【自由へのひろば】

母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(2)
美しい土地ダージリンで知った「国境線」の悲しさ(前編)

坪野 和子


 楽しいながらも(本当は)悲しい人々とも出逢った充実した旅!!
 国際誤解?? 風評被害?? 日本で語られる姿は現地では幻想のようなものだった。

 帰国して3か月経った今、インドでは予想通り政権交代、ナレンドラ・モディ首相が誕生した。日本に帰ってかなり時間が経ったというのに、時差ボケが完全になおっていない。毎日インドから誰かが自分の選挙行動を3時間半の時差を考えずにチャットで送ってくれていたからだ。今回の旅行中、コルカタでは地域支持者が強い「草の根会議派」のポスターが町に溢れ、何度か講演会や集会の会場を目にした。スピーカーでがんがんと候補者と党の名前を連呼する日本とはまったく違った光景を目にしていた。ダージリンでは中央の政党ではなく、ネパール系住人の民族政党の集会を…それも独立運動も伴った…数日の滞在にしては多いだろうと思えるほど何回も目にした。
 本来ひとつの州であるはずがない。隣のバングラデシュが外国であっても同じベンガル人であるという意識がある。ネパールともブータンとも接近している。数年前まで共産党政権だった。西ベンガル州独自の特徴事情に触れたのだった。

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1.ダージリン到着まで
  ---出逢った人たちは「民族」という荷物を背負っていた---
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 コルカタのお洒落なモールで映画を見終ったあと、すぐにタクシーでセアルダ駅に戻り、手荷物預かり所から荷物を引き上げてホームへ向かった。この駅はインドの中でも最も利用者が多い駅のひとつとされている。ホームの数、長さ…そして人々の数とさまざまな服装・民族衣装。チケットを買うために何度も足を運んだ駅ではあったが、ホームに入ると迫力が増したようで、大きな荷物をホームに置いて座って待っている人たちの容姿にネパール系チベット系の人たちであることを感じた。「ダージリン・メール号」は本当に「ダージリン便り」という気分になった。到着・発車ベルが「雪山讃歌」だった。
 息子は軽い興奮を帯びて言った。「インドの人口の多さと広さがわかりすぎるな」そして列車が到着すると「長いなぁ〜。どこからどこまでか車輛かわからないくらいだ」「これだけ多くの人をほぼ満席で載せて移動していくインドの鉄道!!」

 コルカタ・セアルダから向かう駅は「ニュージャイパリプール」である。到着まで3ベッド寝台席。列車の席では向いはネパール人(ネパール国籍)のご夫婦。お子さん二人がダージリンの学校の寮にいて、しばらくの間、家族で過ごすために子どもたちのもとに向かっているとのことだった。日本から来たというと「私たちは日本が大好きです。そして日本の家電も使っています。日本のサムスンは素晴らしい」??サムスン?? 日本も韓国も違わないのだろうか。1980年代後半のネパールそのものだったら「SONY」しか出てこなかったくらいテレビもオーディオもSONYだらけだったのだが。あれは韓国です…という修正もしないで、おしゃべりを続けた。とてもいい人たちだった。
 3段ベッドの寝台座席。彼らの上のベッドに寝ることになっている女性はネパール系インド人、コルカタ市内の銀行に勤めていて休暇で実家に帰るとのことだ。(後で息子に「銀行に勤めているんだって」と言ったら「軽そうでそんな仕事をしているようには見えない娘だね」私服とはいえ派手目のピンク系ファッションだったからだろう。「銀行って言ったっていろいろな仕事があるからね。日本だってそうじゃないの?」)
 そして私たちの上のベッドですでに寝転んでいた背が高い、ネパール系にもチベット系にも見える若い男性…彼とは話しはしなかった。彼は別の席にいる友達と一緒に就寝時間までいたからだ。ベッドにあがるとすぐに寝ていたようだった。

 インドとはいえ、寝台車は寒かった。若いころに寝台列車乗ったときと同じ体感だった。外の景色は椰子が揺れる向こうに白い白い月の光。いつの間にか夜が明けていた。白い霧の向こうに水田・水牛、列車から捨てられたペットボトルを回収する男をときどき見かける、時代の流れで拾われているものは異なるし、拾っているのは子どもというわけでなく、いろいろな年齢だったが。
 「…うん、私はインドにいるな」

 少し大きめの駅に到着した。駅のロータリーから、タクシーやオートリキシャや自転車のベルの騒々しい朝の音とともに、どこからかスピーカーで流されているパーカッション系の楽器の音がハウリングを伴って響きが顔面まで響いて迫ってきた。列車が動き出すと音は向こうに流れていき、食べ物や飲み物を売りに乗り込んできた人たち、物乞い。
 …そして、楽器を鳴らしながら民族絵画から出てきたような女装の…人がやってきた。話しにはきいていたが、初めて会った。みんなが20ルピーくらいのお札を彼(彼女)に渡し、額に触れてもらって祝福を受けていた。息子は周囲の様子を見てお札を選んでいたら、前の席の奥さんが20ルピー札を見つけて「それで十分」と合図を送ってくれた。彼(彼女)と写真が撮れたらよかったかな??撮っていいのかな??と考えてしまったが、もう隣の車輛に移動していた。息子に言った「神様のお嫁さん」列車の中できこえてくる言葉はベンガル語よりもネパール語やチベット語が多くきこえてくる中、列車の外の風景はインドそのもの、そして、どこかで聞こえるだろうと思っていたコーランはまったく聞こえてこなかった。列車は「民族」という荷物を背負った人々を乗せて進んでいった。私たちも「東アジアから来たガイジン」という荷物を背負ってもいたようだった。

 列車はたった30分の遅れで、ほぼ予定通りニュージャイパリプールに到着した。
 ここからは、ダージリンやシッキムなど多方面に向かうバスストップがあるシリグリという土地に行くか、このまま乗合いタクシーに乗ってダージリンに直接向かうかどちらかを選択することになる。数台並ぶ4輪駆動車からネパール系仏教徒とわかるステッカーを貼った車の運転手の相棒が「ダージリン〇〇(値段)」を叫び、一人100ルピーと言っていた車がよさそうだったので交渉に応じた。途中、小学生年齢の一人息子(インド人には珍しい)を持つ南インドのお金持ちそうな家族が一人300ルピーで交渉し、われわれ親子も一人300ルピー出したら2家族でそのままひとりを乗せずに目的地まで行くよと言われた。私は「いや、100ルピーでなければ乗らない」と言った。それはかつてチベットからネパールに抜けた後、私と夫でタクシーを全額払ったがいいが、ただでヒッチするように乗り込んできた人たちのスポンサーのようになった上、狭かった経験からだった。
 結局、男性ふたりとご夫婦1組がさらに乗ってくることとなり出発した。シリグリでバスに乗ったほうがよかったのか、いや、しかし乗りそびれたらシリグリで一泊するかもしれないと考えると高いようには思えなかった。休憩のとき、息子が気づいた。「席変わるよ。どうも男性が女性に触れないような位置で座るようにしているみたい」
 なるほど。一人旅か夫と二人でしか行動していなかったから気づかなかった。レイプで問題になっているデリーとは違って本来の紳士的なインドがあったのだ。この4輪駆動のタクシーは、乗った人たちはすべて異なる「民族」の組み合わせが乗り合わせていたことも休憩で気づいた。

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2.ダージリン
  ---そこはインドでもチベットでもネパールでもない「観光地」---
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 4輪駆動車タクシーがどんどん坂道を上って行った。気温はどんどん下がっていった。なんでも、朝大雨が降ったのでいつもよりも寒いのだとのことだ。途中運転手の相棒が携帯電話で取得した情報であり、ダージリンから下りてきたタクシー同業者情報でもある。日本でも気候は挨拶として無難だ。こういったどうでもいいコミュニケーションが心地よく、冷えてきた体温をあたためてくれた。家々が少しずつ増えてきて、チベット仏教徒であることが一目瞭然のタルチョーと呼ばれる五色の旗がなびいている。少し風が吹いているな。

 これを見て、思い出すのはチベットではなく、ネパールだ。そして、若いころ、音楽や仏教の勉強していたダライ・ラマ法王と亡命チベット人の本拠地ヒマチャル州ダラムサラだ。もう少しチベットっぽいのだろうと想像していた。ネットや写真集や観光ガイドで見られる山々やお茶畑や小さな列車や観光地は観光写真だからだと想像していた。夫が若いころ…大体35年くらい前の写真からはインドでありながらのチベット世界があった。師匠内田るり子がフィールドワークで録音した民謡はチベット音楽そのものだった。だから、観光地でない人々の居住地はもう少しチベットを思わせる雰囲気を持っているに違いないと想像していた。民家はインドでもありチベットでもあり、ネパールでもあったが、インドでもなくチベットでもなくネパールでもなかった。そして、滞在中からダージリンエリアを抜ける橋を越えるまで、この思いだけがずっとつきまとっていた。

 そして、観光の中心地点といえそうな場所に到着した。いい場所にインフォメーションがあるなと思ったら、それはインフォメーションではなく、観光タクシーの案内所だった。彼らはネパール系民族だった。「まずホテルを決めてから話しをしたい」と言ってホテルを紹介してもらった。「セブンシーズ」という中国人経営のホテルを紹介された。彼らは私たちが中国系だと思ったのかもしれない。「チベット人のホテルがいい」というと「パレス・ホテル」を紹介してくれた。あまり良い部屋ではなかったし、高いと感じたが、女性経営者の敬語を連発する美しいラサ方言に安堵したため、ここに泊まることにした。「お部屋をご覧になってください」というような…やっと懐かしい感覚が蘇ったからだ。言葉が通じれば何かあっても大丈夫という安直な気持ちだった。その後、彼女とは一度も話しをすることなく滞在を終えたのだが。(帰国してダージリンに住んでいたことがあるチベット人の友人によると「ああ、ラサ貴族のホテル経営者は多いのよ」と言われた。)

 荷物を置いて、息子がタクシーの運転手さんと翌日の交渉をしてから近隣を歩いた。いかにも観光地のようなお土産屋さんや欧米風レストラン、カフェが並んでいて、店番をしている人たちはネパール系やカシミール系、ベンガル系、南インドからと思われる顔つきの人、ここだけで「かつてのインド」が見えてくる。そして、私たち以外の外国人の姿がたくさん。一般商店兼お土産屋さんのチベット人のおじさんと話しをした。なんでもカム地方(中国領四川省)から10年前に亡命してきた。いろいろ身の上話しもうかがった。「ここは楽しい?」「商売が良ければ楽しいさ。お金が儲かれば楽しいさ」
 その店の隣のクンガ・レストランで食事をした。女性マネージャーはチベット人だった。ブータンで15年以上暮らしていた。夫とともにここに住み着いた。チベット人のお客さんが来ると「この人、チベット語が上手よ」と言って私としゃべらせてくれた。昔と違ってチベット語を話す外国人は珍しくはなくなったようで、特に日本人は上手な人が多いらしい。息子は「インドのチベット料理」をおなかいっぱい食べた。この料理はダラムサラやラダックで食べたものとほぼ同じだった。にんにくがたっぷりで料理人がネパール人なので、「チベッタン中華料理」??の味がした。美味しかった。たくさんチベット語を話すこともできた。嬉しい到着の夜だった。
 「チベット語を話すとオカンの顔は活き活きしているな」

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3.【閑話】ダージリンの歴史
  ---トイ・トレインと紅茶畑だけでなく---
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 翌朝、ベランダで美しすぎる向こうの山々や英国時代の避暑地の痕跡がある建物を眺めた。チベット裏側のダージリンの眺めは、やっぱりインドにいるのだと感じた。
 朝食は夕べと同じレストランで食事をした。日本人男性がいた。かなりキレイな姿だった。帰路のタイ・バンコクに着くまで昔ながらのヒッピー的なバックパッカーには会うことがなかった。インド・中国でみかけた日本人旅行者は一様に「普通の人」に見えた。
 チベット人女性マネージャーの親戚・友人と思われるチベット人が次々とやってきて、チベット正月の買いだしの相談をしていた。チベット暦の正月に合わせて日本を出た私としてはワクワクする会話だった。かつてと違うのは、お正月のお飾りセットやお節セットを自家製でなく、専門に作るところから購入するのだ。日本と変わらない。

 10時になり運転手と合流した。この日周るのは、チベット仏教4宗派それぞれの寺院。
 途中、車窓からトイ・トレインの愛称で知られる小さな列車が走っている様子が見えた。これは世界遺産にも登録されている。乗客は地元の利用者と外国人観光客たちだった。「乗ってみたい?」と息子にきくと「いや別に。ここから見たほうがいい」小さな頃、息子は電車が大好きだった。成人してはじめて「乗る」のではなく「見る」ほうが好きだったのだと自分の子どものことを知った。

 ここで一旦、話しを旅行ではなく、ダージリンという土地について少し述べされていただきたい。というのは、ダージリンの歴史や文化についてある程度ご理解いただけないとこの後の話しは何がなんだからわかりにくく、つまらないひとりよがりの旅行記としてしか読めないものになってしまうはずだからだ。だから自ら話しの腰を折ることにした。

 帰国してからダージリンに行ってみたいという日本人たちから言われた。
 「ダージリンはあの列車に乗って、紅茶畑と山の風景を見に行くものだよ。あれに乗らなかったの」と呆れたかのように言われてしまった。Web サイトや旅行ガイドを見ると確かに彼らが言うとおりである。
 これらをまとめてみると、定番の観光地は、山々を見渡せる宿、グム寺院、トイ・トレイン乗車、紅茶畑、チベット難民クラフトセンターである。動植物園、ロープウエイは途中にあるためにオプション的に立ち寄る形となる。
 そして、日本語の旅行サイトで唯一「人」について記述されていたのは「ネパール人、ベンガル人、シッキム人、チベット人などの住人に加え、各国からの旅行者やインド人の避暑客も多く、異国情緒が漂っています」[西遊旅行]この記述はダージリンを旅するには必須であってほしい重要なことである。

 この多民族の「住人」と思われている人たちのほとんどが、正確に言えば「定住民・原住者」といえる人は少ない。英語以外でことばを交わすことはあまりないであろう外国人にとっては、どうでもいいことかもしれない。しかし、私にとってはとても重要なことであり、旅で学んだことが多い事実なのだ。なぜこの土地が多民族なのか、いつからどうしてなぜ多民族地域なのか、それをきちんと記述された文献資料が少なすぎる上、孫引きされた個人旅行者の記述はさらに不正確極まりないものになっている。一般のかたがたには正しくイメージされていないのではないだろうか。このとき会った日本人観光客から持っていた『地球の歩き方---インド篇』を見せていただくと、広大なインドを分厚い1冊としているので、ほとんど何も書かれていないに等しい内容だった。

◆ダージリンの地名の由来と意味
 ダージリンとはチベット語のドルジェ=金剛、リン=界、つまり、曼荼羅などでおなじみの金剛界を意味する。また金剛とはダイヤモンドでもある。しばしばブータンの「ドゥク」=と混同されて「雷電の町」と誤訳されている。そこから孫引きされたものも多い。ここがチベット語の地名ということは、すなわち原住者はチベット系民族であった、あるいは統治者がチベット系民族であったということをも意味する。チベット系レプチャ族が原住として点在していたとされている。レプチャ族は話している言葉はチベット語の方言といえるが文字を持つ。風習や宗教は大きな括りとしての「チベット諸族」ではあるが、強いアイデンティティ。誇り高い。チベット人として一緒にされたくなかったようだ。

◆ダージリンの歴史
 政治と宗教の両側から見る必要がある。チベット史もしくは宗教史から見るとも国境線が存在しない曖昧だった時代、つまり大きな括りとしての「チベット圏(チベット領)」だったころ、ほとんど政治的には統治されていたとは言い難い状態でありながら、宗教的にはチベット仏教の信徒であった。17世紀初旬くらいから、モンゴル帝国や清朝の大きなパトロンを持つダライ・ラマを擁するゲルク派が宗教的勢力を伸ばし、それに対抗して敗れた高僧が、ニンマ派はシッキムに、カギュ派ドゥク派はブータンに逃れ、王家としてあるいは勢力を持つ支配寺院として統治者となっていった。政治史で見ればシッキム王国となるが宗教史ではチベット寺院の荘園とみなせそうだ。1850年代ゲルク派のモンゴル人高僧がダージリンにグム寺院を建てている。1959年中国チベット侵略によって亡命したチベット仏教の高僧たちがまずはこの寺院に身を寄せたことから見てもその関係が推測できよう。

 ダージリンは「シッキム王国の一部で1849年に英国(インド)に割譲させられ現在に至った」とされている。そこへ英国の東インド会社が入り、夏の保養地となる。また英国の兵士として傭兵されていたネパール系のグルカ兵たちとその家族を戦争が終わった後、ダージリンに移住させ、茶の栽培をさせた。英国本国では茶の需要が間に合わないほど必要としていたという。20世紀初頭にはシッキム王国にもブータン王国にもネパール兵たちを押し付けるかのように英国によって移住させていったことからも伺い知れる。そして多くのネパール系民族が原住のチベット系民族の人口よりも徐々に多くなっていくのである。今でも増えている。1959年に一時的にはチベット本土から逃れたチベット人はじめチベット在住民(非チベット民族)の数が多くなったとのことだが、正確な統計は出ていない。というよりも人の流出入が激しすぎて統計など取れない地域であるのだから。ちなみにネパール人(本国)やネパール研究者が「ダージリンはグルカの領土だったがインドに取られた」という表現を取っているものも見受けられる。

 現在、英国が入る以前の原住だったレプチャ族やチベット人やその子孫はほとんどいないのではないかと言われている。ざっと見てもネパール系住民の土地という感じである。いつどこで言われたのか忘れてしまったがチベット人から面白いことをきいた。「シッキムが欲張って自分の土地だと言って欲張ってダージリンを売ったから、お陰で中国領ダージリンにならないですんだのだけど、チベットではないと言われるとちょっと考えてしまう」類似した話しはヒマチャル州やラダックなどでも聞かされている。
 さらにカシミール人たち。チベットに住んでいたラサ・カチェーたちはチベット人と同じくダライ・ラマと逃れてきて住み着いた。さらにインド・カシミール、パキスタン・カシミール、新疆ウイグル自治区のカシュガル喀什からも大勢が住み着いている。
 それでも、ダージリンはインド人憧れの避暑地・観光地で、南インドをはじめ各地から旅人から愛されている。生活の場としている人たちの隠れた想いとは別に。

 …そして、母子の旅は、勝手にひかれた「国境線」で故郷に暮らせなくなった人々が集まる魅力的でありながら悲しい土地であるダージリンをうろうろする。【続く】

 (筆者は高校講師)

[参考]コルカタにおける総選挙2014市民討論会の動画をもとに拙ブログに掲載。
「インド総選挙真っ最中☆India election 2014」
  http://ameblo.jp/amalags/entry-11842142235.html


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