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未知との出会い(1)江田三郎との27年間 想いだすことなど

仲井 富


  老いるとは未知との出会い桐一葉   富田 昌宏

① 久保孝雄さん、竹中一雄さんと学士会館で昔話
② 江田三郎の説明嫌い短気な性格 知られざるストレスの積み重ね
③ ブリ事件に見る江田さんの出処進退 過去を語らず明日を考える
④ 横路節雄 ただ一人中央執行委員会で江田擁護 57歳の早すぎた死
 
久保孝雄さん、竹中一雄さんと学士会館で昔話

 11月某日、久保孝雄元神奈川県副知事からメールがあり一度会いましょうということになった。元国民経済研究協会会長の竹中一雄さんも同席されるという。当日は学士会館の二階の会議室で2時間ばかり雑談した。久保さんが最近出版された『詩歌日記で綴る人生の四季』を送っていただいた。これが滅法面白かった。涙なくしては読めない場面もあり、若き日の久保さんのことを知るきっかけともなった。

 久保さんは、佐藤昇さんなどの、いわゆる代々木構造改革派から社会党の江田派に来た方だと思い込んでいた。ところが大間違い。久保さんはすでに1964年茨城県取手町会議員となり、請われて社会党茨城県連の政策部長もやっていた。町議に出る決断までの苦悩を「半歳の固辞も空しく立候補 決意せし夜の流星一つ」と詠っている。政策部長時代、全国政務調査部長会議があり、横路節雄政務調査会長に会の終了後、残るように言われ「今日の発言はよかった。よく勉強しているね。そのうち国会に出てきて下さい」と言われた記憶があるという。

 1955年9月、私は左派社会党青年部の事務局長として東京に来た直後、同郷の初岡昌一郎さんと偶然左派社会党本部で会い、即日入党したさいの紹介者となった。彼は当時キリスト教大学の一年生だった。東京に来た当初は、江田三郎の参議院会館の一室に寝泊りしていた。ところが初岡さんに誘われて、三鷹市牟礼の彼が借りていた4畳半の部屋に同宿することになった。
 それと同じ時期に久保さんも、三鷹市上連雀に住んで居られたことを著書を見て知った。そんなこともあって重なり合う時代のことを、いろいろ話してみたくなった。

 そこへ竹中一雄さんも同席されるという。竹中さんは知る人ぞ知る、江田三郎の構造改革路線の新しい社会主義のビジョン、①アメリカの平均した生活水準の高さ ②ソ連の徹底した生活保障 ③イギリスの議会制民主主義 ④日本国憲法の平和主義、という表現の発案者だった。
 三人で歓談している時、私はふと故人となったオルタ共同発行人の富田昌宏さんの一句「老いるとは未知との出会い桐一葉」を思い出した。富田さんは私の俳句の先生でもあり、いろいろ教えていただいた。お二方にその話をして、長生きをするということの唯一の幸運は、未知との出会いですねといった。

 久保さんには、長洲県政で神奈川県庁にこられて以降は公私共にお世話になったが、しみじみ昔を語るということはなかった、ましてや竹中さんとも、加藤宣幸さんを介して、しょっちゅう顔を合わせてはいたが、昔語りなどしたことはない。堺市の出身で戦中、米軍の大空襲[注1]の中、遺体の転がる中を逃げまわった話など初めて聞いた。この日はオルタ最長老のお二方ともに90歳、老生86歳。長生きをしたおかげで新たな未知との出会いとなった。

江田三郎の説明嫌いな短気な性格 知られざるストレスの積み重ね

 私は1950年、17歳の時に江田三郎の演説を聞いて感動し、社会党に入党した。以降、1977年まで27年間、江田さんに仕えた。江田三郎という人は、安保闘争後の浅沼書記長刺殺事件の後、社会党委員長代行として、テレビ討論で人気を博した。ソフトな語り口で茶の間の人気者となった。しかし当の本人は、日常的には一貫して短気で怒りっぽい性格だった。その性格を熟知すると案外簡単で付き合いやすい人でもあった。1977年江田亡き後、光子夫人に幾度か会いに行って昔の話を聞いた。その横暴な亭主関白ぶりにうまく付き合った光子さんは、実に頭の良い人だった。

 曰く―主人はね。戦前二階で仕事をしているでしょう。すると、ドンとテーブルを叩くの。あっ、お茶がほしいんだな。ドンドンと叩くとタバコだなとかわかるの。要するに細かい説明をするのが大嫌いな性格だった―。
 もう一つ、江田光子さんの話を聞いた。委員長選挙に敗北した後、倉敷の自宅に帰ると「おい酒だ、みんなを集めろ」というのだ。そして倉敷市内の酒好きの党員を集めて宴会となる。それにタバコの数も半端ではなかった。缶に入っていた両切りピースという50本入りを一日で吸った。そういうストレス解消が、結果としては肺がんの要因となり、ついには末期の肝臓がんであっという間にあの世に逝った。

 江田さんの出処進退は生涯鮮やかだった。後述する県議時代のブリ事件を含めて、誰にも相談することなくさっさと進退を決める。委員長選挙で19票差での敗北の時、江田派の本部だった九段下の若喜旅館に駆けつけて「江田さん負けました」と報告する。本人は泰然自若として「仲井は票読みが甘いからのう」で終わり。出所進退の良さは終生変わらなかった。
 だが、江田亡き後、光子夫人に聞いた話では、別人の江田三郎がみえる。委員長選挙に敗北して倉敷に帰った江田三郎の、酒飲みを集めて憂さ晴らしの宴会の話を聞いて、江田さんのストレスも相当なものだったと知った。そのストレスが肝臓がんを呼び込んだともいえる。江田さんとて、どこかで発散することがなければ耐えられない。協会や中国派の江田苛めは終生続いた。1960年の構造改革論、そして社公民路線など17年間、共産党も加わっての公私ともに死ぬまで江田攻撃だった。

ブリ事件に見る江田さんの出処進退 過去を語らず明日を考える

 江田さんは短気だからすぐ辞めるとか、すぐ怒るとかいわれるが、あれは天性のもので、それ自身が江田さんの政治的生命だった。江田さんは過去を語ることなく、常に未来に目を向ける人だった。そのもっとも端的な例が戦後の岡山県政界を揺すった「江田三郎のブリ事件」である。

 戦前の獄中の話とか弾圧の話とかは、当時の岡山県議や市議などから自慢げに再三聞かされた。しかし江田さんは過去のこと、獄中のことなど一言も語ったことはない。過去を語る時間があれば、明日の仕事のこと、未来を考えろという人だった。「江田三郎のブリ事件」なるものは、江田さんの死後、津山市の図書館で偶然発見して、その全貌を知った。
 たまたま郷里津山に墓参に帰ったとき、津山の市立図書館に立ち寄った。目的は「美作の方言」に関する本などを覗いてみたいということだった。同じコーナーに『岡山県社会労働運動史』(水野秋著)が並んでいたので手にとってめくって見ると偶然、「江田三郎のブリ事件」なる項目を見つけ、コピーして持ち帰って読み直した。

 「事件」は1947年の暮れに、二人の県議のさりげない会話からはじまった。某保守系議員が社会党の松田忠義県議に「正月にゃあブリぐれえ欲しいのう」と話したことから、松田県議が知り合いの県漁連の理事に話をして、自由販売しているブリを県議会事務局が、ジープを飛ばして買ってきた。それを土木委員会の委員が一本ずつ、江田三郎も一本貰ったという。
 1948年早々、郡部出身の某県議が、燃料の統制違反で警察から事情聴取されるという事件があった。ところが某県議は警察で開き直り「こんなことで引っ張られるなら、ブリを食った連中はどうなるんなら」とやったために、新聞はいっせいに書き立て、警察も「自由販売の物を買ったのだから、法律的には問題ないが、道義的には責任が残る」と見解を表明した。

 当時、同僚だった川崎一さんの回顧によると「そのとき、江田君は誰にも相談せず単独辞職した。その翌日から、電話はかかってくるし『議員だけうまいルートを使って配給をとったのはけしからん』などと新聞には出るし、じつは私もびっくりした。しかし彼は偉いと思った。江田君はその当時、県議の報酬がなければやっていけない時代だった。辞めたら明日の日から生活に困るような状態のなかで、あっさり辞めたところによさがあり、偉さがあったと思う」(『江田三郎 そのロマンと追想』「出所進退の妙―ブリ事件に思う」)

 江田さんは辞職した後の上道郡の県議補欠選で落選、つぎの衆議院選挙でも次点で落選、ようやく1950年の参院選挙で当選した。川崎一さん曰く「考えてみると、あのブリ事件があったから参議院に最高点当選し、そして日本の江田三郎として、立派な政治家として堂々とやっていけたのだと思う」

横路節雄 ただ一人中央執行委員会で江田擁護 57歳の早すぎた死[注2]

 1960年の江田ビジョン以降、ソ連派の社会主義協会と中国派の毛沢東主義者の江田攻撃はすさまじかった。1960年代の社会党中央執行委員会は党本部で行われていた。左派の中執の面々が、江田三郎の社会主義ビジョンを次々に攻撃する。
 その中で、江田さんは憮然として腕を組んだまま、目を瞑って一言も反論しない。ただ一人、猛然と反論して闘ったのは横道節雄さんだった。木島、加藤、森永などの構造改革派三人衆は黙したままだった。
 当時は、大柴茂夫、山本幸一、野々山など鈴木派の人たちは、江田憎しで固まっていた。後年これらの人々は広い意味での反協会派として、政構研グループに結集するが、これは江田亡き後の話である。あの時、頬を紅潮させて闘志満々、ただ一人江田三郎を擁護する横道節雄さんの論旨には迫力があった。あの姿は忘れられない。しかも横路さんは江田派の人ではなく、当時の政策研究会・和田派に属していた。

 その横路さんは1967年、57歳の若さで急逝した。江田さんは、おそらく江田委員長、横路書記長を心に描いていたはずだ。そして横路節雄の墓碑銘は江田三郎が書いた。横路節雄という最大の盟友を失った江田三郎の構造改革論は命運は、ここに絶たれたと私は思う。

 なぜ江田・横路はあれほどの一体感を持っていたのか。私の推察だが、それは1956年2月24日から列国議会同盟会議代表団として、江田・横路が参加したことにはじまる。その後二人は、西ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、エジプト、インド、ビルマを訪問して、ゲイッケル(イギリス労働党党首)、オレンハウアー(西独社民党党首)、ナセル(エジプト大統領)、ネール(インド首相)らと会見している。西欧社民党首やエジプト革命のナセル、そして非同盟のインドのネール首相らとの会見を通じて、江田・横路は新たな胎動に心を揺さぶられた。
 しかも同じ1956年2月14日、ソ連共産党20回大会は、スターリン批判を公開した。もはや時代は大きく転換していることを江田、横路は共有した。ソ連型や中国型の暴力革命の時代ではないという共通認識が生まれた。かくして、江田・横路は終生、新たな社会主義の構築に向けてともに闘おうという血盟の誓いを結んだのだ。当時江田48歳、横路44歳の時だ。

 そして60年安保条約騒ぎが収まる間もなく、池田総理は高度成長政策をかかげて、自民党は新たなスターとを切る。江田三郎は横路節雄と意を通じながら、先進国革命は議会を通じてという、ごく当たり前の構造改革路線を取り入れる。これを社会党ソ連派と中国派の守旧主義者たちが、共産党をも含めて総攻撃をかけてきた。江田三郎の1977年5月の急死によって、社会党改革の夢は潰えた。

 生前の加藤宣幸さんと二人きりのときに話した事がある。江田つぶしの元凶だった曽我祐次氏に『多情仏心 わが日本社会党興亡史』(社会評論社)いう本がある。生前の語りを本にしたものだ。それについて公開質問状の形で、佐々木派社研なる方々の本音とタテマエの乖離を指摘してみたいといった。「やってみろよ」と加藤さんは賛成した。しかし肝心の曽我さんも昨年93歳で亡くなった。だが周辺の曽我一派はまだ生きている。彼らに対して確かめたり、質問したりしてみたい。歳々年々衰亡の一途を辿るこのごろで、来年のことなど考えられないが、生きておればやりたいことの一つだ。これまた未知との出会いである。

[注1]堺大空襲 本市も、隣接する大阪市と軍需生産の上で密接な関係を持ち、機械器具工業、木造船工業など軍需産業が勃興し、一大軍需工業都市となっていたため、また、大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供していたことなどから、昭和20(1945)年3月13日を皮切りに、6月(2回)、7月(最大)、8月の五次にわたり空襲(焼夷弾・爆弾・機銃掃射等)を受け、罹災した面積は約22万6千坪に達し、これは市域総面積の14%に当たり、旧市域の62%に相当する面積が焦土と化した。この空襲で、死傷者約3千人、建物の全焼(壊)半焼(壊)は約1万9千戸、罹災者7万人を超える人的、物的に大きな被害を被った。(内容・数値等については、堺市史・七十年誌・百年史より)

[注2]横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日-1967年6月14日は日本の政治家、衆議院議員。北海道夕張市出身。札幌師範学校(北海道教育大学札幌校の前身)を卒業し、小学校教諭となる。北海道教職員組合委員長および日本教職員組合副委員長、北海道議会議員を経て、1952年10月第25回衆議院議員総選挙に北海道1区から立候補し初当選(通算8回当選。党の国対委員長や政審会長を歴任。1960年の安保闘争では党安保対策委員長。1967年、議員在職中に死去。妻・美喜の実兄は野呂栄太郎、長男は横路孝弘。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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