【オルタ広場の視点】

昭和初期・93年前の沖縄差別

羽原 清雅

 たまたま早大図書館の書庫を探索するうちに、沖縄選出の貴族院議員の残した沖縄差別を憂うる演説草稿を見つけた。昭和2(1927)年3月24日の貴族院本会議で質問演説をするつもりでいたところ、予算案の衆院送付の関係で発言のチャンスを失い、小冊子にまとめた、といういわくつきのものだった。
 内容は、具体的な数字を示して、本土に比べて、この辺境の諸島の発展がいかに遅れ、格差・差別が生まれているか、を切々と訴えている。読み進むうちに、1世紀が経とうとしている今、基地問題、地位協定などの課題こそ変質しているものの、本土と沖縄の間に横たわる、この島の抱える窮状の本質は変わっていないことに気付かされる。

 この議員は、大城兼義という。1871(明治4)年に現那覇空港に近いモノレールの小禄駅に近い宇栄原に生まれた。小禄小、島尻高等小を出て、長崎鎮西学院神学部に学ぶ。キリスト教の伝道、土地測量などをしたあと、実業界に入り書籍雑誌の配給にあたって沖縄實業銀行の監査役に。1904年、熊本移民合資会社の沖縄代理店を設け、5年間にハワイ、メキシコ、南洋各地に約5,000人を送り出したという。大城無尽会社を設立、在京の無尽会社幹部も務める一方、沖縄書籍社長、沖縄書籍雑誌組合長も。沖縄県議のほか、小禄村議20年、郡議12年を経て、高額納税者として貴族院議員(1925-32)。1951(昭和26)年11月、沖縄が新展開となる日米安保条約の調印後まもなく死去した。

 この演説文は、やや読み取りにくいところもあるので、内容には手を加えずに極力忠実にわかりやすく紹介したい。当時の実情認識として「沖縄県の疲弊困憊は、今尚、年を重ねるに従って、益々深刻に陥りつつある」「明治十二年廃藩置県以来、五十年間に於て、殖産興業に対する根本的施設としては、何等の見るべきものが無い」としている。
 実業家にして、政治的に保守の立場の人物が、数字をもって主張しており、切迫感がにじんでいる。以下に大城議員の発言要旨を採録する。

輸入超過の実態 大正2(1913)年度から同13(1924)年度までの輸入超過は年平均約183万円だったが、同14(1925)年度は740万円、同15年度760万円という大入超で、このような大恐慌に陥りつつある。

根本的に救済する道
<1> 徹底的航路補助の改善 沖縄県は西南の海洋中に55の島から成る。しかも、険悪な海上、400カイリ(約740キロ)間に散在、暴風の中心地で、極めて不便利な絶海の島嶼だ。文化の均霑(きんてん=うるおい)に欠ける。各島ごとにすべての(公的)施設を置くこともできない。(課題は)いろいろあるが、貨物上、そして人間としての孤島苦に触れたい。

 島々から中心部の那覇市に来るには、往復1、2週間、3、4週間かかり、その運賃、経費はかさむ。他の府県との取引も日数、船賃の高いこと世界一だ。
 一例をいうと、雑貨1トン当たりの汽航賃は、神戸-マニラ間1,909カイリで8円、神戸―基隆(台湾)952カイリで7円だが、神戸-那覇間700カイリで8円70銭、ジャワ(インドネシア)まで3,435カイリよりも高い。これらの損失は、みな生産者の負担になる。
 しかも、便利な土地にある(本土の)他府県は、安く、短時日で貨物を市場に出せるが、沖縄がこれと同一の課税を負担して立ち行けるか。便利な地にある生産者と、不便な島嶼の生産者を比較して、仮に全額の地祖が免除されるとしても、その埋め合わせはできない。

 人間としての孤島苦だが、貨物と同様、(周辺の)各島は那覇を中心に関わりがあり、風波の荒い難海の航路は常に怒涛と闘い、その労は少なくない。他府県に旅行をするにしても、近い鹿児島まで3日間、東京まで5日間を要する。しかも、(沖縄から)鹿児島航路は3日置き、神戸航路は6日置きの便船しかない。険悪な海上では、しばしば出帆延期もある。県民が航海に要する往復の日数は莫大で、活動中止というような動力の損失だ。さらに、旅費という金銭の消費も莫大である。便利な他府県で、短時日で取引し、往復できる人々と競争などできない。

 沖縄県の航路への国庫補助は、一般航路で総額10万7,000円だが、昭和2年度から5,000円増額されることに感謝している。ただ、北海道、樺太、挑戦など、相当な航路補助があるうえ、さらに各連絡船がある(が、沖縄にはない)。沖縄県は小は小なりと雖も、同じように文化の均霑がなければ、決して共存はできない。このような孤島苦を緩和救済するのは国家の義務だ、と深く信じる。
 その緩和救済策としては、①船の速力を増して他府県との接近を図る、②汽船賃を適当の程度に引き下げる、の2方法である。

<2> 移民政策の確立 沖縄県が過剰な人口を持つことはよく知られている。しかし、詳しい内容は知られていない。わずか154方里(縦横1キロ四方の面積)に57万人が住む。日本一般の1方里平均は2,417人、沖縄県は3,999人。まだ2倍にも達していないようだが、この面積の過半は多くが不毛の地なので、住民の多くは総面積の6分の1に相当する本島南部の一角に集中する。(嘉手納、読谷など)中頭(なかがみ)郡以南の本島内に34万5,000人がいる。だが、農業中心でない首里、那覇両市を除くと、わずか26方里に26万余の人口があり、1方里平均1万38人という驚くべき密度になっている。

<3> 土地改良の必要 耕地面積は、日本一般で1戸当たり平均1町1反だが、沖縄県は7反5畝である。本島南部の一角の平均反別は、わずかに1戸当たり5反のみである。しかもこれが沖縄県の主な生産地である。
 しかも、沖縄県の農村は、ほとんど副業を持たず、農業一偏の県である。したがって、その生産高は他府県と比較はできない。最近の生産高を見ると、最低額の島根県が1人当たり年128円5銭だが、沖縄県はわずかに83円94銭、1人1日わずか23銭に過ぎない。
 沖縄県民の悲惨、実に、言語に絶し、切っても血が出ぬ様な、破滅の底に、陥っている。
 250年前、琉球の政治家・蔡温が沖縄の版図の人口収容限度は30万人が止まりだといったようだが、今日はその2倍だ。沖縄は耕すに土なく、食するに物なき、悲境にあり、年7,500人の増率で、何所に容るゝの余地あらんや。
 そこで、この人口の調整を計るのは焦眉の急で、一日も早く移民政策の確立を計らねばならぬ。その確立を計るには、土地改良を完成し、農業の能率増進を図り、独立自営の途を開くのが最も肝心と信じる。だが、何らの能率増進が計られておらず、収支計算が相償わぬ様な生業をしている。

 一例を挙げると、黒砂糖1斤当たりの生産費が14銭かかるが、その売買相場は10銭内外で、4銭宛の損失を来している。沖縄の砂糖の総生産高は約1億斤なので、400万円という大額の損失を招き、生産費倒れを為している。
 甘藷(さつまいも)生産費を見ると、瓜哇(ジャワ=スマトラ島)、キューバ(玖瑪)、ハワイ(布哇)、台湾の1,000斤当たりの生産費は平均して5円1銭4厘。しかし、沖縄の生産費は10円5銭9厘、各地の2倍強掛かっている。かくて、沖縄県はこの世の生存競争上劣敗に陥っている。なぜ生産費が高まるかというと、不可抗力もあるが、多くは農業に対する施設がないための、その欠陥から損失が生じている。

 ひとつは、県では地祖の標準地価がきわめて高いこと。
 第2に、人口の割合に比べて耕地面積が狭小のため、地料がきわめて高いこと。
 第3に、気候温暖で、四季の草木は青々と育つのだが、地味が乏しく(瘠薄せきはく)多量の肥料を要し、また傾斜地が多いのに長年放置していたので、地力はますます減退して収穫があがらないこと。
 第4は、道路の開鑿が不十分、かつ地形が悪く、荷車や牛馬の操縦が自在でない。牛馬の頭数は他府県の平均並み〈7万頭〉だが、その利用を欠いて、人力一方の農法のため、能率が上がらない。加えて、農家5人の内、運搬、耕作力のある者は1、2人、ほかの3、4人はその力がなく、したがって運搬費、耕作費が高くなる。
 第5に、沖縄県は干ばつが多いのに灌漑の設備がなく、その損害が多いこと。
 第6に、暴風の中心地なのに、何ら潮垣(防潮施設)がなく、絶えず海水の襲撃を受けること。

 私は、沖縄県の地理的欠陥に対して、根本的施設を設けて、農業能率の増進のために土地改良の必要を絶叫する次第だ(以下一部略)。
 沖縄県をめぐらす海洋は魚類無尽蔵で、沖縄漁業はまだ過渡時代にある。農業能率の増進によって生じる余分の人口を、漁業やそのほかの事業に移して、もって産業の振興を計るならば、経済の救済、期して待つべし、である。

 沖縄県は、日本帝国の一分子として、従来民力涵養を欠き来たりし、欠陥を補う意味よりして、また文化の均霑を計るという見地よりして、政府は沖縄県経済の根本的救済として
① 徹底的航路補助の改善
② 移民政策の確立
  ③ 土地改良の完成
の3大事業を取り計らう必要があろう。

*地価問題 もう一点、沖縄県の耕地は、田地が1割2分、畑地が8割8分の割合になっているが、畑地の地祖標準地価が宮崎、鹿児島県に比べて甚だ高い。宮崎県は一町歩当たり平均44円、鹿児島県は42円だが、沖縄県はじつに118円で、全国平均の70円、東京の114円よりも高い。
 島嶼という地理的不利の位置にあり、孤島苦に呻吟しているにも拘らず、地価も便利の地よりも高いのは甚だ不当だ。これを適当程度の地価に引き下げねばならぬ。

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 以上が百年近く前の沖縄社会の実情だった。
 現在は、島嶼の事情はかなり変わった。多様な産業が展開され、観光という新たな分野も開けた。交通事情も空路、海路が拡充され、移動時間の短縮も具体化された。沖縄の人々は本土で活躍、成功し、世界にも広がった。産業構造の変化も伴って、悩みであった人口は145万人を超えて、大城の時代の2倍をも超えた。ウチナンチューの気分も明るくなっているに違いない。
 だが、変わらないことも多い。動かしようのない地理的環境はもちろんだが、旅行に要する時間はともあれ、運賃はまだまだ高い。農業の効率性もまだ十分とは言えまい。
 「鉄の暴風」という思いもよらない悲惨な経験にも見舞われ、ホッとしたすぐあとに、米軍等の基地が広大な土地に展開された。この継続的な変動は、質的な変化ではあっても、じつは「戦争」という次元でいえば、なにも変わっていないということではないか。

 居づらくなった本土から、広い米軍基地が応諾なく持ち込まれたばかりではなく、基地の形態や機能、位置が奔放に変貌し、展開される。この日常的に変わり続ける姿に、県民は慣れるのか、憤り行動するのか。
 むしろ戦前、戦後を通じて変わらないのは、時の権力の姿勢だろう。大城が貴族院議員として県民の思いを高らかに述べるが、その差別や窮状に政府はなかなか耳を傾けなかった。
 その図は今も続いている。日米の地位協定を見直そうとせず、米軍基地の移転の停滞と強引な新設など、米国に日本側の苦悩への対応交渉求めたり、せめて要望の場を作ろうと持ちかけたりする姿勢も見せない。
 経済が発展し、食べていければいいのか。県民個々の心や気持ちをどう受け止めるのか。「平和の礎(いしじ)」に残された戦争への想いと記憶はなんだったのか。

 百年近く前の「しまちゃび」、大城の言う「孤島苦」は消えていない。

 (元朝日新聞政治部長)

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