格差を考える

■臆子妄論  

格差を考える         西村 徹

────────────────────────────────────

● 言葉の麻薬効果

 格差という言葉はさほど古いものではないらしい。藤堂明保編『学研・漢和大
辞典』(1979年)は古すぎるかもしれないが、また、見落としかもしれないが、
その80年の3刷に「格差」は出ていない。Oxford English Dictionaryのように
初出年代の分かる辞書が日本語の場合にもあるのかどうか、あればありがたかろ
うと思う。
 
 しかし60年代池田内閣の所得倍増計画が軌道に乗りはじめた頃、評論家の間
で「格差拡大」不安が囁かれていたように記憶している。だから言葉そのものは
あったのであろう。詳しくは知らないが国語辞典には出ているから和製漢語なの
かもしれない。格別耳新しい言葉ではない。しかし近頃急に頻繁に耳にするよう
になるまで、あまり聞かれずに来た言葉だったように思う。比較の上で日本はき
わだって平準化の進んだ国だったからであろう。今や米国に次いで貧困率世界第
2位というから、ここ5年の変化の激しさは相当なものだと分かる。
 
 格差という言葉は人の値打ち、物の値打ちの差を意味するのだから、それ自体
は何の不都合もない、真っ当な言葉だ。もしその人あるいは物が値打ち相当に評
価されていれば格差はあるのが自然で、ほとんど意識にも上らないだろう。その
格別耳新しくない言葉が、近頃いささか耳新しい、というより、どうも耳に障る、
胡散臭いという感じがするのはなぜか。格差は英語だとdisparityというのをと
りあえずの代表格とする。フランス語、イタリア語、みなラテン語源のおなじ言
葉がある。そしてもう一つ英仏伊を通じておなじinequalityは語源的にdisparity
と意味同一である。前者は15世紀、後者は16世紀と、前者が後者より100
年足らず古いだけだ。
 
 じつは日本語でもやはり「不平等」のほうが古くから使われていたらしい。す
くなくとも自由民権運動が生まれて以後、使われる頻度は高かった。格差は自然
だが、平等は自然ではなくて、どんなに格差の違う人にも等しく人為的に保障す
べき権利についてのことだ。猫も杓子もおなじ服を着て報酬もおなじにせよなど
というのでなくて、法的権利のほかに生活権の保障も含んでのことだ。それが崩
れて生活権の保障を奪われるとると不平等が発生する。いきなりクビになって強
盗をしたり、自殺したり、ワーキングプアになったりということになる。セーフ
ティーネットなどとサーカスの道具のようなことを言わなくても「不平等をなく
せ」ではっきりする。近頃それを使わないのは「不平等」ではあまりにはっきり
して、仮借なく核心に迫るから婉曲に「格差」で誤魔化そうというところがあり
そうに思える。「不平等をなくせ」だと本当に不平等をなくそうとして本気になら
なければなるまい。「格差の是正」だと、不平等は存在するのが暗黙の前提になっ
て、それを少しは目立たないようにする振りするだけですむ。年末に鶏の羽を染
めて駅前で売るだけですむ。
 
 オリックスの宮内氏のように「心地よい格差」(朝日新聞9月13日)などとい
う人があって呆れてしまう。いくら宮内氏でも、いくら面の皮が厚くても、「心地
よい不平等」とは言えないだろう。「心地よい差別」ともむろん言えまい。じつは
そう言っているのだけれとも気づかれずにいる。問題の本質から目をそらして痛
みを感じなくさせる言葉の麻薬効果がここにある。敗戦を終戦、退却を転進とい
うようなものだ。言葉としてまったくの間違いではないが、場違いな言葉を使う
と事柄の認識を大きく間違う。
 
 人について言えば、その人の名誉が保たれている状態、その人が貶められてい
ない状態を示す英語にdecencyというのがあって、ジョージ・オーウェルはこれ
のあるなしを社会を批判する上での物指しにした。「その人、そのものに見合って
いる、ふさわしい、ぴったりだ」がその原義だ。それぞれにdecencyが保たれて
いるかぎり不平等感は生まれることがなく、「格差の是正」などという欺瞞語句が
出てくる余地もなかった。エリートにノブレス・オブリージュの自覚があり、労
働者は労働と腕に誇りを持ち、データを改竄して論文を偽造などしなくても学者
は自由に学問ができ、発明者が法外な特許料を請求するような卑しさを持たず、
医者は貪らず、商人は浮利を追わず、高利貸しがもっと蛇蝎のごとく蔑まれてい
れば、こんな欺瞞語句の出てくる余地はなかった。
 
 フランスでは大統領選で自由と平等はスローガンとしてさかんに使われている。
日本では自由と平等などというとけげんな顔をされかねない。自由と平等などと
は靖国神社遊就館ぐらいしか言わなくなった。アメリカではリベラルもいけない
そうだ。そのくせフリーならいいそうだ。言葉狩は日本に固有ではない。だから
本来ならば「不平等を是正」というべきところ「格差是正」などと欺瞞的な言い
方をするようになった。本気で平等を目指す気などないからだ。
 
 フリーはよくてリベラルがいけないのはなぜか。リベラルはラテン語源で、フ
ランス語にはリベラルはあるがゲルマン語源のフリーはない。ドイツ語にはフリ
ーはあるが、リベラルはない。英語はドイツ語とフランス語のハイブリッドだか
ら両方ある。リベラルは秤で等分に測り分けるという意味の言葉から来ている。
だからリベラルは法的に実体のある市民的権利を平等に持っている自由をあらわ
す。フリーの方は法に裏づけられることも縛られることもない自由だ。市民権を
剥奪されて牢屋に入れられていても失うことのない自由、つまり奴隷にもありう
る内面の自由のこともあれば、憲法に縛られない専制君主の勝手放題、絶対権力
の自由のこともある。
 
 昔実存主義が流行ったころサルトルがリベラルでないほうの実存的自由を、つ
まりフリーダムを、フランス語のリベルテだけで表現するのに「自由であること
から自由になる自由のない自由」とかなんとか、目のまわるようなことをいって
七転八倒するのを、ハーバート・リードはからかって「英語なら一語ですむのに」
と言い、英語が雑種であることの便利を誇示した。
 
 国連を軽視し、国際法を無視して、地球の絶対君主のように振舞うアメリカが
リベラルを嫌ってフリーをよしとする理由は、これで、いくらかは納得できるだ
ろう。平等と不可分の多数派市民的権利としての自由は邪魔になるが、勝ち組少
数派による弱肉強食のまさしくフリーハンドは手放さないというわけだ。

●持てる者は更に与えられて更に豊かになる

 「持てる者は更に与えられて更に豊かになるが、持たざる者は持っているもの
まで奪い取られる」。
 
 収奪という言葉をまるで絵解きするような、えげつない言草に聞こえるが、こ
れを言ったのはホリエモンでも竹中平蔵でもない。イエス・キリストが言ったと
いうことになっている。マタイによる福音書13章12節と25章29節と、二
度にわたっておなじ文句が出てくる。念の入ったはなしだ。マルコ4章25節に
もある。ルカ19章26節にもある。
 
 聖書の中のイエスの言葉はどれが本物で、どれが福音記者の加えたものか、世
界中の聖書学者の相当数が、せっせと舐めるようにして調べている。明らかにイ
エスのものでないのは赤色、どっちつかずが別の色、本物だけが黒といったぐあ
いに色分けした聖書もアメリカで出ていると、いつかテレビで見た。学問は進む
のでまだまだ変化するらしい。今このマタイの中のこの文句がどの色になってい
るのか、いちいちを私はまるで知らないが、共観福音書のいずれにも出ているの
だから、秤に関わるそのような伝承はあったのだろう。
 
 ついでに寄り道するが、マタイの5章3節「心の貧しい人は幸いである」もル
カ6章20節では「貧しい人は幸いである」になっている。どっちがどっちかど
ぎまぎするが、マタイが「心の」をくっつけたのだといわれる。理由は、ギリシ
ャ語の「貧しい」は物質的貧困のみを表すがヘブライ語の「貧しい」は「柔和な
る者は幸いである」の「柔和」と同語源で「うちひしがれている」の意なので、
主にユダヤ人を相手にしたマタイはユダヤ人向けに「心の」を付けたというよう
なことがいわれる。学者というのはえらいものだと、学の深さに唸ってしまう。
 
 ことほど左様に学者は充実していて意気盛んに学問に励んでいらっしゃるが、
教会の牧師さんは大変らしい。持てる者がますます太るなどいうところはなるべ
く読まないようにするだろうが、聖書勉強会などでは避けがたい。若い信者が「そ
れって不公平じゃん」などということもある。大いにある。日本の牧師は寺の住
職や素朴な田紳風の神主なんかとちがって先生である。半分学者ぶって権威をも
って教えねばならない。未熟な若い牧師はひきつってしまう。「神は愛なり」「汝
の隣人を愛せよ」「自分にして欲しいように他人にもせよ」「金持ちが天国に入る
のは駱駝が針の穴を通るより難かしい」などという教えと正面衝突するのだから
大変だ。たぶん危機管理用のマニュアルがあって神学校では一応学ぶのだろうが、
準備していなければ慌てるだろう。私の見た中にこういう説明もある。
 
 なにを持っているかの目的語は書かれていない。目的語は「感謝の心」である。
感謝の心があれば心は常にますます豊かになる。感謝の心がなければ与えられて
も満足しないで不満はつのる。モノやカネは持っていても感謝がなければ不満は
つのる。丁度一億総中流といわれるほど中流の層が厚くなったのにその時期国民
は一向に満足感はなかったことを思い出させる。こっちは学問的でないが、いか
にも現場的で寺の坊さんの法話に近い。聖書の前後の脈絡からもさほど無理のな
い、なかなかいい説明だ。老子にも「知足者富」とか「知足之常足」とかあって、
清らかに生きてゆくための個人の知恵として大事なことと思う。風流でもある。
 
 しかし世の中そんなに素直な善男善女ばかりではない。東大も近頃は痩せたソ
クラテスはほとんどいなくなって、太った豚で充満している。目的語に「カネ」
を入れて「カネさえあればなんでもできる」と、したり顔で広言する破廉恥漢も
いる。それを政権党の脂ぎった大番頭が「ムスコだ、弟だ」といって尻押しする。
彼らは知らなかったから聖書を引用しなかったが、もし知っていたら鬼の首を取
ったように引用したことだろう。
 
 感謝の心があれば常に満たされるなどと、人民にはそう言いくるめておいて権
力はなすべきをなさずに人民に負担を押し付ける。そういうことが十分にありう
る。とういより必ずある。そうやってキリスト教は帝国の支配イデオロギーとし
て使われてきた。今も使われている。だから処世訓として読み取って安心してい
るとしらぬまに権力にとりこまれてしまう恐れがある。もっぱら信仰のあるなし
を問題にしているのだ、信仰を持っているか持っていないかを問題にしているの
だという人は、それはそれで主観的には正しいだろうが、それで自足してしまう
とやはり危ない。

●マタイ効果

 また一般に人々が聖書を読むとき、たまに聖書学者の話しを聞いて頭がクラク
ラしてため息は吐いても、普通そういう厳密な読み方はしない。めいめい我流に
読んで首を傾げたり、思い入れをこめたり、都合よく納得したりだから聖書の言
葉は独り歩きする。アメリカの社会学者のマートンという人がマタイ効果という
ようなことを言っている。ずばりこのマタイを引いて、科学者の場合には著名な
学者がしばしば栄誉と報酬を独占する、実際は下支えの若い学徒がやった仕事も
その労は無視される、そうやって名声を持つ者はますます栄え、無名の者は割り
を食うとして、いくつかの具体例を挙げている。(その逆のマチルダ効果という女
性の業績は無視されやすいというのもある。これは科学史家のマーガレット・W・
ロッシターという人が言ったそうだ。)
 
 言われてみればその通りだ。たまには島津製作所の田中係長のように「ノーベ
ル賞をもらった」と奥さんからの電話を聞いて「誰が?」と言ったというような
例もあるが、だからひとしきりserendipityなどという言葉が囁かれた。賞と栄
誉を別としても才能のある人はますます才能を伸ばすし、ない人はがんばっても
捗々しくない。レーダーグラフをとってみれば、あっちの角が出っ張っていれば
こっちが凹むから人はト-タルで同じになるというのはウソだ。新生児のうちな
んらかの障害を持って生まれる率は一定しているといわれるように、人は生物学
的に平等に生まれるわけではない。カネのある人はますますカネがたまるし、貧
乏人はなかなかうだつが上がらないのも事実だ。おなじ1000万円をオリック
スが庶民から集めたカネは5年経って1040万円で返されたが、おなじオリッ
クスが後ろ盾のなんとかファンドでは福井日銀総裁の1000万円はもっと短期
間で2300万になった。顔かたちも同様だ。だから「モテる者はますますモテ、
モテない者はますますモテない」などというほろ苦いもじりも若者の間にある。
東京では35歳台で結婚できない貧乏で容姿にめぐまれない男が40パーセント
に達すると聞く。

 これでいいのかという前に、これは冷厳な事実だ。それをありのまま、ずばり
とイエスは言ってのけた。牧師さんたちが苦しい解釈やこじつけをする必要はな
く、弱肉強食の不条理をイエスは白日にさらしたとする方が実はよほどすっきり
する。イエスは相当攻撃的に内に怒りをこめて言ったような気がする。だから唐
突で衝撃的なのだ。サプライズというわけだ。イエスの時代、というよりもっと
前から地主というか金持ちというか、そういうのが年貢のようなものを取り立て
るときは大きな枡で測り、支払いには小さな枡を使ったという話を読んだ気がす
る。
 
 オリックスだけではない。企業の多くはおなじやり方で荒稼ぎしている。正規
社員のクビを切って使い捨ての非正規社員ですませ、非正規社員は不当な低賃金
で食ってはいけなくて高利貸しに借りたカネを返せなくて毎年2001年9.1
1の犠牲者とおなじ数だけ自殺している。表に出ないのを加えるとその2倍ぐら
い死んでいる。自殺者の掛けた生保の保険金は高利貸しが持ち去る。その高利貸
しにはその生保が出資している。
 
 イギリス人は12進法に乗じて、10進法にしか慣れていない植民地人と取引
する場合、たとえば8ペンスの品物を売るとき1シリング(12ペンス)の硬貨
を受け取って2ペンスのおつりを渡して残りの2ペンスをちょろまかした、など
という半ばブラックなジョークがあった。私自身ロンドンで新聞を買ってアイプ
ンス(8ペンス)というので1シリング出して4枚も大きなコインを渡されて一
瞬2枚多すぎるのではと錯覚したことがある。

●イエスのサタイア

 「悪いやつほどよく眠る」と言ったからといって「眠れないなら悪いやつにな
れ」といっているわけではない。嫌悪、告発、断罪としてそれは言われる。「持て
る者は更に与えられて豊かになる」からといって「豊かになりたければ泥棒して
でも騙してでも、塀の内側に落ちるリスクをとって恥も外聞もかなぐり捨ててゼ
ニゲバに徹せよ。そして先ず資本をつくれ」といっているわけではない。イエス
はまさにそのとおりの不公正、理不尽が人間社会にまかり通っているのを、「貧乏
人はなけなしのカネまで奪い取られるのだ」ということを、みなの目の前に突き
つけて告発しているのだ。二千年前のローマ帝国支配下でこれだけズケズケ言っ
たら、もうこれだけで十字架にかけられもするだろうと思う。
 
 その後イエスの思想は西洋に入って(もっと早くからとも言われる)骨抜きさ
れてしまったから、こういう文句が出てくると右往左往するのだろうが、そして
それを合理化する学問つまり護教論も発達したのだろうが、この原始のイエスの
逆説的批判の伝統は、とりあえず私の知るイギリス文学のなかにはある。イエス
のように単刀直入に事実を目の前に曝して世間の価値観をでんぐり返すのではな
いが、既成事実を誉めて誉めて誉め倒して、挙句にその正体がまるで動かしがた
い悪であることを白日にさらす帰謬法(reductio ad absurdum)という、なかなか
心にくい風刺(satire)の文学伝統がある。ガリヴァー旅行記で誰もが知るジョナサ
ン・スウィフトがそれだ。またジョージ・オーウェルもそうだ。
 
 スウィフトは1729年『穏健なる提案』(A Moderate Proposal)というパン
フレットを書いた。タイトルはもっと長くて「アイルランド貧民児童が親ないし
国家の負担となることを防止し、かつ彼らを公益に資せしめんがための」が付く。
当時のアイルランドは英国の統治下にあり、その圧政に苦しんでいた。特にクロ
ムウェル軍の残虐に対する怨恨は今なお消えない。秀吉に対する恨みが韓国で今
なお消えないのとおなじだ。カトリックのアイルランド人はプロテスタントのイ
ギリス人不在地主に搾取されて飢え、子供の物乞いは巷に溢れていた。第三世界
の飢餓難民を思い浮かべればよい。スウィフト自身はイギリス人で、ダブリンの
聖パトリック大聖堂の首席司祭であったが、アイルランド人の窮状を見るに忍び
ず、硝酸をぶっかけるように辛辣な『穏健なる提案』を書いた。
 
 イギリス人側は、アイルランド人は怠惰で劣等だからこのざまだと言って冷酷
鈍感に見下していたのであろう。スウィフトは書いた。
 
 そのとおりだ、自己責任だ。その窮状を救うには貧民自身の自助努力にまつし
かないと言わんばかりに書いた。「事情通のアメリカ人によると、肥育した健康な
一歳児はシチューにしても、ローストにしても、炒めても、ボイルしても、きわ
めて美味で栄養価も高い健康食品であって、きっと(フランス料理の)フリカッ
セにもラグーにも適うにちがいない」。それを富裕なイギリス人不在地主の食料に
供するがよい。一歳児を食肉市場に売却すれば人口過剰と失業問題を一挙に解決
し、嬰児殺しを防ぎ、育児費の節減にもなって若干の所得増をもたらす。富裕層
のグルメ度も多少は向上し、全面的に国の経済に貢献することになるだろう。
 
 同時に彼は販売の数量、重量、価格等のデータを示し、児童の販売と消費は子
どもの価値を再認識し、夫は妻を重んじるという家庭モラルの向上にもつながる、
この方策の実施によってアイルランドの混迷する社会経済問題は著しく改善に向
かうであろうと結んでいる。奇想とも見えるけれども、スウィフトの時代にアイ
ルランドではイギリスによる苛斂誅求のため飢えに迫られて人肉食が実際に行わ
れていて、彼はすくなくともそれを耳にしていたことからの発想であろう。今日、
厳しい提案をa moderate proposalと呼ぶのが英米で普通になっている。
 
 こういうことが一応下地にあったから、「持てる者はますます与えられ・・」に
出会って、私はさほど躓くことはなかった。むしろ意外性が新鮮で、暗喩を読み
解いたときに似た、快い文学的緊張と興奮があった。文献学者は厳密にはどう読
むのかを知らないが私は我流でそう読んだ。もちろんまったくの我流ではなくて、
それに似たことを読みかじり聞きかじりしてあって、その恩恵は被っているので
はあろう。とにかく今はそう読んで納得している。

●不平等は事実である、そして理不尽な事実である

 以上のように不平等不公正は冷厳な事実である。同時に不平等不公正は理不尽
である。事実であるから理不尽を容認すべきだということにはならない。逆であ
る。理不尽とは戦わなければならない。「認識は悲観的である、しかし意欲と希望
は楽観的である」とシュヴァイツァーは言った。アルベール・カミーユは理不尽
との戦いを『ペスト』に書いた。イエスもスウィフトも理不尽と戦った。戦った
がゆえに彼らは美しい。
 
 ここに安芸基雄という1919年生まれの、軍医として4年間シベリアに抑留
された無教会キリスト者の『平和を作る人たち』(みすず書房1984)という本
がある。木村寛さんが読めといって持ってきた本である。中に捕虜収容所での給
食に関する記述がある。
 
 捕虜になっても階級制度は残っていた。500人分の食料は平等に分配される
わけではなかった。大隊長には特別の当番が先に炊事から特別に用意した。その
後小隊ごとに小隊長には当番兵がまず用意し、下士官、古年兵、初年兵の順に取
った。軍は兵站線の先に遠ざかるほど糧秣給付は薄くなる。それとおなじ構造だ。
それを著者は改めた。大隊長は不機嫌であった。「目下の者が目上の者をいたわる
のは日本古来の美風である、いったい貴官はこれを何と心得る」。また「こういう
のを反軍思想というんだ、日本へ帰ったら貴官の身分に傷がつくぞ」。それでも彼
は後に引かなかった。そして平等は実現された。(同書109~112ページ)
 
 今考えると信じられないことだが、たぶん遊就館を牛耳っている元参謀は今で
もこの大隊長と考えは変わらないのだろうと思う。安芸氏が実現した平等と大隊
長のいう「日本古来の美風」と、どちらが正しいか、どちらが美しいか。そして
どちらが醜いか。いうまでもあるまい。ジュネーブ条約では将校と兵とは待遇に
差別がある。しかし日本は条約を批准していない。目下が目上を敬うということ
はあるが目下が目上をいたわるとはあまり聞かない。いたわるのは弱者に対して
である。だから目上が目下をいたわることはある。この大隊長の教養が疑われる。
例外はあるが、一般に増長した職業軍人はこの程度の甘ったれだった。戦陣訓を
発し特攻を出陣させて自分たちは生き残った。
 
 今この大隊長とおなじような理屈で「格差」すなわち不平等を容認しようとた
くらむ連中が増えている。競争によってインセンティヴを与えないといけないと
かなんとか言っては不平等を助長しようとしている。ある程度「格差」はあって
もやむをえないと一歩後退する論者もふえている。そんなことではリベラルは総
崩れになるだろう。不平等反対で一貫して結局はそこそこの線に納まるのだ。
 
 しかし東京だけを見ていると誤るだろう。大阪では関西の財界有志の会の表彰
式に、戦争出前噺の本多立太郎氏(92歳)と阪神赤星選手が呼ばれることにな
り、ホテル・リーガロイヤルで、10月13日、盛大な表彰式が催されることに
なった。「平和の心」賞授与とか。赤星選手の場合、盗塁一つについて、車椅子一
つを寄付していることへの感謝の由。本多翁の場合、何かの間違いでないかと本
人は言っているが、関西の財界人の間では、今日の自民党天下にかなりの不満が
あると聞く。
 
 以上を9月21日本多氏と親しい知人からのメールで知った。東京では何事に
よらず実態以上に増幅されやすい。悲観主義もまた増幅されやすい。意欲と希望
において楽観的であり続けなければならぬと思う。

                     (筆者は大阪女子大学名誉教授)
[追記]

 本多さんには関西・経営と心の会から平成18年9月4日付け

 顧問   上山英介  大日本除虫菊代表取締役
 世話人  井植 敏  三洋電機最高顧問
       木村浩一  三起商行代表取締役
       松下正幸  松下電機代表取締役

の連署で600人が集まる表彰式への出席依頼状が来ている。また、
 沖縄タイムス:2005年9月29日(木)朝刊24面には昨年度の受賞につ
いて「関西心の賞 大木守利さん受賞/障害乗り越え 沖縄戦語り部」という見
出しで、次のような記事が出ている。

 地域奉仕に取り組む人に贈られる「関西・こころの賞」に、沖縄戦語り部の大
城盛俊さん(73)=兵庫県伊丹市=が選ばれた。病気で声を失いながらも人工
声帯で沖縄戦証言を続けてきたことが受賞理由。賞は「関西・経営と心の会」(代
表世話人、木村皓一・三起商行社長)が一九八六年創設。年一回、スポーツや福
祉、芸術などで活躍した人を表彰している。
 大城さんは、沖縄戦で日本軍に暴行を受け失明。さらに母親がスパイ容疑で殺
された。米兵が撮った少女の写真が、生き延びるためにおかっぱ姿だった大城さ
んであることが報道され、話題を呼んだ。これらの体験を、全国の学校で話して
いる。  大城さんは「受賞を聞いて驚いた。声も出ない、片目も見えない私が、
語り部として頑張ってきたことが認められた。沖縄の人々に恩返ししたい」と喜
んだ。
 大城さんのほか、西陣織の源氏物語絵巻を制作する織元、山口伊太郎さん=京
都府、南太平洋でボランティアをする歯科医、澤田宗久さん=大阪府=が受賞し
た。授賞式は、十月二十六日大阪市で行われる。

 以上から本多さんの受賞は決して「なにかのまちがい」でも気まぐれでもない
ことが了解されよう。痛快事である。

                                                  目次へ