昨年末の衆議院選挙から思うこと

【コラム】中国単信(17)

昨年末の衆議院選挙から思うこと

趙 慶春


 昨年暮れ、国民に納得がいかないまま電撃的に伝家の宝刀を抜いた安倍首相は、戦後最低の52.66%という投票率で自民・公明与党大勝へと導いた。
 安倍首相は与党大勝利でみずからの政策が信任されたと誇らしげに、しかも自信たっぷりにこれまで以上にみずからの政策を進めることを宣言した。

 でも今回の選挙は安倍首相が言うように本当に政策が信任されたと言えるのだろうか。
 何よりも投票率が示すように、選挙権を持つ20歳以上の日本人の半数近くが投票所に向かわず、安倍首相の政策に判断を下していなかったからである。「反対なら投票するはず。反対でないからあとはお任せ」の意思表示が“棄権”に回ったというとらえ方が与党にはあるようだ。安倍首相の言葉の端々にそれが窺える。

 そもそも安倍首相は消費税を8%から10%へ引き上げる方針を据え置くことにした点を最大の理由に民意を問うとして電撃解散したわけだが、この最大の解散理由は、最初から意味を失っていたとも言える。

 なぜなら野党のほとんどが消費税据え置きには賛意を示していたからで、もともと争点になどなっていなかったのである。もう一つのアベノミクスと呼ばれる安倍政権の経済政策はどうか。消費税の据え置きもこれに関わるのだが、心優しき選挙民は、アベノミクスにはまだ様子見の状態で、断を下すには早すぎると見ていたと言える。

 一方、野党もこのアベノミクスについては選挙民と同じレベル程度でしかなかったように思う。だからこそ国民からは対決姿勢が薄弱に映り(準備不足も否めない)、むしろ共産党の明確な立場(経済政策に限らない)に賛成票が投じられ、議席数を大幅に増やすことに繋がったと言える。

 いずれにしても冒頭に書いたように国民には今回の解散理由がわからなかったし、納得がいかなかったことを安倍首相は肝に銘じておくべきである。みずからの政策が信任されたなどととらえているなら、その傲慢さにいずれ足をすくわれるだろう。

 それにしても、事実上の共産党一党独裁体制下に置かれている中国では民主的な選挙など望むべくもない。投票したくても投票できない国民から見ると、なんの束縛もなく、自分の意志で投票できる国民がいることが信じ難い。しかもその国民の半数近くが投票しないという事実に驚かざるを得ない。かけがえのない自分の1票を使わないなど、日本人は何を考えているのかと思いたくもなる。投票したくてもできない国民からすれば、こういう気分を日本語では「ごまめの歯ぎしり」などと表現するらしいが。
 ごまめの歯ぎしりついでに言うなら、副総理で財務大臣でもある麻生太郎氏は、過去に「女性に参政権を与えたのは失敗だった」などと発言するなど、たびたび失言を繰り返す問題人士として知られている。

 この御仁が昨年12月7日、札幌市内での衆院選応援演説中、社会保障費の増加問題で「高齢者が悪いようなイメージをつくっている人がいっぱいいるが、子供を産まない方が問題だ」と発言した。すぐさまマスコミが取り上げ、野党からの批判もあったようだが、選挙のため他人への批判より自分の足元を固めることに忙しく、麻生攻撃はいつの間にか雲散霧消してしまった。

 しかし筆者のみるところ、「子供を産まない方が問題だ」発言より、やはりこの御仁の「企業は大量の利益を出している。出していないのは、よほど運が悪いか、経営者に能力がないかだ」発言の方がより問題のように映る。

 なぜなら「少子高齢化」による社会保障費の増加は長年にわたる政策の不徹底さに起因していて、子供を産みたがらない女性の増加についても説明をきちんとした上であれば麻生氏の失言は失言にはならなかったと考えられる。しかし後者の発言は、明らかに安倍政権での政策に関わっている。ここにきてはっきりしてきているのは、アベノミクスの恩恵に浴しているのは大企業だけで、中小企業はむしろ円安によって苦しい経営状況に陥っているのである。そうした状況を無視したかのような麻生氏の発言はまさに傲慢であり、自民党が大企業にしか目を向けていないとみられても仕方ないだろう。

 野党各党がこの点を厳しく追求すれば、十分に選挙の争点にできたはずで、それはとりもなおさず選挙民の望んでいた点だったと思われるが、ここでも野党の声はあまりにもひ弱だった。
 それにしても日本の選挙民はあまりにも国政にしても地方行政にしても、議員という一部の人びとに任せすぎではないだろうか。自分たちが選んだ議員だからと見ているのか、信頼が強すぎるように思える。

 中国では「民意」が直接政治に反映されることは皆無と言っていい。「民意」を実現させるためには個人あるいは集団で直訴を繰り返すしかなく、時には犯罪者とされる覚悟が必要である。つまり直訴をしても取り上げてもらえる確率はきわめて低く、たいていが泣き寝入りするしかない。

 ところで昨年の2014年9月26日から、香港の高校生と大学生が中心となって「真の普通選挙」を求めて授業のボイコットとデモが香港中文大学内で起きた。最初は静かな座り込みから始まり、週末からは静かな街頭の占拠へと抗議行動の輪が広がっていった。
 日本でもかなり報道されていたいわゆる「香港学生デモ」である。

 武器を持たない抗議行動者たちを警察側は催涙弾を使用して鎮圧したが、無抵抗姿勢を示しながら催涙ガス類から身を守るために、傘やゴーグル、マスクなどを持って抗議行動に参加した。そのためこの傘が抗議行動の象徴として見られるようになり、一部では「雨傘革命」などとも呼ばれた。

 香港は中国の「一国二制度」政策に基づいて、中国内部に比べると、かなりの自治が認められている。そして2017年に実施される香港特別行政区行政長官の選挙では「普通選挙」が導入されることになっていた。ところが日本の国会に当たる中国の全国人民代表大会常務委員会は2014年8月31日に行政長官候補は指名委員会の過半数の支持が必要で、候補者を2、3人に絞るという決定をした。

 候補者はこの指名委員会を構成する1200人の半数以上の推薦が求められているのに、この委員会のメンバーには親中派が多数を占めることがほぼ固まっていた。つまりこの決定に従うと、中国政府の方針に異を唱える者は、選挙される以前の段階で候補者になれなくなってしまうことが明らかになったのである。
 こうして香港の民主化団体などが学生とともに真に民主的な選挙実施を求めて、活動を始めたのだった。

 現在は街頭占拠を解いたこの香港デモの行く末は不透明である。表面的にはひたすら沈黙を押し通した習近平首脳部がどのように決着をつけるのかは不明だが、民主的な選挙方式を求める学生たちの要求をすんなり飲むとは考えられない。
 しかし民主的な選挙を求めて立ち上がり、3カ月余りに及ぶ街頭占拠を丸腰で続けた彼らの行動はかなり濃密な発信源となって世界に届けられたことは間違いない。中国首脳部も決して看過できない状況が生まれている事実は十分に承知していると考えられる。

 こうした香港の学生デモから、ふと今回の衆議院選挙でのほぼ半数の選挙民が何らかの理由で棄権していることに思いが至った。なぜ棄権したのかだが、選挙民にとって、関心が集まる切実な問題について、真正面から訴えかける立候補者が少なかったからではないだろうか。密接な関心ということになれば選挙民が住んでいる地域の問題になるだろう。「少子高齢化」問題でも地域によって状況はかなり異なるはずだからである。

 いい例が沖縄で、沖縄の地域住民は政府与党の政策に「ノー」を突きつけた。沖縄の人びとにとって基地問題は、まさに沖縄の切実な問題にほかならなかったからである。
 しかし一般的には政党主体である。政党間の政策の違いだけで議員を選ぶ現在の選挙方式では、それぞれの地域に住む、その地域限定の問題に対する選挙民の声を適切に反映し、実現させることは難しい。

 確かに選挙区はあるが、決して地域住民の声を代表して議員は選出されているとは言い難い。事実、祖父や親の代からの地盤、看板、カバン(財力)で一部の地域住民の利益代表として、毎回選出されてくる議員が少なからず存在する。また移籍して立候補する者もいる。議員は結局は一政党の駒に過ぎず、政党の方針に従わざるを得ない。まさに「数こそ力」によって現在の日本の政治は動かされているのだ。

 そこで新年なのでちょっと夢想してみた。
 民主的な政治の方式として、地域ごとに生活に密着した問題を選挙という手法だけでなく、住民たちの連携による直接的な行動による民意の反映を促すというのはどうだろうか。何も選挙だけが民意の反映ではないことを選挙民自身が気づき、直接行動によって「私たちの民意」を反映させる政治の実現は可能だと思うのだが。そうなれば投票率の高低だけを問題にするのはあまり意味を持たなくなるかもしれない。

 (筆者は女子大教員)


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