映画批評;『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』

【コラム】大原雄の『流儀』

映画批評;『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』

戦争の半世紀と非戦の70年(非戦の一世紀を目指して)

大原 雄


 戦後70年。敗戦から70年ということで、終点(敗戦時)はハッキリしているが、先の戦争(アジア太平洋戦争)は何時から始まったのか。

 幕末に西欧列強から押し付けられた不平等条約からの脱却を目指して始まった日本の侵略戦争と植民地確保・拡大(列強に並べ、という帝国主義)から、その終焉までを含めれば、1894年7月の日清戦争(中国では、「第一次中日戦争」という)から1945年8月の敗戦までだろう。この間の戦争は、日清戦争(1894年〜95年)、日露戦争(1904年〜1905年)、第一次世界大戦(1914年〜1918年。日英同盟に基づき、1914年8月23日、イギリスより20日程遅れて、直接国益に関与しないのにドイツに宣戦布告をした。同盟国に引きずられての参戦。「集団的自衛権」というか、「他国防衛」というか。「戦争法案」と同じではないか)、シベリア出兵(1918年〜1922年)、「満州事変」(1931年〜)、日中戦争(1937年〜45年)、「ノモンハン事件」(1939年)、太平洋戦争(1941年〜45年)や、いわゆる「戦間期」を含めて1894年から1945年までの51年間という「戦争の半世紀」が浮き上がって来る。

 近代日本の「戦争の51年」と戦争に巻き込まれず、戦争を仕掛けても来なかった戦後70年、つまり、「非戦の70年」(とりあえず、「非戦の一世紀」、戦後100年を目指して記録更新中、ということだ)という対比が、くっきりと浮かんで来る。

 「戦間期」と言えば、昭和史を素材にした作品の多いノンフィクション作家の保阪正康が、次のようなことを書いている。

 「(略)『戦間期の思想』をもたないという宣言である。戦間期とは第一次大戦の終結(一九一八年)から第二次大戦の開始(一九三九年)の二一年間を指す。ドイツの例を見てもわかるとおり、この二一年間は復讐を準備するための時間であった。人類史は、戦争で敗れた国は大半が一定の時間を経て必ず復讐戦を行い、失われた領土や過大な賠償、それに失墜した国威をとり戻すための戦争を行う。つまり必ず戦間期をもって、再び戦いの準備に入る。それが鉄則のようなものだった。
 ところが日本はどうだったか。この七〇年間、一貫して『戦間期の思想』をもたないことを国是としてきた。人類史に例を見ないほどこの信念を貫いていることは、一日一日が世界記録を更新していることでもあった。日本がかつて侵略して獲得した折りの他国の領土をとり戻すなど考えもしなかった。その侵略主義を丁寧に謝罪し、自省を続けてきた。憲法九条はその身分証明書のようなものであった。今なお侵略主義に対する誠実な自省は、憲法を守ることと一体であり、それこそが戦間期の思想を拒否していることの証でもあった」(「『戦間期の思想』をもたない宣言を」、岩波書店編集部編「私の『戦後70年談話』」所収)

 そう、日本は2015年の今年、戦後70年の夏を迎えた。猛暑にもめげず、戦後の記録、つまり、非戦の記録を70年から71年目へと伸ばし始めた、ということをもっと世界に向けて宣言しようではないか。私たちは、新たな戦前を招き寄せず、戦間期の復讐心など育まずに、このままで非戦を貫く外交を重視したい……。

◆南京事件を素材に描いた映画が限定的な上映しか出来ていないという現状

 さて今回は、映画批評である。2009年にドイツを軸にフランス、中国3カ国の合作映画として製作された。出演俳優たちは、ドイツ語、英語、中国語、日本語を話す。各国では、公開された映画が、6年も経つのに日本では、配給を請け負う会社がなく、未だに自主上演による限定的な公開しか出来ない、という現状があることを知って欲しい(但し、DVDでは販売)。

 「ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜」というのが、この映画の日本語のタイトル。監督は、フロリアン・ガレンベルガー。ドイツ人である。上映時間が3時間近い大作(但し、国際版)である。原題は、「ジョン(ヨーン:ドイツ語読み)・ラーベ」。ずばり、映画の主人公の名前。ドイツの会社、シーメンスの社員。日本では、一般的には知られていない人名なので、邦題では「南京のシンドラー」というサブタイトルをつけたのだろう。シンドラーとは、第二次大戦中、ドイツの強制収容所に入れられていた多くのユダヤ人をナチスから救ったことで知られているオスカー・シンドラーのこと。ユダヤ人の代わりに南京で多数の中国人を日本軍から救ったラーベということで、「南京のシンドラー」とその後呼ばれたらしい。

 映画は、1937年12月初めから38年2月末までの3ヶ月間の中国・南京を舞台にする。

 1937年8月9日、第二次上海事変(これに伴い、盧溝橋事件の「北支事変」から「支那事変」、つまり日中全面戦争へ、と呼称が変わった)以降、きな臭さを増す華南地区。日中戦争は、1931年の「満州事変」から始まる。宣戦布告せず、「満州某重大事件」とごまかした日本軍の謀略から始まった。中国の周辺部から、日本軍は中国に襲いかかった。第二次上海事変は、1932年の第一次上海事変から通低していた。1937年上海から南京へ日本軍は中国内陸部へと侵攻。上海派遣軍司令官は、松井石根(いわね)大将。1937年12月7日、蒋介石が南京脱出。9日、日本軍南京城(城壁で囲まれた南京市街地のこと)包囲。10日、日本軍投降勧告した後、総攻撃。13日、南京陥落。日本軍第10軍傘下第114師団(宇都宮)らが南京入城。15日、上海派遣軍傘下第16師団(京都)ら南京入城。17日、中支那方面軍司令官・松井石根大将らの南京入城となり、入城式が行なわれた。

 この時の入城の際の報道写真がいくつもある。入城する日本軍の先頭を馬上で独り行く松井大将。続く2番手以下は、二列縦隊。上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)中将、第10軍司令官・柳川平助中将、第16師団長・中島今朝吾(けさご)中将らの姿もあるのだろう。将校たちは、皆、馬上にある。道の両側には、第10軍や上海派遣軍の将兵たちが、軽装の軍服姿で列を組んで出迎えている。1937年12月13日以降、6週間(1ヶ月半)、あるいは、2ヶ月間(つまり、1938年2月末か、あるいは3月半ばまで)ともいうが、日本軍による南京虐殺があった、という。つまり、この映画は、日本軍による「南京虐殺事件」をドイツ人の目を通して描いた作品というわけだ。

●南京安全区創設:
 日本軍の侵攻に合わせて南京在住の外国人の間で、上海南市難民区をモデルに真似て、南京安全区が作られる。1937年11月、アメリカ、イギリス、ドイツの3ケ国15人で自称・南京安全区国際委員会が結成されて、ドイツ人のジョン・ラーベが、委員長に推される。「安全区」:中国人難民などを救済するために南京城の一郭に、出入りを管理する安全区(難民区)を設定した。概略六角形をした安全区の面積は、3.85平方キロ(南京市域の、約10分の1)。どちらの軍も立ち入り制限とした、一種の非武装区域。安全区で、20万人の避難民を救済した、という。但し、平服に着替えた中国兵(「便衣兵」と呼ばれた)なども潜り込んでいた、という。戦闘員と非戦闘員の判別が難しい。

 1938年2月18日、シーメンスのラーベの後任者と日本軍幹部の肝煎りで「南京安全区国際委員会」は「南京国際救済委員会」に改称される。日本軍への非協力を理由に2月28日、日本軍から退去を命じられたラーベは強制帰国となる。ナチス・ドイツの本国への帰国だ。5月末には、日本軍が南京安全区そのものを閉鎖してしまった。安全区は、半年余りの暫定的な非武装地帯だったが、約20万人の中国人を救ったと言われる。

●ラーベという男:
 1937年当時、55歳。1882年〜1950年の生涯。1908年から1938年まで30年間中国各地に駐在。シーメンス社員になるのは、1910年以降。この間、第一次世界大戦(1914年〜1918年)では、日本はドイツの敵対国。第2次大戦勃発後の1940年の三国同盟で日本はドイツの同盟国になる。

 ラーベは、日本軍から見れば過去に敵対国であった第3国の外国人という立場だ。ラーベは、シーメンス(ドイツ語読みでは、「ズィーメンス」)という大企業(1847年、日本で言えば、幕末期の創業。明治維新より20年も前。現在は、ドイツのミュンヘンに本社を置く多国籍企業。現在では、電信、電車、電子機器、電力関係、情報通信、交通、医療、防衛、生産設備、家電製品などを手がけるコングロマリット。日本では、1914年に発覚した海軍が絡む汚職事件、いわゆる「シーメンス事件」で知られる)の南京支社長。当時で在中国30年近いというベテラン社員だった。ラーベは、当時、中国滞在最古参のドイツ人だった。

 ラーベは、シーメンスの幹部社員として、中華民国には、シーメンスの電話施設、発電所施設など売っていた。そういう場面が描かれる。シーメンスの社員は、「武器商人」であった。日本軍が侵攻してくる前は、蒋介石を軍事的、財政的に支援していたことだろう。中国への武器輸出はシーメンスの基本的な商売だったろう、と容易に推測される。蒋介石は大事な商売相手。日本軍には、反感を抱いていたとしてもおかしくはない。ナチスの海外支部の役員をしているとしても、本国にいるのとはわけが違う。ナチス・ドイツは、1933年から1945年だけの国家。ラーベが、30年の中国駐在の時代は、大部分はヒトラーとは無縁だ。シーメンスのばりばりの社員ではあっても、ばりばりのナチス党員ではなかったかもしれない。

 そういえば、映画では中国の蒋介石総統から「中国人たちのヒーロー(ヒーロー オブ チャイナピープル)だと言って、直接勲章を渡される場面もあった。蒋介石は、映画の中では、「将軍」としか表現されないが……。ラーベは蒋介石から勲章をもらった南京ナチスの幹部党員(南京支部長代理、あるいは、副支部長という訳語もある)であった。もっとも、1933年に出来たナチス・ドイツ。ラーベは、20世紀の初頭からずうっと中国駐在だ。38年に帰国するまで本国にいたわけではないので、ナチスにどの程度本気で信奉していたかは、判らない。ハーケンクロイツ(ナチス・ドイツの旗)をシーメンスの工場に掲げ、工場で働く中国人の従業員には、「ハイルヒトラー」という敬礼を強要していたが、海外にいるドイツ人同士で、ナチスの支部を運営していただけかもしれない。

 日本軍の侵略により30年間のラーベの中国生活の蓄積は、無にされてしまった。映画ではシーメンスの本社重役という転勤を内示されていたが、後任者から、それが偽りであることを知らされる。ラーベに何があったのか、それはこの映画では判らない。

 南京侵攻を前に激しくなる日本軍の空爆。それに対抗するように、シーメンスの工場敷地にハーケンクロイツを掲げた上、国旗の何十倍もある巨大なハーケンクロイツをテントの屋根替わりにして、日本軍の空爆から中国人避難民600人をラーベは守り助ける。ジョン・ラーベという男は、なぜ、自分の財産や命を投げ出してでも中国人を助けようとしたのか。根っからのヒューマニストなのか。映画の印象では、そうとも思えないが……。

 ラーベは、1938年帰国後、日本軍の暴虐をドイツ政府に訴え出たが、日独伊三国同盟(1940年)準備段階のナチスの政策に反するとして、逆に監視下に置かれてしまう。ゲシュタポに逮捕・拘留される。シーメンスの介入で、釈放。シーメンスは、ラーベを馘首せずに閑職ながら雇用を続けた。ラーベは、不遇の長い時間を利用して日記をつけ続けていた。戦後は、ナチスの党員前歴を問題にされ、イギリスやソヴィエトの軍隊に逮捕された。収容先では非ナチス化の訓練を強要された。1946年6月釈放された。帰国以降の戦中、戦後の晩年は、貧窮のうちに失意、不遇なまま過ごす。1950年脳卒中で死去。享年68歳。南京での人道的な活動は、死後、書き残した日記(1996年刊行)が評価されて、名誉回復、日の目を見る。

●映画・南京事件:
 この映画は、近代日本史上、いろいろ議論を呼ぶ「南京事件」を取り上げる。ドイツ人監督の目で、日本軍の蛮行を暴いて行く。史実の捉え方、史観の作り方なども私たちとは、違うかも知れない。しかし、ドイツ人は南京事件をこう観ているぞ、ということだけは伝わって来る。映画のエンドタイトルに付けられた日本語字幕も含めて、この映画は史実に基づいている、という意味のことが書かれているが、私の知識では、映画の描写のすべてが史実か否かの是非を見抜く力がないので、この映画が描き出すシーンをそのまま紹介するに留めたい。以下の記述のスタンスは、この映画が描く事件の数々の場面を印象に残るままにとりあえず書き留めておく、というものだ。

 日本軍機が南京の市街地(いわゆる、南京城内。城=城壁に囲まれた街。約40平方キロ)を無差別空爆している。米軍による日本各地の空襲、広島・長崎への原爆投下という戦争犯罪。あるいは、ベトナム戦争、中東戦争などでの米軍の空爆などを観客は連想するかもしれない。

 日本軍による中国人捕虜虐殺。揚子江(長江)河畔、投降した中国兵捕虜たちの長い列が作らされている。「おいしいスープを配る」という意味の日本語が捕虜たちを誘う。トラックの黒い影が列に近づく。突然、銃器から発射される連続音が聞こえる。ドミノ倒しのように崩れる人間の列。トラックに載せた機関銃で日本軍が乱射をしたのだ、と判る。若い少佐が、こういう行為は、国際法違反になるのではと上官に意見具申したが、拒否されていた。途切れない発射音を耳にし、泣きそうな顔になる少佐。この少佐の脚本挿入は、フィクションだという。

 映画では、捕虜虐殺の前日の場面が、こう描かれる。少佐と中将の対話。「捕虜の処刑は、違法になるかと」と、朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)という皇族の中将に小瀬少佐が答える場面である。これに対して、中将は、「この問題の解決については、貴官に個人的な責任を任せる。明日の朝、生きた捕虜は見たくないぞ、少佐」と謎をかける。捕虜の食糧確保も難しい。だから、殺せということなのか。こういう短絡した発想が通用したのだろうか。映画の描き方は、先行する著作(海外では、ベストセラーズになり、良く知られている)をベースにしているので、史実とは言いにくい、という説がある。そもそもフィクションの人物(小瀬少佐)と事件のキーポイントとなる会話をさせていること自体、史実という主張には逆効果だろうという印象を私も持つ。皇族軍人(軍の将官となった皇族)の当時のありよう一般とこの映画での朝香宮鳩彦王中将の描き方との違和感を訴える人もいるようだが、私には今のところ、それらを判断できる知識を持っていない。この映画では、こう描かれていると、説明するだけだ。

 帰国する第3国の外国人避難民を乗せた民間の船が沖合に出た所を襲う日本軍機。これも国際法違反の戦争犯罪。日本軍機の攻撃で黒煙を上げる船影。帰国の途についたばかりのラーベ夫人も乗っている船は炎上。ラーベ自身も夫人と一緒に帰国する予定だったが、南京安全区国際委員会の委員長になったために、帰国を遅らせたのだ。呆然と沖合を見つめて埠頭に佇むラーベ。夫婦の永久の別れと思われた。

 怪我をした敗残兵を追って病院に日本軍が乱入。兵士を手術室に匿う病院。病院内を探索した挙げ句、日本軍は手術中の兵士も医師、看護士も、皆殺しにしてしまう。

 粗末な塀の内では、捕虜の首切り競争をしている。行方不明のお付きの運転手を探しているラーベが、異様な物音が聞こえる塀の中を節穴から覗き込む。日本軍に捕まっていた運転手が処刑されようとしている。塀に隔てられていて助けることも出来ない。いわゆる「百人斬り」競争。競いあう軍人。足元に転がっている生首の数々。これでもか、というようなリアルな描写は、外国人監督らしいかもしれない。

 「百人斬り」競争で勝った軍人が並べた生首を前に記念写真を撮っている。異常な躁状態に陥り、日常的な感覚が麻痺しているのだろう。従軍記者も撮影に参加している。記事と写真を送るつもりなのだろう。軍人ばかりではない。マスコミも異常な躁状態、いや、国民も含めて日本社会が狂気の世界に浸っていたのだろう。当時の新聞は、軍部の尻馬に乗り、あるいは、尻を叩き、国民たちの「戦勝気分」昂揚に乗っかって、部数を大幅に伸ばすことのみに腐心していた。大手新聞は、死の商人のように戦争で巨大な利益を貪った(半藤一利・保坂康正の対談本『そして、メディアは日本を戦争に導いた』など参照)。その資金で情報伝達の新機材を整え、ほかの新聞社に機動力で差をつけようとしたのだ。そういう体質は、今も変わっていないのではないか。

 南京安全区国際委員会の一員の女性が理事長か校長かを務めている女学校では、日本軍の陵辱を避けようと女生徒たちの髪を切り、少年のような印象をもたれるようにした。女学校の若い女性スタッフが夜間、自宅の弟に食糧運ぶ。不審な行動と思ったのか、夜間に独りで出歩く若い女性に情欲をたぎらせたのか、日本軍に目をつけられ追跡されてしまう。女性が入った家に乱入する日本軍の軍人たち。女性を強姦しようと押し倒す。抗議し、阻止しようとする父親を無雑作に射殺する。あわや、強姦されそうになる。ベッドの下に逃げた弟が兵士を撃ち殺す。日本軍の将校の服を着た女性スタッフは、弟を連れて学校へ逃げ込もうとする。それを追って、日本軍が女学校の寮に侵入する。日本の軍服を脱ぎ、下着姿になりベッドに潜り込む女性。兵士は「男」を追ってきたと思っているので、室内にいる女生徒全員の衣服を脱がせ、全員を裸体にして点検しようとする。ソドムの市のような場面。女ばかりでは、しょうがないと退却する日本の軍人。

 この女性スタッフが、後にドイツ大使館の若い男と恋仲になる、というエピソードなども挟み込まれる。ラーベを含めて、映画では、良きドイツ人ばかりが登場しているような印象だ。憎まれ役はシーメンスの後任者くらいか。

 日本軍が陥没した道路の穴補修に虐殺した中国人の遺体を埋めている。人間の尊厳を否定した日本軍。

 なぜか、安全区の女学校の寮に匿われた大勢の捕虜を嗅ぎ付けた皇族司令官(朝香宮中将)。捕虜を捕獲すべく出撃してきた。「門を開けろ」。中将に引き連れられてきた日本軍兵士たちが総攻撃の構えを見せる。門内の安全区では、委員会メンバーが緊張した表情で事態を見守っている。門から出てきたラーベ。日本軍の中将と独りで向き合う。日本軍の兵士たちがラーベに銃口を集中する。

 クライマックスのこの場面。突然、サイレンが鳴り響く。不審そうな中将。ラーベは、ドイツ大使帰着の船が着いた合図だと告げる。大使は、国際的な取材陣を連れてきたと中将に教える。この場で起ころうとしていることを記者たちに知らせる、と中将を脅すラーベ。悔しそうに引揚げの合図をする中将。引揚げる日本軍。大使帰着に備えて、委員会で合図のサイレンを準備させていたのだ。この情報は、実は、中支那方面軍による中国人捕虜虐殺は国際法に照らしても違法ではないか、と言っていた日本軍の若い将校がドイツの若い大使館員に漏らしていたのだ。

 ラーベを支援するドイツの若い大使館員に秘密情報(在中国ドイツ大使の動向)を逸早く耳打ちした若い小瀬少佐は、井浦新が演じる。架空の人物だがクライマックスの場面、安全区に匿っていた中国人捕虜たちを出すように要求する朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)中将ら日本軍を前に身体を張って捕虜を救うラーベに秘策を準備するヒントとなった、というエピソード。

 結局、安全区での人道的な所行を否定され、強制帰国という形で日本軍に追放されるラーベ。1938年2月末。埠頭にはラーベを一目見送ろうと大勢の中国人難民たちが集まっている。ごったがえす群衆の間からラーベへの感謝の言葉が飛び交う。

 このほか、フィクションの間に南京入城や南京事件を記録したと思われる実写映像が随所に挟み込まれる。ドイツ人が見た日本軍の蛮行。「南京事件の真実」というコンセプトの映画である、ということを強調したいのだろう。

 映画を理解するためには、南京に侵攻した日本軍についても、概要を知っておいた方が良いだろう。

●日本軍:
 蛮行を振るう日本軍は、中支那方面軍(1937年11月〜1938年2月編成)。司令官は、松井石根(いわね)大将(1878年〜1948年)。1937年、予備役から59歳で再召集、8月の司令官現役復帰以来続けていた上海派遣軍司令官(中将)から12月に方面軍司令官(大将)昇進。後に、極東国際軍事裁判で「南京事件」の責任者の戦犯として判決を受け死刑となった。1948年処刑。松井石根大将については、早坂隆『松井石根と南京事件の真実』という本がある。この本は松井擁護論という立場で書かれている。映画では松井大将は、柄本明が演じる。

 当時の中支那方面軍は、1)第10軍(1937年10月〜1938年2月編成)。司令官は柳川平助中将。58歳でやはり再召集。柳川は松井石根大将とは仲が悪かった、という。南京侵略を上官の松井無視で独断専行していた。退役後、近衛内閣の大臣などを歴任した。勇猛果敢ぶりが評価されたのだろう。1946年5月からの極東国際軍事裁判開始前の1945年1月病死。戦犯にならず。2)上海派遣軍(1937年8月〜1938年2月編成)。司令官は松井大将、後に朝香宮鳩彦王中将が後継となる。このふたつの軍隊をあわせて構成され、松井大将が統轄指揮をしていた。なぜか、映画には、柳川平助中将は出て来ない。南京侵略を上官の松井大将を無視して独断専行した。先行進軍の柳川軍団の粗暴ぶりも知られていたらしい。南京陥落では柳川平助軍団である第10軍傘下第114師団(宇都宮)らが南京城いちばん乗り。南京入城後も、柳川平助中将は南京に日本軍の軍政を敷くことを主張し、「支那のことは支那人に任せよ」という親中国派の松井石根大将と対立した。

 上海派遣軍の司令官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)中将は、松井大将の後任に当る。当時、皇族男子は、成人になると陸海軍の軍人になる決まりだったので、陸軍に奉職した。1937年12月、松井大将の後継として、上海派遣軍の司令官となる。最終階級は、大将。映画では、香川照之が演じる。南京侵攻当時は、50歳。司令官拝命直後の南京攻略に参加し、捕虜殺害命令に関与した疑い(映画では、中将が口頭で指令したように描かれている)で戦後GHQから戦犯に指名される可能性があったが、皇族ということで結局戦犯指定されなかった、という説がある。高松宮が擁護したという説もある。しかし、1947年10月、朝香宮鳩彦王はGHQの命令で皇籍を離脱させられた。

 映画では、作戦会議で意見を言うだけ、というイメージの上官・松井石根大将(柄本明)に代わって、朝香宮鳩彦王中将(香川照之)が前線の実質的な指揮を任されていたように描かれていた(皇族の戦争責任告発なのか。だとすれば、天皇の戦争責任にも影響してくる可能性がある)。この描き方が、右翼の反発を招くとして、配給会社が映画公開にシュリンクしている気配がある(実際、皇族司令官・朝香宮鳩彦王中将の出演部分を全部削除したら、日本での配給を引き受けるという会社もあったらしいが、製作者側が拒否したという。まあ、当然な判断だろう)。皇籍を離脱後「ゴルフの宮様」として、ゴルフ三昧。ゴルフ団体の役員なども。1981年死去。1887年の生まれなので、93歳で天寿全う。旧朝香宮邸は、現在の東京都庭園美術館である。

 整理してみると、映画には、柳川平助中将は登場しない。映画が描く松井石根大将は影が薄い。朝香宮鳩彦王中将の司令官としての印象が強い。次いで、実行犯として中島今朝吾中将。良識派の小瀬少佐は架空の人物これが映画に描かれた日本軍の主要人物たちだ。

 この映画は、2009年、59回ドイツ映画賞。主演男優賞ほか4部門受賞。
 出演した俳優たちは、以下の通り。

主演男優賞は、ラーベを演じたウルリッヒ・トゥクル。1957年生まれのドイツの実力派俳優。
ダクマー・マンツェル:ラーベ夫人を演じた1958年生まれのドイツの女優。
スティーヴ・ブシェミ:患者のために身体を張った医者役(病院長?)を演じた1957年生まれのアメリカの俳優。
アンヌ・コンシニ:女学校の校長(あるいは、理事長?)を演じた1963年生まれのフランスの女優。
ダニエル・ブリュール:若いドイツ大使館員を演じた1978年、スペイン生まれのドイツの実力派俳優。
張静初:女学校のスタッフを演じた1980年生まれの中国の女優。
香川照之:1965年生まれ。映画では、朝香宮鳩彦王中将(当時、中支那方面軍傘下の上海派遣軍司令官)を演じた。香川照之は歌舞伎役者・市川中車でもある。三代目猿之助の嫡男だからだ。実力派俳優。
柄本明:1948年生まれ。映画では、松井石根大将(当時、中支那方面軍司令官)を演じた。コメディアン出身の実力派俳優。
井浦新:1974年生まれ。旧芸名はARATA。映画では、フィクションの小瀬少佐を演じた。史実と虚構を埋める役割を担っているのだろう。
杉本哲太:1965年生まれ。映画では、非情な、つまり虐殺行為に忠義な軍人・中島今朝吾(けさご)中将を演じた。中島中将は当時、第16師団長。組織的に上海派遣軍の下に位置する。朝香宮鳩彦王中将とともに、南京事件を実質的に実行したという説があるが、映画の印象もそれに近い。中島日記には、自身の刀を使って捕虜試し斬りをさせたなどの記述がある。松井大将とは不仲。日記に上官の松井大将を小人物と軽視していた記述がある。1946年5月からの極東国際軍事裁判開始前の1945年10月病死。戦犯にならず。1881年生まれなので、享年64歳。南京侵攻当時は、56歳であった。杉本は時に川谷拓三似の表情が印象に残った。

 映画では、第10軍司令官の柳川中将が出て来ないと先に指摘したが、史実では、柳川中将と松井大将は不仲だった、とある。また、映画ではそういう場面が描かれているわけではないが、松井大将は第16師団長の中島中将とも不仲だった、という史実がある(いずれも、早坂隆『松井石根と南京事件の真実』)。松井大将は若い頃からの、いわゆる「支那通」。中国を蔑視する軍人が多い中で、中国をアジアの兄弟(ただし、日本が「兄」で支那は弟と決めつけているという辺りは、中国を真には理解していなかったのだろう。「来るものは拒まぬものを 我君のみこと知らずや 唐土の民」という歌に象徴されるようなレベルの意識。かなり、自己中心的?)として、アジアの兄弟連繋を志向する「親中国派」という松井石根大将(当時59歳)。
 戦略優先で松井大将を上官とも思わずに、角を突き合わせる言動のあったという柳川(当時58歳)、中島(当時56歳)の両中将。判断材料がない中で、朝香宮鳩彦王中将(当時50歳)を擁護する気はないが、映画での朝香宮鳩彦王中将の人物像は、登場しない第10軍司令官の柳川中将や、中将としてよりも、非情な、つまり虐殺行為に熱心な現場将校として描かれた第16師団長の中島中将の司令官イメージも重ねて塗り込めて描いているのではないか、という懸念が私の印象の中にはある。映画が大所高所では、史実の通りだとしても、細かい部分では、演出上の常套で、登場人物を類型化(あるいは、典型的な人物として特定の人物をデフォルメしているかもしれない)する工夫をしている可能性はないか、というような懸念である。

 この映画は2014年5月、「南京・史実を守る映画祭」主催で国内初上映された。それ以降も自主上映会で間欠的に上映されてはいるが、一般公開には至っていない。世間の右傾化で配給会社が上映に萎縮しているなら、それは「表現の自由」にとって、別の問題を提起することになる。それとも「虚実皮膜の如し」で、史実の取扱いを含めて内容になにか厄介な問題を孕んでいるというのだろうか。いずれにせよ、是非とも一般公開して欲しい、と思う。映画を観て、是非を議論するのが原則だろう。

●石川達三と南京事件:
 石川達三「生きている兵隊」は「中国北部から南京に転戦するある部隊」という想定の戦争小説。第16師団(京都)33連隊について南京陥落直後の現地で取材した。南京事件が続いていたといわれる状況下で石川達三は、中央公論の派遣という形で南京に出向き、「下士官や兵のなかで寝とまりし」(八雲書店刊「選集5」1947年2月執筆「選集刊行に際して」)ながら、取材をした、という。何度も書いているが、第16師団は中島今朝吾中将が師団長であった。

 石川達三は、1937年12月29日に神戸港から軍用船に乗り(30日神戸より軍用船台南丸に乗る、と日記にはある)、1938年1月5日上海上陸、8日南京着、15日に南京発上海着。足掛け8日間の南京滞在。20日上海発、23日東京着。つまり、2週間強の中国滞在となった。帰国後、2月11日の脱稿、2月19日発売の中央公論3月号に早々と掲載予定だった。発禁処分は2月18日。配本は17日。7万3000部。

 最近刊行された河原理子『戦争と検閲 石川達三を読み直す』(岩波新書)が参考になる。

 国家権力によると、フィクションは、なんと「造言飛語」(陸軍刑法99条違反)である、とされた。さらに小説の内容が「安寧秩序紊乱」(新聞紙法41条違反)ということ、具体的には「皇軍兵士ノ(中国の)非戦闘員ノ殺戮、掠奪、軍規弛緩ノ状況」を記述(石川達三)し、編集掲載(雨宮庸蔵)し、発行(牧野武夫)した、ということで、石川と雨宮は禁固4箇月執行猶予3年、牧野は罰金100円、という判決が1938年9月5日にあった。東京区裁判所の八田卯一郎判事「国策の線にそう編集をする必要がある」と被告らを諭した、という。八田は、後に裁判所書記官研修所初代所長など歴任。

 石川達三は判決直後の1938年9月12日から11月20日まで、陸軍の許可を得て、再従軍で同じく中央公論から中支戦線へ派遣された。石川の二度に亘る中国従軍は、次のような意味があったのか。

 1回目は作家として上海、南京方面に従軍し、「南京事件」を同時代で現場を見聞きして、時代状況にとらわれずに文学的感性優先で「生きている兵隊」(1938年、中央公論3月号)という作品を仕上げた結果、筆禍事件に巻き込まれ、有罪(執行猶予付きながら禁固刑)となる。

 2回目は、自分は決して「非国民」ではない、「汚名挽回」とばかりに、中央公論から陸軍報道班員として漢口方面に従軍し、「武漢作戦」(1939年、中央公論1月号)という作品を無難な筆致で書いて、今度は無事セーフ、「翼賛作家」として合格した、ということか。

 「生きている兵隊」の原稿は権力側に押収されていたが、初校刷りが著者の手元に残っていた、という。それを元に、復元加除筆をし、「生きている兵隊」は、戦後の1945年12月20日に発行される(河出書房版、5万部)。伏せ字や削除の復元が判るような形で、歴史的な作品という名誉を担い、中央公論文庫の中の一冊として、今でも、読むことが出来る。

 石川達三は、さらに日米開戦後の1941年12月24日、今度は海軍の報道班員に徴用されてサイゴンへ従軍することになる。1942年1月から6月までの日程。その時の日記には以下のような記述があるという。「文学はどうでもいい。今日愛国者足らずして今後愛国者たる機会は無い」。

 戦後、石川達三は日本ペンクラブの第7代会長に就任(1975年−1977年)。ペンクラブ会長時代に「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」という趣旨の「二つの自由」発言(1977年)で物議をかもし、五木寛之や野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には1期2年の任期満了で辞任に追い込まれた。

 簡略な記述の日本ペンクラブ小史によると、1974年から77年にかけて、ペンクラブではいろいろあった。まず、74年2月、日本ペンクラブ(会長は第5代会長の芹沢光治良)は、ソビエトの作家ソルジェニーツイン逮捕に対して、ソ連政府に対して即時釈放を求める抗議電報打電。7月、韓国の金芝河の死刑判決に対して、減刑要請のために韓国に派遣した作家の藤島泰輔らが記者会見で個人的な意見のまま、金芝河の活動を文学的な活動と社会的な活動を分離する発言をしたことに端を発して、「ジャーナリズムの日本ペン批判、退会者が相次ぐ」という事態になる。「9月、緊急理事会で事態収拾のための再建委員会(委員長石川達三)発足を決定、全理事辞表提出。10月、再建委員会による理事選挙。臨時総会で定款改正、理事改選を承認。11月、新理事会で第6代会長に中村光夫(ほかの人事は、略)を選任」。中村光夫会長は、事態収拾の臨時体制であり、「1975年5月、石川達三を第7代会長に選出」とある。こうした状況下でその後の石川達三の「二つの自由」発言であった。この結果、日本ペンクラブ小史には、「1977年7月、第8代会長に高橋健二を選任」とある。
 石川達三という人は二重の使い分けが出来るような人なのか。

 ついでながら、戦後の1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙に石川達三は東京2区で、日本民党(にほんたみのとう)公認候補として立候補するが、定数12名の22位にあたる24,101票で落選。同区トップ当選の加藤シヅエは、138,496票。石橋湛山も同区から立候補していて、石川達三のちょっと上の、20位の28,044票でやはり落選している。その後の選挙では、選挙区を変えて、石橋湛山は当選。政治家の道を歩む。石川達三は、再度の立候補はなかった。

 (筆者は、ジャーナリスト、日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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