旗があるという画(え)にしたの」。

 「なんでも自由に見えて、実はその自由っていうのが好き好んで生きてる自由なのか? 自分の意志や想いや色んなものを開(解?)放しながら生きてる自由なのか? っていったらそうじゃなくて『自由という概念に縛られてる』というかね」。

 「何を言っても言葉とか行為ってのが絡めとられていってしまう中で、じゃあ何をしたらいいのかな?と、最後までわかんないでしょ? 何をしたいワケでも、何を言いたいワケでもない。そこにブラックホールみたいにみんな吸い込まれるんですよ。その関係性の中で『みんなもう1回考えたらいいじゃないか』というのはありましたね」。

 「カフカの原作がちょうど百年ぐらい前でしょ? 近代化が始まるために色々息苦しい世の中になっていくわけですね。それと同じ息苦しさがこの時代にいっぱいある。そこだけは生かしてやろうと思ったけれども、色々なメッセージをたくさん飾るというのは一切しなかった」。

 「そこの街のチンピラは自警団とか興行師と同じようにひとつのシステムなわけでしょ? だから『それに対してどう闘うか?』っていうことができないから最後に自分を賭けてみると。それで簡単に殺されちゃうというね」。

 7月の参議院選挙が同日選挙になる可能性が高いかもしれない。同日選挙という危機管理上の問題を含む(選挙期間中、国会議員は参議院の半数だけになる。震災などがあっても、十全に対応ができない可能性がある)と思われるグロテスクな政治状況がやがて出現するかもしれない。数の論理が民主主義と思い込んでいる権力者たち。

 緊急事態が発生をし、国会決議が必要な有事の際にはどうなるのか。閣僚はともかくとして、議員の身分が極めて中途半端だ。正規の現職は参議院の非改選議員だけとなる。衆参の任期の終わった議員たちが事態に対応したとして、こういう決議を、その後の新しい議員たちが引き継ぐということが現実的なことなのだろうか。

 処方箋は、フランツ・カフカの「断食芸人」という短編小説と2月末に封切られたばかりの足立正生監督作品・映画「断食芸人」という辺りが、この小論のミソである。

 残酷で不条理な国、異様な世界=現在、そして近未来の日本。形骸化した代議制民主主義。数の論理でなりふり構わずに、この道しかないと、突き進む権力者。見世物、傍観者になりさがるのか、多数派の国民。私か、あなたか。

「断食芸人」=「だまって、勝手に食べずに、座っている」という状況への、イメージ的なレッテル貼り。
過熱を煽る=ネット、マスメディアの罪。戦時中の日本の軍事政権と国民と大手新聞社の三角関係。
断食と宿便=戦後を断つ、憲法の宿便化、ということか?
→ 処方箋のキーワードは、グロテスクな政治状況。『それに対してどう闘うか?』。

 津波のように、繰り返し押し寄せる強権的言動。いわゆる「戦争法案」には野党共同で戦争法案の「廃止法案」が提案されている。この大義が大事。政治状況のこうしたグロテスクさの果てに、戦争法案は3月末に施行となる。グロテスクをグロテスクとも思わない歪んだ社会が、私たちの前にリアルに出現した。

 映画「断食芸人」は、2月27日より、東京・渋谷のユーロスペースで一般公開が始まった。ほかでも順次、全国公開される。

 (筆者はジャーナリスト、日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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