母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(3)

【自由へのひろば】

母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(3)

坪野 和子


■美しい土地ダージリンで知った「国境線」の悲しさ(中編の1)

 楽しいながらも(本当は)悲しい人々とも出逢った充実した旅!!
 国際誤解?? 風評被害?? 日本で語られる姿は現地では幻想のようなものだった。

 日本から中国まわり経路からインド・コルカタで映画を見て過ごし、そしてダージリン。目的地はブータン。今回もダージリン滞在中の話を続けさせていただく。

 滞在中、新たに使い方を覚えた単語は「欲張る(欲が深い)」「欲張り」だった。類語はたくさん知っていたが、なぜか使ったことがなかった単語だ。

 ダージリンは、ひとつの場所に「国家」や「誰か」が「欲張った」ことからその(国家)利益には無関係な人たちが集まり住み、または滞在し、それらの人々があたかも共存しているような土地であった。時間(歴史)と空間(領土)と人(民族)の「境界」によって人為的に人が集まり形成されていった土地なのだ。共存を見守るかのように見える美しい山々は、人々の悲しみも希望も空気の中に吸収されることなく冬の空気のように冷たかった。避暑の季節にはそれが優しい空気に感じられようには思えなかった。山々は他人の「欲」が発端で「居る」ことになった土地ではやはり「欲」が循環しなければ生きていけないと冷たく知らしめしているかのように…。

 前回は到着当日の話で終わったが、到着して落ち着いてからすぐに出逢ったチベット難民の商店主が言った「商売が良ければ楽しいさ。お金が儲かれば楽しいさ」これがダージリンでの人との出逢いを象徴していたかのようであった。
 今回次回は出逢った人々や遠目のヒューマンウォッチを中心に述べさせていただく。

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1.ダージリン
  ---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(1)---
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 ダージリンでは人と語らいながら楽しさよりも悲しさが湧くことがしばしばだった。本人たちは楽しい日々を送っているのかもしれないが…いや送っているのだが、どうしても「故郷喪失」が漂っているのだ。観光に来ていただけの人でさえも、それを感じさせる人とも出逢った。

◎やさしいカシミール人の店主
 到着当日、インド式のチベット料理の夕食を堪能した後、数珠とカターというスカーフのような布を買いに商店街?を歩いた。翌日、観光タクシーでお寺詣りに行くことに決定したからである。数珠は日本から持っていく予定だったが、入れ忘れた。カターは祝福を意味するスカーフのような布で、お寺詣りには必携である。歩いていて、チベット人に「カターを売っているお店はどこにありますか」と訊くと、骨董美術品のお店ではないかと思えるカシミール人のお店を教えてくれた。店内はラダックの装飾品やトルコ石がたくさんついている民族衣装や美術品といっていいような仏像などが所狭しと売られていた。ここで108つ珠がついている安い数珠とカターを18枚購入した。非常に丁寧な接客だった。イスラムの異教徒がカターを売る?? 後で気づいたが、異教徒だから、無垢なカター・数珠なのだと。意外なところに伝統的なことが生きていたのだった。

 滞在最終日にも彼の店にカターを買いに行った。ブータンでリンポチェ(活仏・高僧、訳としては尊い宝・意訳的には人間国宝)との謁見を予定していたからだ。お店に入ると、店主は、ケータイで電話をしていた。ネパール語だった。ここはネパール語が共通語だとわかっていてもウルドゥ語やカシミール語で電話していたらまったく違和感がなかったのだが、不思議な違和感を持った。「ネパール語なんですね、ウルドゥ語で話しをする機会ってないんですか」「いいや、ウルドゥもカシミーリーも話すよ。我々カシミール人は、国がないようなものだからね。パキスタン・カシミール、インド・カシミール、チャイナ・カシミール。それぞれの国が『俺の土地』だって欲張るからね。カシミールはカシミールだよ」買い物を終えて入口を見ると「ラサ・カチェー同盟」の写真があった。チベット語で説明が書かれていた。「あ!! カチェー」と叫ぶまではいかない程度にお腹から声を出して言ったら、「そうカチェー同盟だ」

 ああ、彼は見た目、私と同年代!! おそらく親御さんがラサからチベット人とともに中国の侵攻から逃れてここに来たのだ。あるいは幼子の頃、手を引かれてここにたどり着いたのだろう。先祖が2-300年ラサに住み着き、人民解放軍から逃れて母国インドに戻る…しかし、「母国」というなら、カシミールがインドだと言い切れる人でなければ言いたくもないだろう。国があるようでないのは、チベットやネパールだけではなかったのだ。

 1995年、カトマンドゥでもカシミール人が(偽カシミア)ショールを売る商人が増えていたが、そのときは、治安悪化でシュリナガルなどの観光客をストップさせていた時期だった。それ以降、カシミール人はいろいろな土地に移動していくようになった。日本でも高島屋のようなデパートで日本在住パキスタン・カシミール人が実演販売を行っているところを見ることができるはずだ。インド・パキスタン・中国の領地争いは核も伴っている。国境線…のために…。

 ダージリンでは先にこの地にたどり着いた親戚を頼って居ついたり、商売のために行き来したりしているのだということがわかった。

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2.ダージリン
  ---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(2)---
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◎ダージリンでのキーパーソンズ・ネパール人夫妻
 滞在3日目の昼前に、コルカタ・セアルダ駅からニュージャイパリプール駅まで列車の中で向かいの座席だったライさん夫妻と広場で再会した。日本と韓国の区別がついていないあの人たちだ。彼らはニュージャイパリプールで、シリグリ(ダージリンやシッキムへの中継地点)にある親戚の家で一泊してからダージリンに向かうとのことで別れたが、ここでも親戚の家に泊めてもらっているとのことだった。私たちがここまでどうやって来たのか、いくらかかったのかを訊いてくれた。

 反応から私たちがボラれたようではないと思ったのか、ふたりとも頷いて「…まあ高くなかったね」と。そして、彼らは広場のネパール系の英雄(息子が独自に調査中のためどういう人物か調べていない)の銅像を見上げて「私たちのほこり」と言った。「昨日はどこへ行ったのか」というので、「お寺詣りをしました、これからチベット難民クラフトセンターへ行く予定です」と答えた。するとライさんは、おすすめスポットと歩き方を教えてくれた。ガイドブックがなくても土地勘がある人のおすすめ通りに歩けば自分が見たい・知りたい・感じたいに気付きながら旅ができると再認識した。しかも道の途中でいろいろなモノ・コトと出逢える。彼らに話しは戻すが、国籍ネパールで子どもたちがダージリンの学校の寄宿舎におり、お正月子どもとすごすためにここに来たということだが、この話しを素通りしてはいけない。

 彼らと別れて息子にその理由を話した。「ずいぶん背筋が通った人だよね、ライさんって、身体つきも話し方も」「うん、ライさんってことは、グルカ兵の子孫だね、たぶん。ちょっと怖いかもとビビったわ。ライ族はネパール東部の山岳・丘陵地帯のシナ・チベット系モンゴロイド民族で英国が入ってからは軍人カーストみたいになっちゃったところがあるんだよね」「だろうな。すごくしっかりした感じの人だよね、見た目や態度は緩い優しそうな人たちだけど」

 ライ族に限らずグルカ兵の子孫はシッキム、ダージリン、ブータンにも多く住んでいる。あちこちに親戚がいるはずだ。しかし、ネパール東からシッキム、ダージリンがベルト地帯になっているので、もとから分布していたのかというと必ずしもそうではない、前回も触れたが、保養地ダージリンでの管理人・使用人・料理人、その他生活に必要な仕事をさせるために先住のレプチャ人などチベット系民族だけでは人が足りなかった。また茶畑での栽培の仕事、これは主要な輸出品であるため、多くの人手を必要としていた。英領インドでグルカ傭兵が軍役を終えて新しい職として家族ともどもこの地につれて来られたのだ。ネパール研究者がいうように「退役軍人が本国に帰らず」といった言い方もできるが、命がけの仕事をし、国に戻らず英国に雇われインド領に残るということは当時からネパールは自国の中での生活が厳しかったのではないかと想像する。

 話しは飛ぶが、今、東京近郊を歩いていると、10年くらい前に、どこへ行っても中国語が聞こえてくるような勢いで日本在住中国人が増えてきたときの驚きと同じくらい、ネパール人が増えていて、「インド料理店」と看板にありながらネパール人が経営する、またはネパール人が雇われている店が軒並み増えている。春に来日したブータン人の友人が「東京ってネパール人が多いですね、どこにでもいる」と言った。ネパール語がなじみ深い(第三の国語みたいなもの)ブータン人にとっては、遠い外国に来たのにここでも聞こえるといった感じだろうか。

 多くの読者のみなさまがご存じのとおり、この5年から10年、ネパール人海外出稼ぎ労働者が世界に散り、また留学生や技術研修生として海外に渡り定住をはじめている。今まで本国に仕送りをしていた人たちは安定すると家族を呼び寄せている現象がすすんでいる。私自身の周囲や日本語教育関係でも実感として話しをする機会が増えているのだ。しかし、現在のネパール本国が政情不安であり、中国化していることだけでなく、もともとかなり古い時代から自国民を養うだけの力がなかった国なのではないか、英国とのグルカ戦争以前からのことではないかと考えたくなる。グルカ兵は世界最強の戦士と呼ばれているが、ネパール本国は戦争に勝つことが少ないことからも推測できよう。

 話しをライさん夫妻に戻すが、「お正月を家族ですごす」と言った。ライ族とリンブー族は「キラントの宗教」だ。それは、まるで日本の無宗教的多宗教混淆のような宗教である。祖先崇拝・アニミズムとヒンドゥ・チベット仏教・ネワーリー仏教の混淆・融合なのだ。ああ、お正月はチベット暦でカウントするのだとはじめて知った。お子さんを連れているところでももう一度くらい会えないかと思ったが残念ながら今回はこれが最後となった。

 ライさんのお子さんたちがダージリンの学校で寮生活を送っている様子や理由を、私は当然のこととして何も聞かなかった、いや、息子からすると聞きそびれたと思われているのかもしれないが…。
 「ネパール人」にとって信用できない自分の国家は大切なものではなく、どこの国でも生活していける保障が大切なのかもしれない。そのためには「教育」。私たち日本人よりも「教育」が切実に生きるすべになっているのだろうか…。

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3.ダージリン
  ---ヒマラヤの文教地区・教育事情---
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 息子は往路で山に到着してからの「教育ローン」の路面看板の多さが気になっていたようだった。本人から聞いたわけではないが、彼が幼いころ、1990年代はじめ日本のバブルが終焉を迎える直前に、高速道路やビルの屋上に掲げられていたカードローンの看板にも匹敵する、どこまでも広告がローン、しかも住宅でも「急ぎの借入」でもなく「教育」に特化されたものばかりだったからだろう。風景は何もない森林ばかりの間に立てられているのだから、それはものすごく目についたに違いない。私ひとりなら、まぁダージリンだもんね、で終わっていただろう。で、終着点に到着近くなって「教育ローンの看板が多いなぁ」と言った。「ああ、ダージリンだもんね」と言って、説明が必要なことに気づいて説明した。

 「ダージリンはインドの文教地区なのよ。英国の避暑地だったころ、英国の人たちが自分たちの子弟のためのキリスト教系の学校を作ったのね。そして、英国人だけでなく高い教育を子どもに受けさせたい、あるいは自分から受けたいと望んだインド人や周辺諸国の人たちが、その頃はお金持ちの人たちだけど…が、こぞってダージリンの学校に子どもを入れたり、自ら留学したりしていた伝統があるのよ。キリスト教系の学校はカーストを問わないので、いろんなカーストの人たちが一緒に勉強できるのも魅力だよね。

 日本でヒットしていた『スタンリーのお弁当箱』って映画もまたキリスト教系の学校が舞台だったでしょ。場所はムンバイだったけれど。あれも、あのストーリーが成り立つためには、いろんなカーストの子どもが同じ教室で勉強しているという設定が必要だからね。 

 かつてのチベットのラサ貴族はお坊さんでない一般人の教育が遅れていたので、ダージリンに大学まで行かせたから、当然英語ペラペラで中国語なんかできなかった、中国語ができないから低い教育だと一般の中国人が想像していたものとは違うんだよね。まぁ、インテリの中国人は『チベット人は英語が通じるでしょ』と知っているけれどね。あ、そうそう、ダライ・ラマ法王猊下の弟もダージリンの学校を出ている。ダラムサラの邸宅ではモーツァルトのCDかアナログ・レコードの音がよく聞こえてきたわね。

 そして、中国がチベットに侵攻してから、亡命チベット人で優秀な若者はダージリンの教育学部で勉強しているの。彼ら・彼女らが教師として育って今度はチベット難民の子どものために教育をする側になっているの。これも日本でヒットした映画『きっとうまくいく』で、これもダージリンではなかったけれど、ラダックのチベット系(チベット難民と原住のチベット系民族ラダック人・ザンスカール人)の子どもの学校の校長になっていたでしょ、彼みたいな人が…まああの話は天才だったけど、そこまででなくっても、そうやって自分たちで学校と教育を作っていっていくのに、ダージリンの教育は役に立っているんだよね。チベット本土からもダージリンで勉強したくて亡命する人もいるのよね。

 ネパールでは、映画でダージリンの女子大生が主人公になることがあったり、ダージリン・ロケでチベット衣装を着て、または制服を着て歌ったり、踊ったりするシーンが出てきたりするくらいでしょ。ネパール系インド人が多くて親戚も住んでいて、本国より充実しているから、人気があるのね。やはりカーストがらみだけど。

 ブータン人も当然、ダージリンの学校に入れていたのよね。最近は王立大学が最終学歴という人たちも増えてきたけれど、国の政治のトップになる人たちは、まずダージリンの学校で勉強して、アメリカや英国の大学や大学院というのが多かったんだよね。

 こうやって国境を越えてインドで勉強する子ども・若者はダージリンだけでなく、マイソール(カルナータカ州・南インド)、デリーにもいるね。ここは入試で勝った人ややりたい専門によるけどね。最近はITやアートでプネ(東&南インドのシリコンバレー/日本語教育も盛ん[インドのオックスフォードと呼ばれている])が人気だけど、それでもヒマラヤ地域の人々は中等教育はまずダージリン、大学はそれからっていうのが多いかな」

 滞在3日目にチベット難民クラフトセンターに徒歩で向かっている途中、大きめのハイスクール(中学・高校)の前を通った。なかなかお洒落な制服の男子高校生たち。さまざまな時間に出逢ったような気がする。単位制のようだ。息子を産む前、25年前、インドにいるチベット難民やチベット本土(難民たちから伝わる)の若者が「ダージリン・ファッション」と称して、制服の襟の折り方を真似ていたのを思い出した。

 そして生徒たちはほとんどネパール系に見えた・聞こえた(ネパール語会話)。しかし、15:30頃だというのに、校門の向こうから、教頭臭のする…いや、日本だったらこのタイプの先生は教頭だろうと思われる…インド系の先生とやはりインド系と思われる教務主任タイプの先生ともう一人、男性ばかり3人が出てきた。15:30!!  15:30!! 日本の学校ではありえない光景だった!! 帰国して勤務校の同僚に話すと…「やだぁ〜なにそれ、ウチの教頭は毎日19:00帰り、私たちも持ち帰りの仕事をしないようにと、やっていると、明るいうちに学校を出るなんて数日しかないじゃない!! 部活も進路のための補習も生活指導も事務的な仕事も抱えたらそんな時間に帰れるはずがないじゃないのよぉぉぉ☆」私自身もそのシーンを見て「こんな時間に帰るなぁぁ」と言った…息子は film maker 魂?が湧いたらしく、「オカン、それ叫んで!! 撮るから。笑いがあるドキュメンタリーにしたいからね」どんな作品にするつもりだろう?? まあ演技みたいだけど、take1!!

 チベット難民クラフトセンターの帰り、女子寮の前を通った。若い男の子がその前でスマホを持ってじっと立っていた。見た目高校生くらいだが、カレッジ(短大もしくは専門学校コース)の女子寮なので、彼も高専か大学の学生なのだろう。姉妹を待っている様子ではないのは態度から明らかだ。親元離れて生活している子ども・若者たちは普通の(世界標準の)恋をしているのだろう…親が決めてとんでもない持参金を払った後の相手ではなく。小学校の同級生がすでに婚約者などという世界ではなく。親たちはこういう姿も織り込み済みでダージリンの学校に行かせているのだろうな。いろいろな意味で簡単に大学に行けるようになってしまった日本よりも幸せだろうとは思った。彼の姿や気配がなくなる地点まで足が進んだところでお腹がすいてきた。日も暮れてきた。

 …母子の旅は、ダージリンは勝手にひかれた「国境線」で故郷に暮らせなくなった人々が集まる魅力的でありながら悲しい土地であることを、なんでもない話からさらに認識するのだった。【続く】

 (筆者は高校・時間教師)


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