松下理論なしに長洲県政はなかった

【追悼】松下圭一氏を悼む

松下理論なしに長洲県政はなかった

久保 孝雄


 マツケイが逝ってしまった。日本が直面する大型の問題に臆することなく取り組み続け、快刀乱麻を断つ切れ味で、次々に真実を抉り出してくれたマツケイ節が聞けなくなるのは、何といっても口惜しく、切ない。

 松下理論についての私の所見はオルタ48号(07年12月号)所載の書評「肺腑をえぐる警世の書 — 松下圭一『市民・自治体・政治』公人の友社」で詳述しているのでこれに譲ることにして、ここでは訃報を聞いてすぐ頭に浮かんだ2つのことを書いてみる。

 一つは、私が長い間、労働問題や政治関係の小さな研究所や団体で苦労していたのをみていたからか、某大学に職を得させようとしてくれたことである。大学教師にはあまり興味はなかったが、「『労働社会学』の講座を開いてみないか」という提案には心が動いた。しかし、そのころたまたま安東仁兵衛さんに誘われて、神奈川県知事選挙に立候補しようとしていた横浜国大・長洲教授の選挙態勢づくりに参加することになり、この話は選挙が終わるまでお預けにした。

 ところが知事に当選(1975年4月)した長洲さんから「一緒に県庁にきてほしい」と言われ、予想外の展開に戸惑いつつマツケイに電話したところ、「大学の話より長洲さんの話のほうがずっと大事だよ。僕も協力するから長洲さんを全力で支えてほしい」とのことだった。この確信を込めた断定に私の迷いは完全に吹っ切れたのだった。

 もう一つは、松下理論なくして長洲県政はなかったのではないか、という想いである。長洲県政の大きな特徴の一つは100名を超す優れたブレーン団を組織して切磋琢磨を重ね、その知的刺激や提言をどん欲に吸収し、施策に生かす努力をしたことである。それが可能だったのは、長洲さん自身が優れた知的リーダーだったからでもある。

 政治面では篠原一、坂本義和、松下圭一さんらが中心だった(経済面では都留重人、中村秀一郎、正村公宏さんらが中心だった)が、とくに日本政治における自治体革新の意義、市民参加と地方自治の可能性、分権型政治・社会改革への課題などについての松下理論を、長洲さんは高く評価していたし、立候補の決意を固めるうえでも大きな影響を受けていたはずである。知事の補佐官を務めた私に至っては松下理論の信奉者で、ことに臨んで迷いや弱気が湧いたときにはマツケイの本をむさぼり読んで自信と元気を取り戻すことが多かった。長洲県政の誕生から全面展開に至る全過程で、松下理論が大きな支柱であり続けたといえるだろう。

 全国的な反響を呼び、1980年代の分権改革の高まりへの口火となった長洲さんによる「地方の時代」の提唱(1978年)、学者と自治体職員の共同作業で新しい地方自治論を構築しようとした「自治体学会」の創設(1986年)、神奈川が全国に先駆けた情報公開の制度化(1982年)、全国初の文化行政の展開(1977年)、政策能力向上のため主要部局に「政策課」を新設(1986年)したことなど、長洲県政のいくつかの主要施策の推進に果たした松下さんの貢献も忘れることができない。

 また、松下さんは8年も前に、日本が官治・集権から自治・分権への転型という文明史的転換の課題に取り組めないかぎり、中進国状況のまま没落するとの予感を否定できないといっていたが、「日本没落」の予感が現実感に変わりつつある今、マツケイの声が聞こえなくなったことは日本の市民社会にとって大きな痛手である。

 想いは次々に広がるが、今はこれ以上語る気が起きない。同じ昭和4年組だけに切ない思いがひとしおである。マツケイさん、長い間有難う。合掌。 (5月12日記)

 (元神奈川県副知事)


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