松本良順・夏目漱石・犬養毅、そして堀部安兵衛 ≪下≫

落穂拾記(25)

松本良順・夏目漱石・犬養毅、そして堀部安兵衛 ≪下≫

羽原 清雅

 前号で新宿区馬場下町の郷土史に触れて、まず松本良順について書いた。
 松本については、地元でも知る人はほとんどいないが、今回触れる夏目漱石についてはよく知られている。全国区の知名度があり、漱石の早稲田、早稲田の漱石でもある。漱石は松山、熊本でのアピールが強いのだが、生も死も、そして教鞭も文学の活動も、生涯の大半がこの早稲田、あるいは新宿区の地で終始している。

 ちなみに、新宿区は、漱石生誕150年の2017(平成29)年2月を機に「漱石山房記念館」を、漱石終焉の地で開館する計画を進めている。その新展開を踏まえて、漱石と馬場下、ないし新宿区とのかかわりを書いていきたい。
 ついでに、戦禍に悲劇を残した「馬場下」にも触れなければなるまい。

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    ≪名前の残る夏目坂≫
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 地下鉄早稲田駅の近隣にある「馬場下」だが、駅から地上に出ると目の前に、なだらかに登る「夏目坂」がある。夏目家の名がその由来でもある。その坂下の交差点の一画に、漱石生誕の地があり、それを示す記念碑が建つ。

 漱石金之助は明治維新前年の1867(慶応3)年、この馬場下横町に生まれた。父親の夏目小兵衛直克は江戸時代からの庄屋で、安政2(1855)年の史料には「名主」としてこの界隈を統括、明治に入っても同4年11月には「第4区区長」としてさらに広い地域を管轄とした。この「喜久井町」の名も、夏目家の家紋「井桁に菊」から来ている。

 だが、漱石自身の幼児期は決して恵まれてはいなかった。漱石の実父小兵衛には五男一女があり、5番目の漱石は生まれてすぐに新宿・四谷の古道具屋か八百屋に里子に出され、その後に塩原昌之助の養子となる。その家も内藤新宿の北裏町にあった。

 その後、養父母の離婚という事態があり、養母がかつて夏目家で働いていたことから、漱石は養母ともども馬場下横町の実家に戻り、9歳の1976(明治9)年6月、これも新宿牛込にあった市ヶ谷学校(区立愛日小学校の前身/現在の区立市谷小学校ではない)に転校、2年間在学してさらに府立1中受験のために錦華小学校(現お茶の水小)に転校している。

 早稲田とは、その後も関係が続く。府立1中、帝国大学英文科に入ると、漱石は学生の傍ら、明治25年5月から同28年3月まで約3年間、東京専門学校、つまり今の早稲田大学文学科で週2回ほど、「バイロン」「ミルトン」などの作品について教えている。このころの学生には、のちに思想家、宗教家として若者たちに大きな影響を与える綱島梁川(1873—1907)らがいた。

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    ≪松山と熊本、イギリスで人気の漱石≫
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 このあと、漱石は明治28(1895)年4月から1年間、愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現松山東高校)の教師となり、ついで翌年に熊本の第5高等学校(現熊本大学)に赴任して4年間を過している。この5年間をうまく喧伝して、松山は「坊ちゃん」と道後温泉、熊本は漱石の結婚や住居を売り物に観光材料にしている。

 漱石のイギリス留学は、熊本を切り上げた明治33(1900)年9月から約二年半。ここで、強度の神経衰弱を病む。ついでながらにいえば、ここにも、のちに「ロンドン漱石記念館」ができて親しまれている。

 帰国後の漱石は、一高、東京帝国大学の講師として教壇に立ち、神経衰弱に悩まされながらも、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」などを書いて作家として注目される。

 漱石が本格的に文学に取り組むのは、明治40(1907)年春、池辺三山から朝日新聞の入社を誘われてから。すでに漱石のもとには、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平ら、さらに内田百�、野上弥生子、さらに芥川龍之介、久米正雄、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成といった文人たちが出入りして、漱石の狭い住居はいわば「文壇の梁山泊」といった場所になっていた。

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    ≪漱石山房での執筆活動≫
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 朝日新聞社に入社するとき、条件は月給200円、年間100回程度連載の長編小説を書くことだった。帝大、一高ともに辞めて、プロ作家としての道に入った。この年9月には、生家から4、500メートルほど離れた南町7に転居、そのころの作品が「虞美人草」だった。

 この早稲田での作品は「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎」(1908=明治41年)、翌年の「それから」。さらに、一高時代の親友中村是公(南満州鉄道総裁、のち鉄道院総裁、東京市長)の招きで満州、朝鮮を訪ねて「満韓ところどころ」を書く。伊藤博文がハルビン駅頭で安重根によって暗殺されたころである。ついで「門」(1910年)、「彼岸過迄」「行人」(1912年)、「こゝろ」(1914年)、「硝子戸の中」「道草」(1915年)、「明暗」(未完、1916年)などがあり、ほとんどが朝日新聞に連載されていた。
 

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    ≪多病に悩んだ漱石≫
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 ただ、漱石を悩ませたのは強度の神経衰弱に加えて、何回も再発した胃潰瘍、それにリュウマチ、痔、糖尿病などだった。修善寺、湯河原などの温泉治療にも出かけていたが、1916(大正5)年12月、に早稲田南町・漱石山房で亡くなる。49歳。戒名は「文献院古道漱石居士」。

 青山斎場での葬儀のあと、荼毘に付されたのはやはり現新宿区内の落合火葬場、埋葬された墓地は、自宅から近い雑司ヶ谷墓地だった。
 漱石山房は1945(昭和20)年の戦災で焼失、敷地の一部に新宿区立漱石公園になっている。記念館が出来るのは、この地である。

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    ≪堀部安兵衛ゆかりの酒屋≫
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 「馬場下」という以上、触れなければならないのは、堀部安兵衛<武庸たけつね>(1670−1703)である。彼がどのような人物かを知らなくても、その名だけはよく知られている。安兵衛をめぐる「伝説」は簡単に作られ、語り継がれるなかでさらに誇大化されている。

 たしかに、歴史上伝承された人物で、「高田馬場の決闘」と「赤穂浪士討ち入り」の2回の大事件で名を売ったのだから、知られてもおかしくないし、尾ひれ・はひれがついて当然、後世の演劇、映画、浪曲などにもてはやされるのも不思議ではない。

 その安兵衛が、高田の馬場での決闘の助太刀に向かう折に、景気付けにいっぱい引っ掛けたといわれているのが、「馬場下」の交差点、地下鉄「早稲田駅」前の小倉屋酒店である。

 いまのご主人は第15代の栗林昌輝さん。地元にきわめて詳しい語り部である。九州小倉出身の初代半右衛門がいまの馬場下に酒屋を開き、今日に至ったという。その自慢の逸品が、安兵衛が高田馬場の決闘に駆けつける際に立ち寄り、一杯引っ掛けて出陣したのが、2代目が経営していたこの店だったという。店には家宝とも言うべき、安兵衛の飲んだ枡(マス)が残されている。

 ここにも、伝説がある。「一杯飲んでから、気合いを入れたのだ」という説と、「命がけの決闘に臨む前にそこまでしないだろう」という見方がぶつかりながら、おもしろがる「一杯」説のほうが生き延びたのだろう。そこに、もっとおもしろくしたいという世情の魂胆が働く。

 安兵衛は、もとは越後新発田藩の出で、中山姓だったが、孤児となったことで江戸に出て剣の道を磨き免許皆伝となる。1694(元禄7)年、親しい同門の菅野六郎左衛門が高田馬場で果し合いをするとのことから、助っ人となり相手の3人を斬って一躍話題の主となる。どこまでが本当かはわからないのだが、「18人斬り」として騒がれる。義侠と腕前と、の英雄伝説である。

 このとき、早稲田に遠くはない加賀屋敷のあった牛込・納戸町から駆けつけるのだが、その時に一杯飲んだといわれる。また、ちょっと離れた改代町には、安兵衛が高田馬場に向かう途中にひと息ついたという「安兵衛腰掛け松」の跡がある、といった伝説も残る。だが、安兵衛はまじめな男で一大事に酒など飲まないとか、遠回りをして改代町によるわけがない、などの否認の論もある。

 ともあれ、あだ討ち、実はその助っ人に立っただけで名声を博した安兵衛なのだが、さっそく養子の口がかかる。それがまた、のちにあだ討ちに至る赤穂藩浅野家の家臣堀部家の婿養子だった。200石の馬廻役である。

 ところが1701(元禄14)年3月、松の廊下事件で主君の浅野長矩が切腹。翌年12月、赤穂四十七士は本所の吉良義央邸に討ち入って本懐を遂げたことで、ほぼ50日後に切腹、高輪・泉岳寺に葬られた。

 早稲田の甘泉園、以前に水稲荷神社のあったあたりに「堀部武庸加功遺蹟」という石碑が、大隈重信、犬養毅、頭山満、大町桂月、三宅雪嶺らの手で明治末に建立されたというが、筆者はまだ現認していない。

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    ≪戦禍は残る≫
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 「馬場下」は第2次世界大戦で、日本本土最初に米軍による空襲被害を受けた地である。

 「牛込では鶴巻町の岡崎病院の焼失をはじめ、馬場下付近が被害を受け」(新宿区30年史)とある。岡崎病院は今もあって、空襲時には早大正門から100メートルあまりの距離を、防火用水のバケツを学生や近くの人たちが一列に並んでリレーして運んだという。早稲田中学校ではこの日が土曜日だったので、校庭にいた生徒は少なかったが、4年生の一人に焼夷弾が直撃して命を落としている。校庭にはいま、故人を悼む「いのり」の碑が建てられている。

 もうひとつ語り継がれているのは、終戦直前の1945(昭和20)年5月25日夜の空襲である。馬場下界隈の広い地域が焼夷弾に焼き尽くされたのだ。

 喜久井坂をほぼ登りきったところに、今の早稲田大学理工学術院総合研究所の喜久井町キャンパスがあるが、戦時中はそこにかなりの長さの横穴式防空壕が掘られていた。米軍の空襲でここに避難した学生数人と近隣の人300人以上の人たちが焔と煙のなかで命を落としたのだ。すでにほとんど忘れられている。研究所内には、戦災者供養の観音像がひっそりと建立されている。通りを隔てたすぐそばの感通寺には、「喜久井町観音像」が祀られている。

 上記の被害が含まれているかはわからないが、堀部安兵衛由来のマスのある酒屋主人である栗林さんが書いた「昔も今も牛込馬場下」の記録によると、漱石の住んだ早稲田南町では300体、喜久井町で500体の焼死体が見つかった。この牛込地区をもっと広く捉えると、早大に近い鶴巻町でやはり500、牛込北町で300の遺体が収容されたという。

 ちなみに、当時の牛込区の人口2万人弱のうち、その世帯数で83%、人数で71%が被災している。焼け出されて壕舎や小屋住まいとなったのは3700世帯、8000人弱、という記録もある。つい、東北の大震災、さらに福島原発の悲惨な現状を思い出してしまう。

 筆者の戦前の家は早稲田からはいくらか離れた南榎町にあったが、防火のための強制疎開という名目で取り壊され、以来親たちは間借りを重ねて転々。筆者は、縁故疎開の神奈川県二宮町から学童疎開で栃木市に逃げた。帰京のあとは、栄養失調にもなった。

 ヒロシマ、ナガサキに比べれば、とも言えるだろうが、一人ひとりの生命にはその家族や係累、そして身近な人々がその数だけ悲しみを抱き続ける。南京事件を死者の数で争う非<情>識な議論はきわめておかしい。「死」は一人ひとり、そしてその近親者の心の「死」であろう。
 今では、たまのことになってきたが、地元の高齢者が重い口を開いて「戦争はひどい」と、その近親、近隣の犠牲者の名前を挙げる。

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 筆者の自宅のある「馬場下」界隈の近現代史を追った。

 歴史の跡は数十年も経てば消えていく。この道、この宅地に、かつてなにがあったのだろうか。忙しい「今」に生きるわれわれには、手の届かない世界になりつつある。
 狭い「馬場下」の地域ですら、この状態なのだから、日本史や世界史のひとコマなどはどんどん消えてしまう。本来は歴史上の先人たちの教訓を汲み取るべきだが、それもない。

 先人の日常を思いつつ、現在につながる糸を手繰ってみたが、私どもの消えた数十年後にはどんな世界が展開されるのだろうか。見る者はいなくても、せめて活字としては残しておきたいものである。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)
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