【コラム】酔生夢死

時代映す「サテン」

岡田 充


 コーヒーを飲みながらこの原稿を書いている。何となく筆の滑り(実はキーボード)が良くなる気がするからである。カフェインには興奮作用があり「根拠レス」ではない。コーヒーを飲み始めたのはいつごろだろう。幼児の頃の朝食はコーヒーではなく紅茶だった。砂糖を入れただけの甘い紅茶。最初に飲んだコーヒーはインスタントコーヒーだったと思う。

 インスタントの輸入を自由化したのは1961年。小学校の高学年の頃だ。粉末のコーヒーはすぐにお湯に溶けて香ばしい匂いを放った。口に含むと苦味ばかりでお世辞にも「おいしい」とは言えなかった。しかし欧米文化が家庭に入り「日本もようやく国際化したんだ」という思いを抱いたように記憶する。 インスタントコーヒーに馴染みはじめたころ、父親がコーヒー豆と瀬戸物のドリップ容器を買ってきた。「喫茶店並みの本格コーヒーが家でも飲めるぞ」と、彼はうきうきしながら挽いた豆に湯を注いだ。一口飲んだが薄くてコクが全くない。そりゃそうだ。魔法瓶のぬるい湯、コーヒー豆の量だっていい加減だったから。しばらくしてドリップ容器は食卓から消えた。母が食器棚の奥にしまったのだ。

 高校から大学に入るころ喫茶店通いが始まった。ドアを開ければ、店内にはコーヒーの濃厚な香りとレモンのにおいが微かに漂う。クラッシク音楽が流れる中、コーヒーを飲みながら読書で何時間もねばった。自分の部屋がなく、一人で考えたり読書をしたりするには絶好の空間。友人との待ち合わせや議論をするのも「サテン」だ。大人になった気がした。

 その喫茶店がどんどんなくなっている。総務省統計局によると1981年には全国で約15万あった喫茶店は10年前には8万に減った。シアトル系カフェやチェーン店の台頭で、個人商店の喫茶店は立ち行かなくなったのだ。グローバルな金融資本主義が世界を覆い、寡占化が進んで個人商店はどんどん閉じている。商店街で肉屋、八百屋、本屋、酒店、居酒屋が軒並みシャッターを降ろしている光景はいたるところで目にする。

 居酒屋を含めて可能な限りチェーン店に入るのを避け、個人商店を使うようにしている。
 伝統工芸品や高級装飾品などを扱う一部商店を除けば、個人商店が生き残るのは難しい。「一億総活躍」と尻を叩くスローガンを、高齢化が著しい商店主にどうやって聞けと言えるだろうか。インスタントコーヒーを飲んだのは「核家族」を象徴する時代。個人化(アトム化)が進むいまは、一人でカフェに入りスマホをいじるのが似合っている。

 原稿を書き終えるとコーヒーはすっかり冷め切っている。休日の午後ぐらい喫茶店でゆっくり読書をしたいところだが、近くにあるのはチェーン店だけ。仕方ない。インスタントコーヒーでも淹れるか。

 (筆者は共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)


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