東京裁判は合法か

■東京裁判は合法か                西村  徹

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東京裁判は形式合法、内容不当――せめて持つべき共通認識
                                    
西村 徹
 「大阪日日新聞」9月7日のコラムでビル・トッテン氏は「東京裁判は合法か」
を問い、合法かどうかに先立って、不当であると判断している。

 「一九四五年七月、日本が戦争を終わらせるための助けをソ連に求めたことを
米国は傍受により知っていた。・・外交的な方法で米国が戦争を早く終わらそう
という意思があったのであれば、七月の時点で不可能ではなかった。しかし、究
極の手段である核兵器を米国は使用した。・・太平洋戦争で日本軍がアジア諸国
で行った蛮行はさておき、原爆や空襲など米国が日本に対して行った行為を考え
ると、東京裁判は真の正義ではなく『勝戦(ママ)国の正義』であり、処刑は勝
者によるリンチにも等しかった。」 

 ・トッテン氏はアメリカ人だから遠慮して言わないが、不当にも裁かれなかっ
たものとして、ソ連軍の火事場泥棒的侵攻と民間人に加えた日本軍に劣らぬ蛮行、
さらには降伏日本軍兵士のまるごとシベリヤ抑留をこれに付け加えれば、およそ
誰も文句のつけようのない共通認識が得られるであろう。裁判がどの程度に不当
であったか、不当ながらに裁判が及ぼした何らかの効用はどの程度にあったか、
あるいはなかったか。その議論の前に、議論をする人相互に共有しうる、あるい
はすべき、共通認識はおよそこのようなところに落ち着くであろう。これはもは
や争う余地のない事実として、もういい加減におなじひとつ土俵で取り組むこと
にしてもよかろうではないか。いつまでも別々の土俵で絶叫大会をくりかえして、
進歩とか反動とか、自虐とか自慢とか空疎なレッテルを貼り付けあうのは不毛で
あろう。さらにトッテン氏は言う。

 「問題は日本政府がこの裁判結果を合法だと認めていることである。国として
裁判結果を合法と認めたのなら、戦犯がまつられる場所へは首相を含め政府の人
間として働いている間は参拝するべきではないと私は思う。」

 前半は、これまた争う余地のない事実である。サンフランシスコ条約調印の事
実は動かないのだから、これもまた共通の土俵に組み込んでよかろう。この事実
から論理必然的に後半は導き出されると私は思うが、これはまだ共通認識にはな
っていなくて、議論の余地があるらしい。

 おなじ「大阪日日新聞」で1月10日、慶応義塾大学教授の憲法学者で弁護士
の小林節氏は小泉総理の靖国神社参拝を支持する文章を書いている。支持の論拠
を要約すると次のようになる。

 日本は平和国家に徹し、賠償金や経済援助を関係諸国へ提供してきたから戦争
責任は果たしている。A級戦犯は戦勝国による一方的な裁きを受け、死刑等の刑
に服し、責任を取ったのだから、これで清算済みだ。人は死によって清められ、
それを神として祀(まつ)るのは日本固有の文化だから小泉首相は、(個人とし
て)靖国に赴き、すべての戦没者を悼み、平和と不戦を誓った。これは、どこか
ら考えても正しいことで悪くはない。」

 おおむね、それはそうだろう。一事不再理ということもある。少なくとも物質
的には、関係諸国に対して十二分に戦争責任を果たしていると言えるだろう。し
かしアルメニア人がトルコに対して抱く怨念は百年を超えて今なお消えることが
ない。中国人が日本に対して抱く感情についても同様だろう。広島、長崎の原爆
投下に中国やフィリピンの人たちの中には、むしろ快哉を叫んだ人も当然ながら
いた。9.11の世界貿易センター崩落の映像に歓呼の声をあげたアラブ人は少
なくなかった。「胸の痞えがおりた」と思わず本音を洩らした幾人かの日本の老人
を私は知っている。もちろんそのような一過性の反射を彼らは後にいくらか恥じ
ることにはなったろうが、勝った方は忘れても負けた方、すなわち被害者は忘れ
ないものだ。踏んでいる足は踏まれている足の痛みが分からないというではない
か。心の傷はモノやカネで簡単に癒されないだろうことを捨象してしまえば、小
林節氏の言うようなことになるだろう。慰謝料というような形のモノやカネで換
算できない、定量化できない、目に見えない心の屈折を切り捨ててしまえば、そ
ういうことになるだろう。
 小泉首相の靖国参拝も(個人として)なら「正しいことで悪くはない」だろう。
原則論として、それはそうだろう。小泉首相自身も憲法19条を根拠に参拝を正
当化した。首相になったからといって個人の権利が消えるわけではない。しかし
(個人として)とカッコに入れたのは(公人として)を除外しての意味だろう。
公人としてでなく、個人としてならば、きわめて限られた、ほとんど不可能に近
い形をとらざるをえないだろう。護衛もなく、昇殿も記帳もなく、まさに
incognitoで行くほかないだろう。それはまず現実には不可能で微行に失敗すれ
ばかならず外交問題になるだろう。安倍官房長官は四月にひそかに参拝したが発
覚した。発覚すれば微行の意味は吹っ飛ぶ。だから、どこから考えても無理なこ
とは「どこから考えても正しい」とは言えないだろう。

 いずれも法廷で争う弁護士の弁論としては、ひとつの方向性に沿って選択的抽
象を積み上げて目指す結論に達することを業とする弁護士にふさわしく、なかな
か筋の通った立論であるが、単純に筋を通すだけではすまない政治、とりわけ外
交の絡む複雑微妙な事柄には有効ではないであろう。筋は通っても筋違いになる
であろう。

 しかし、このような議論はなさるべきであり、常に議論の場は開かれていなけ
ればなるまい。むしろ議論は歓迎さるべきであって、決して閉ざそうとするよう
なことはあってはならないだろう。なぜこのようなことを言うかというと、富田
メモの折の世上の論調に、私はある種のヒステリアを感じたからである。

 立花隆氏が8月12日に「メディア ソシオポリティックス」に「天皇はなぜ
参拝しないのか『心の問題』論と靖国神社」を書いている。富田メモの信憑性を
疑う発言を噴飯モノとしているのはそのとおりであろう。「文芸春秋」9月号の
秦郁彦、半藤一利、保坂正康の鼎談を終始援用、メモの信憑性に難癖をつける向
きに対して立腹している。立腹大いにけっこう、自由である。

 「今A級戦犯の肩を持つ人々への怒りがこみ上げてくる。天皇と国民にウソば
かりならべたてて、あの無謀な戦争をはじめさせ、戦争の真実の推移をすべて押
し隠し、ついには一億玉砕の本土決戦にまで持ち込もうとした、あのA級戦犯た
ちへの天皇の怒りと哀しみが、あの富田メモの『それが私の心だ』によくあらわ
れていると思う」

 立花氏はこのように怒る。重ねて言うが怒るのはよい。怒り方がおかしい。一
目散に、天皇を怒らせたとか悲しませたとかいう所になだれ込んで怒っている。
しかし本当に天皇は国民と均しなみにA級戦犯たちに騙されていたのだろうか。
本当に本気で立花氏はそう思っているのだろうか。天皇と国民がひとくくりで、
天皇とA級はひとくくりになっていない。しかも国民は天皇のついでにすぎない。
そういうところもないことはなかろうが、国民から見て、天皇が国民と同類であ
るよりは、天皇とA級のほうがよほど一味同類に見える。一つ穴のむじなに見え
る。そこを一足飛びに、こういう遺伝子組み換えのような乱暴なことをされると
面食らう。

 ここまで、押しわけ掻きわけして、あの合理主義のなんでも屋が、ここまで天
皇を担ぎ上げると、私は戦時中の悪夢を思い出して背筋が寒くなる。兵隊はみな
靖国に群れたがるとはかぎらない。反戦の兵士もいた。大方は死んだが、まだ残
る古い世代のなかには戦争アレルギーといっしょに天皇アレルギーをも清算し切
れていない者もいる。天皇の哀しみだの怒りだのと言ってもらいたくない、「易
々と」。「それが私たちの心だ」。さらに、もっとあきれた凄文句がならぶ。

 「私にいわせれば、いまさら東京裁判の否定だの、A級戦犯に罪なし論などを
並べ立てるバカ連中は、あの戦争に敗北した事実を男らしく受け止めることがで
きない連中だとしかいいようがない」

 中国に対してでなく日本人に対してである点はちがうが「もうすんだ、ツベコ
ベ言うな」とする点で小林節氏とおなじだ。自分はしゃべって相手には「黙れ」
はよくない。相手を土俵に入れないで独り相撲ではよくない。東京裁判否定論や
A級戦犯無罪論を政治外交の場においててでなく、歴史認識として提起すること
は思想言論の自由に属する。いかなる主張もそれを日本人に対して禁圧すること
は違憲であろう。その論者に「バカ連中」がいるだろうこと、「戦争に敗北した
事実を男らしく受け止めることが出来ない連中」がいるだろうこととはまったく
無関係である。アメリカにヘエコラして東京裁判を無条件に受け入れる男らしく
ない「バカ連中」もたくさんいる。「きみの言うことには断じて反対だが、きみ
がそれを言う権利は命をかけても護る」というのが本来あるべき態度であろう。
竜と戦っていると自分も竜に似てくる、ということがある。腹立ち紛れに短絡す
るとそうなる。

 東京裁判にも効用はあったとするジョン・ダワーすら、同時に裁判の欠陥をも
指摘して、勝者が裁かれなかったこと、天皇免罪が事柄を紛糾させてしまったこ
とを揚げている(「朝日新聞」06.5.25)。裁判の欠陥についての議論、戦
争責任についての議論は、その否定をふくめて自由でなければならない。むしろ
活発になされなければならない。立花氏の物言いはそれを封殺することになる。
自説を主張するとき議論の相手に思考と発言の停止を強いるのはフェアでないだ
ろう。

 「いまさらそのような泣き言を並べるくらいなら、どうしてあの戦争の最後の
場面で、本当の一億玉砕をやってのけるくらいの覇気を見せられなかったのか」
 ムチャクチャを言うものである。いったい誰に向かって言っているのか。やっ
てやれる人はみな死んでしまって誰もいない。こんなアナクロニスティックな空
威張りは、相手がどこにもいないのだから言いたい放題のナンセンスだ。けんか
過ぎての棒ちぎりだ。この種チンピラのケンカ科白は小泉氏のお得意とするとこ
ろではなかったか。

 「あれだけ文句なしの大敗北を喫した以上、負けのすべて(先のすべてのプロ
セス)を堂々と認めるべきである。負けたら負けたで、負けっぷりはよくすべき
で、あれはいやだの、これはいやだのといった泣き言をいつまでも並べ立てるべ
きではない」
 それはそうだ。国が執るべき態度としてはまったくそのとおりだ。政治家が公
人として対外関係に少しでも影響するような場で執るべき態度としてはまったく
そのとおりだ。しかし、さりとて国民も国に倣えと強制すれば民主主義の土台が
崩れる。それを一般の言論の場でなされる東京裁判の検証にまで広げることは決
してあってはならぬ。

 「どうしても負けの一部を認めたくないのなら、もう一戦やることを覚悟して
文句を並べるべきである」
 というような、説得の努力を捨ててしまって、罵りに近い、ポチを棒でつつい
てケシかけるような啖呵を切れば、たとえ溜飲は下がっても相手のルサンチマン
を増幅させるだけになるだろう。議論にせよ論争にせよ、破壊のつぎには説得が
なければなるまい。自分のアリバイ証明に終始していては議論の破壊力そのもの
が弱いものになるだろう。現に「一戦やることを覚悟して」いるかのような、安倍
晋三という、とんでもない国家主義者を呼び出してしまったではないか。

 ほかにもアメリカの外交筋による遊就館に対するきびしい批判を揚げて相手は
中国だけではないことを警告しているのは、まったくそのとおりであろう。それ
は当然日本国が、そして日本国総理が重く受け止めるべきことだろう。首相に対
してそれを言うのはそれでよい。問題点は、東京裁判と判決内容に疑問をもつ人
々に対しても、それをそのまま言えばかならず恐れ入ると考えているところだ。
裁判と判決に疑問をもつのは学問上の自由に属する。

 1971年『東京裁判 勝者の裁き』という本はリチャード・マイニア米マサ
チューセッツ州立大学教授が書いた本だ。アメリカ人は東京裁判で驕慢になった
ためにヴェトナムとイラクで誤ったとするものだ。ところが、日本語に翻訳され
ると、日本の保守派が自分たちの味方が現れたと喜んだ。同じようなねじれが、
東京裁判肯定の家永三郎氏の『太平洋戦争』が英訳されたときにも起こった。米
国の保守派が「やはり私たちが正しい、日本が間違っていると日本の歴史家も言
っている」と考えた。(朝日5月3日)

 奇矯でまがまがしくはあっても遊就館史観にもまた一定の客観的寛容を留保す
るのでなければ、歴史学および民主主義は健全とはいえないだろう。スパルタク
スのほかにも無数の奴隷の反乱はあったが正史(campus history)からは消され
た。スペインに与えたモスレムの大きな文化的貢献の足跡はほとんど消された。
類似のことは多々あるだろう。民主主義のふところは深すぎるということはない
のだ。なんじの敵を愛せよというではないか。これは絶対に失ってはならない民
主主義の基本だ。
                     (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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