歳末偶感:「自殺はダメ」か?「耐えられない苦しみはない」か?

■臆子妄論        西村 徹

-歳末偶感:「自殺はダメ」か?「耐えられない苦しみはない」か? -

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  ふとテレビを見ると、作家・僧侶 瀬戸内寂聴という人が徳島の母校で三日間
の課外授業を行って生徒と話しているところを映していた。伝統のある名門校ら
しく、茶髪とかピアスとかは一人もいない清潔な感じの生徒ばかりのようだった。
「自分だけでなくみんなが幸せになるように」というようなお話だった。人間
は三日も続けて話せば話の中のあっちとこっちが矛盾するようなことは珍しくな
い。その矛盾がなんであったかを私は忘れたが、一人の女子生徒が寂聴講話の中
にそうしたところがあるのを指摘した。よくよく聡明な生徒たちの学校らしい。
さらにその生徒は「自殺は何故いけない?」と訊いた。即座に寂聴さんは言った。
「自殺はダメ。いのちは頂いたものだから」と。

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。宗教者ならそう言わざるをえ
ないだろう。そう思う人、そう思いたい人にはそれでよかろう。とかく死に急ぎ
しやすい傾向の若者に対してはとりあえずそんなところでよいだろう。さりとて、
そう思わない人のいることまで打ち消してしまうことはできないだろう。そう
思わない人は決して少なくない。むしろだんだん増えているらしい。こういう答
えはそう思う人に通用するだけで、そう思わない人には通用しないだろう。実朝
の歌にもある。「神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは」。だか
らいかようにも言うだけは言える。

 続けて「耐えられない苦しみはない。どんな苦しみも耐えられるように神様は
作ってくだすっている」とも言った。ほんとうにそうだろうか。どうもそのまま
信用はできない。「頂いた」というのと平仄は合うが、これは「頂いた」説以上
に信用できない。ちょっと聞くとちょっと気が利いていて俗耳に入りやすいが「
頂いた」説ほど陳腐でない分、いっそう眉唾に思う。嘘も方便ともいう。嘘は嘘
でも善意から出た白い嘘だろうことは疑いない。こういうときは訊かれた側も苦
しいときの神頼みになってもやむををえまい。

 それにしても年間3万人以上の自殺者があるという現実を見ると,やはり「耐
えられない苦しみはない」とは到底思えない。耐えられるのに辛抱が足りなくて
3万人が死んだのだろうか。なかにはなるほど、もう少しなんとかすればと思え
るような場合もある。とくに若い人のなかにはせっかちに死に急いでしまう場合
もある。カッコいいからといって死んでしまう場合さえある。しかし成人の場合
それは少ない。ほとんどない。

 人は長ずるにつれて、大抵次第に臆病になる。死んだ人をうらやんだり、だか
ら死にたいと思ったり、少なくとも自分をやめたいと思ったりすることはある。
それでも、とても実際に死ぬ勇気はなくて、存在の憂鬱というか人生の徒労感を
拭えぬままに、ただおめおめと生きている。功成り名を遂げた人でも結局は変わ
るまい。達成感の大きいぶん落差は大きくて、最期に老残の弧愁は深いというこ
とさえありうる。さて自殺するにはそれ相当の苦痛を覚悟しなければならぬ。覚
悟だけではだめで、さらに相当のエネルギーが要る。よほど勤勉でないとその負
担には耐えられない。あえて面倒をいとわず、それでも死ぬのだから、自殺とい
うのは「堪へ難キヲ堪へ」た挙句のことにちがいない。

 3万人のうち相当数は経済苦自殺だという。借金などを背負いきれずに追い詰
められて首を吊ったり鉄道線路に飛び込んだりするほかなくなった人たちである。
そういう負け組は辛抱が足りなかったのだろうか。男の自殺は女の2倍以上だ。
男は女より辛抱が足りないわけでもなくて男が所帯主というばあいが多いから
だろう。肉体上の苦痛に耐えられなくなって自殺した知人が二人いる。一人は男
で一人は女だ。舅の介護を十一年続けて、ようやく見送った挙句に、介護の重荷
から解放された途端に自殺してしまった人がいた。十一年間張り詰めていた心の
糸が急にぷっつり切れたのだった。

 心の痛みがもとで身を投げたが失敗した人もいる。その人は、たとえ今は身障
者になっていても、失敗してくれてよかったと、知人として、ほとんど身勝手に
そう思うが、本人はどう思っているかはわからない。これについても「耐えられ
ない苦しみはない」などとはとても思えない。マタニティーブルーで自殺した人
も何人か知っている。路上の男に斬りつけられて、いまは毎日4度モルヒネを飲
んで下半身の痛みに耐えている人のことが11月23日の朝日新聞に出ていた。

 米軍兵士の自殺率は最悪の状態だという。11月5日、軍医が銃乱射事件を起
こした。その軍医は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など精神的な疾患を
抱える米兵のカウンセリングを担当していたという。ミイラとりがミイラになっ
たわけだ。耐え難い痛みがあるからこそ医学は痛みとの戦いで奮闘している。だ
からこそ釈迦は、この世は苦だといった。

 朝日新聞(大阪版)11月20日夕刊に「記者の視点・うつ病対策」(岡崎明
子記者)という一文が出ていた。それによると、一生のうち15人に1人がうつ
病にかかるという。東アジア人は約80パーセントがうつ病になりやすい遺伝子
を持っているが、欧米では遺伝子保持率が40パーセントにすぎないという。「
いのちは頂いたもの」というのなら、「自殺もまた頂いたもの」、「神様は一定
の率で自殺者が出るように作ってくだすっている」ということになるのではない
か。「人の心のほか」なる神様が、あるとしたらそういうことになる。

 昔やはりテレビかなにかで「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年が訊いて、
まわりの大人はほとんど答えられなかったという話を聞いた。なぜ答えられな
かったのか不思議だった。いのちだろうがなんだろうが、他人のものを奪うのは
いけないにきまっている。いのちを奪うのは持ち物だけでなくて持ち主そのもの
まで根こそぎ奪うのだからなによりいけないにきまっている。素朴に考えてそう
なる。なぜ評論家先生たちがたじろいだのか不思議だった。素朴に考えたらすぐ
さまわかることなのに、生命の尊厳とか空念仏だけ唱えているから単純なことを
見失うのだろう。

 あるいは、この少年の問いには、前提として、他の生物の生命を奪うことによ
ってしか生物は自分の生命を維持できないという、不条理とも理不尽とも、いっ
そ業と言ってしまったほうが手っ取り早いような、やりきれない現実認識が意識
の底に潜んでいるのかもしれない。他の類の生物なら殺してもよくて、なぜ人類
だけを生物一般から除外するのか。単純に論理の整合性だけを追及すれば、そう
いう問いは成り立つ。しかし通常、人を食料にするために殺すことはありえない。
そのようなリアリティーのないことを考えるのは空理空論であり、無意味であ
るとういことで片付く。

 自殺となると、そう簡単に、いけないと言えない。いけないと言うとどうして
もしらじらしいお節介になる。他人のものを奪うわけではない。自殺は自己決定
権の行使だから干渉しにくい。酒やタバコのように法的に年齢制限があるわけで
はない。「いのちは頂いたもの」だと本気で思っている人ならば、「もともと自
分のものではないから勝手に処分できない」といえばいいだろう。しかし、いの
ちなど頂きたいと、わざわざ頼んだわけではないのだと思っていて、神様が自分
のいのちの持ち主だとは思わない人には、「いけない」とは簡単に言えないだろ
う。

 「いけないかどうか分らないけれど、あとで死ななきゃよかったと思っても取
り返しがつかないから、まあ止めておいたら」ぐらいしか言いようがない。死刑
に反対する理由と似ている。まちがったと分った場合、自殺にせよ死刑にせよ後
からでは取り返しがつかないからだ。死刑には、殺人はいけないといいながら、
いけない殺人を国家がおかすという矛盾もあるが自殺にはそれすらない。

 自然は美しい。こんなに美しいのだから、神様というようなものが自然を創っ
たのだと考えたくなるのも当然だ。見たいものだけ見ているのならそれですむ。
しかし自然は美しいと同時に残酷だ。自然の中の生物世界を見ているとじつに残
酷だ。私はテレビで風景を見ることを好むが、野生動物などを映したものは言う
に及ばず「さわやか自然百景」などでさえ小鳥がしばしば天敵の犠牲になる場面
が映される。海ならばDeep Blueという番組ではシャチがアシカや鯨を襲う血も
凍るような場面がある。「ワイルドライフ」などで映されるのは、稀に気休めほ
どの共生の場面もなくはないが、圧倒的に多くは弱肉強食のエゲツナイ場面であ
る。それを見たときの戸惑いは、わいせつなものを見たときの戸惑いに似ている。

 しかし、動物の交尾には、わいせつ感はない。むしろ鳥の求愛ダンスなど睦ま
じさのほうが際立つ。ただ、動物の交尾にも、わいせつはないが残酷はある。昆
虫ではセアカゴケグモのように交尾のあとでオスがメスに共食される場合も少な
くない。なんといっても人間がずば抜けて残酷で、そのうえにわいせつである。
わいせつは人間に固有なのかもしれない。わいせつは人工的なものだ。演出によ
って異常に刺激を増幅したりするのは人間だけである。自然は美と残酷の、紛ら
わしく綯い交ぜの織物である。人間は美しくて醜くて残酷でわいせつだ。「頂い
たもの」という以上は、そういうカラクリのすべてを含めてそのようにいうべき
である。

[付記] 今回で連載を終わらせていただきます。また折にふれて投稿させていた
だくこともあるかと思いますが、「臆志妄論」というタイトルはやめます。Oxym
oronを漢字にしただけのつもりが、なんだか人まねのように思われたりするらし
いからです。また、たしかに漢字はいかにも響きが大袈裟です。駄文をお読みく
ださった方々にお礼申し上げます。長いあいだありがとうございました。

            (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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