母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(5)

【旅と人と】

母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(5)

坪野 和子


■美しい土地ダージリンで知った「国境線」の悲しさと「仕事」「年齢」(中編の3)

 楽しいながらも(本当は)悲しい人々とも出逢った充実した旅!!
 国際誤解?? 風評被害?? 日本で語られる姿は現地では幻想のようなものだった。
 日本から中国まわり経路からインド・コルカタで映画を見て過ごし、そしてダージリン。目的地はブータン。

 前回は、曖昧な国境線の土地から来たブータン人少年僧との出逢い、ネパール系インド人従業員と歌って踊って楽しんだひととき、そして、南インドから社員旅行に来た男性たちとのロープウェイでの会話から民族交差について考えさせられた「インドNOW」の空気をお伝えした。
 今回は、日本人旅行者と話しているうちに思い出したチベットの智慧とチベット学の先駆者の墓、そして観光地「チベット難民ハンドクラフトセンター」での出逢い。私たち親子が「ダージリンで出逢った最強の爺ちゃん!!」と評した83歳の男性から学んだのは「仕事」「年齢」。

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1.ダージリン 日本人旅行者たちと
  ---出逢った人々からチベットの諺を思い出す---
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 滞在3日目。タクシーを使わずに「チベット難民クラフトセンター」方面に徒歩で出かけることにした。遅めの朝食のため、2日目の朝食も「クンガ・レストラン」に入った。日本人旅行者が数人食事を取っていた。一人は前の日の朝に会って、もう一人お仲間が増えて男性ふたりの弥次喜多がはじまった様子だった。もう一人は二度目のインドで、不安がなにも感じられなかったので「二度目でしょ」と当てた。それにしても、インドと中国で出逢う日本人旅行者は不思議だ。

 ひと目見て、はじめて・二度目・リピーターの区別が簡単につくからだ。ついでに、リピーターは2種類に分けられる。現地に溶け込んでいてすでにアジア系インド人または日系中国人??や元留学生になっている。もうひとタイプは常に旅人で、いつも自分の常識と格闘しながら旅そのものを楽しんでいる。彼らは明日コルカタに向かうのだが、私たちが泊まった宿を紹介し、私たちがベンガル人たちにすすめてもらったように「ビクトリア・メモリーズ」をもすすめた。「二人だとなんでもシェアできるからいいよね」と言った。一人旅だと高くつく。ホテルは大抵ツインだから汚いドミトリーに泊まるより安くなる場合もあるし、食事も分けられる。荷物の見張りも交代でできるし、信頼し合えば旅で出逢った仲間と移動するのは旅の負担が軽減される。私自身、若い頃、ひとり旅で出かけた1986年前後だが、当時の移動は、現地のだれかが一緒だった。

 デリーからブッダガヤまでの列車はチベット人のご夫婦(一夫二妻)と一緒だったし、デリーからカトマンドゥに向かうときは、その土地のお坊さんと一緒にバスに乗ったし、カトマンドゥ郊外のボダナートからチベットの国境までは住んでいたアパートのご近所さんと一緒にバスに乗ったし、チベットでは同じ宿の家族に朝起こしてもらうところからずっとトラックで一緒だったし、ラサから東南チベットまでは難民チベット人の女の子と一緒だった…ああ、一緒に行く「道連れ」を常に作っていた…と思い出した。

 「新しい道連れ(相棒)を得たら、トルコ石・水晶・翡翠・琥珀・真珠を持ったと同じ」というチベットの諺の意味をはじめて実感としてわかったような気がした。
 尚、これらの石はチベット人が装飾品として身に着け、旅の途中物々交換の貨幣がわりにしたり、それぞれ鉱物性の薬となるので体調が悪いときに処方したりするために使える。

 知識や教養というのは、ただ知っているだけでは役に立たないが、経験を重ねてはじめて役に立つものになるのだと思った。若い頃、ただやみくもに増やしていっただけの知識から少しずつ熟成されていくのだろうと思った。この日本人たちとの出逢いはもしかしたら、この後出逢う最強の爺ちゃんとの出逢いの予告のようなものだったのではないか。

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2.ダージリン「チベット難民クラフトセンター」まで
  ---出逢った墓・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(4)---
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 息子と山道を歩いて「チベット難民クラフトセンター」を目指した。しかしすぐに連れがいるというのはいいものだと言った自分の発言を撤回したくなった。若い男の子と私では歩行速度が違いすぎる。そして、私は道々で人々の姿や民家の玄関の仏の絵などをうろちょろと見ていたりしていたものだから、さっさと先に進まれてしまっていた。日が暮れると危険なのはどこの国にいても同じことだからまっすぐ進むのは正しいとは言えよう。

 だが、この景色は私が歩いたネパールの村を思い出させるし、時代の流れもプロパンガスを運んでいる様子などから知れるので(1980年代当時は灯油のミニストーブ)好奇心の赴くままにゆっくり歩いていたのが苛立たしかったようだ。動植物園の下の道で、かなり先に歩かれていたのにもかかわらず、私の琴線に触れる文字を目にした「ケレス・ド・チョーマの墓」…と。え?? 目を疑った…なぜならケレス・ド・チョーマはラダックで暮らしていたはずだ。なぜダージリンに墓があるのだろう。あるのなら、絶対墓参りしなくては。
 墓のほうに進むと、墓そして記念碑があった。「ケレス・ド・チョーマはラダックからチベットに向かう途中疫病にかかり、ダージリンで1842年に命果てた。」とあった。そうか、ダージリンで亡くなったのか、墓参りできるなんて思いがけないことだった。私が感激にひたっていたら、息子が後戻りしてくれて記念撮影をしてくれた。

*)ケレス・ド・チョーマとは、世界最初のチベット語辞典を編纂したハンガリー人の言語学者。チベット学の先駆者。河口慧海は彼の伝記を読みチベット行きを決意したと言われている。日本ではチョーマ菩薩(菩提道を極めた人)と呼ばれることがある。帰国して調べてみると山口瑞鳳先生の「チベット」に「ダージリンで死去」と触れられていた。先人の著書は穴があるほど読むべきだ。古い時代の研究は間違いも多いが尊敬の念を持って読むべきだと反省した。

 同じ墓地に入っている英国時代の西洋人たちの墓を見る。ああ、ここにずっと住んでいたいと思っていないのに、ここで果てた人たちが大勢いたんだ!! この人たちは美しい山々に囲まれた地で満足してご臨終となられたのか、母国に帰りたかったのか…。

 英国時代の避暑地ということで、西洋系の住民もいるのかと想像していたが、歩いた場所が悪かったのかそういう人にお目にかかったことはなかった。やはり。

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3.ダージリン「チベット難民クラフトセンター」にて
  ---出逢った人々・ここは誰にとっても「終の棲家」ではない(5)---
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 そして「チベット難民クラフトセンター」へ向かって歩いて行った。息子のペースに合わせて。案の定、丘の上にあった。途中お茶畑が続いたが、夕方になりかけていたので、農作業風景には出くわさなかった。ホテル近くのレストランで「センターなら好きなだけチベット語が話せるわよ」と言われていたので、何も考えずに入っていた。かつて勉強していたヒマチャル州のダラムサラ(ダライ・ラマ法王のお寺と亡命政府がある)、ネパールの難民センター、デリーのチベット人居住区などと雰囲気は変わらなかったが、おそらく定住してもっとも長い歴史を経ているのだろう、なんだか安定感があった。

 町中よりも生活の場としての落ち着きがあった。そして、チベット語で話しかけると何も不思議そうな態度でなくチベット語で話してくれた。中のカーペットやタペストリーの作業所に入ると、もう就業時間がそろそろ終わるというのに、ごく普通に作業していた。日本だと終わり近くなると、なんとなく「終わりますよぉ〜、早く帰ってね」というような空気を読まざるを得ないところがある。…終わりまできっかりやるような構えだった。チベット語で「この毛はどこから来たの」「ラダック」「これは何を使って染めたの?」「石を顔料にして」

 ペアで仕事している人たちに対しては「ご夫婦?」「はい」「親子」「いいえ、仕事のパートナー」…など聞きまくっていた。息子がビデオ回しっぱなしで。息子の名前がチベット語に由来しているという話しをしたら、おばちゃんたちが「あらぁ、ウチの子も同じ名前の子がいるわよぉ」と言って突然「息子さんイケメン」「本当、イケメン」「韓流スターみたい!!!」えっ?? 韓流スター?? ダージリンでもおばちゃんは韓流スターが好きなのか!! メディアの発達で世界が繋がっちゃっているんだぁ!! (母親としてはかなり嬉しかったけど)
 さらに驚いたのは、奥で修理専門に作業していた爺ちゃん!!

 言葉が通じる外国人が来たぞと言わんばかりにチベット語でがんがんまくしたててきた。歯が丈夫なようで、一言一言がしっかりしていた。お年寄り特有の話し方ではない。

 「爺ちゃんはね、ダライ・ラマ法王とともにカム地方から亡命してきた。最古参の難民だよ。ずっとここで苦労してきたんだ。センターができるまでみんなが作るカーペットの機械を作ったり、壊れたところを少ない物資で直したり、ずっとずっとやってきたんだ。センターができたら、毎日忙しいんだよ。織り機の修理だろ、ピンの修理だろ、上(二階)でも(作業を)やっているけど、すごい喧噪、なにか壊れればうるさく言ってくるし、修理が気に入らなければ文句を言うし、すぐ壊すし、ここに来てオレは休んだことは一度もないんだ。病気ひとつできやしないよ。ここはオレがいないと成り立たないんだ!!」
 …凄い勢いで、自分の仕事を誇らしげに弾丸のごとくしゃべってくれた。

 「爺ちゃん何歳ですか?」「オレは83歳だよ」
 息子が「ええウチの婆ちゃんと1歳違いかよ!! 元気すぎる!!」
 「で、いつまで現役で続けるのですか」
 「いつまでかなんてわかるもんか。ここはオレがいないと成り立たないんだ!!」

 今回の旅で出逢った最強の爺ちゃん!!
 帰り道では親子で爺ちゃんについて考えたことを語り合った。
 「すげぇ爺ちゃん。引退するって考えていないんだね」
 「そうだよね。お寺でマニ車(大きな経典が入った回し車)の番をしていたおばあちゃんは76歳だけど、彼女も何十年もあそこに座って仕事していたでしょ。定年なんていう線引きは存在しないんだよね」
 「爺ちゃん、後継者を作る気もなかった」
 「そうだね、自分が倒れたら困るから後継者を作るっていう発想もないし、だれかを育てているヒマなく仕事をしていたから余計なのかもしれないわね」
 「爺ちゃんの孫って跡を継ぐ気がないのかな?」
 「わからないねぇ。お孫さんがインドにいるのかアメリカとか海外に出ちゃっているのか、そういうことを聞けばよかったね。すごい勢いでしゃべっていたからお孫さんに跡をつがせる気がないとは思った」
 「そうだね」

 定年という線引きが存在しない世界。そして時給で仕事しているのではないので就業時間はきっかり働いて残業も持ち帰ることもなく忘れてゆっくり休む世界。
そういえば、近くの松戸駅前にある常に行列ができるたい焼き屋さん。私が子どもの頃からあった。つまり40年はここでたい焼きだけを焼き続けているのだ。
そういえば、昔の日本の農村、やっぱり定年がない。3ちゃん農業時代もあったくらい老人が当たり前に働いていた。

 今、インドで見た世界はかつての交通の便が悪かった頃の日本の姿となんら変わらない。町にある商店はすべて専門店で、分業していた。八百屋さん、魚屋さん、瀬戸物屋さん、洋服屋さん、自転車屋さん…「屋さん」はみんな商品知識や技術を持っていた。村にはコンビニと変わらない商店があって、そこでなんでも売っていて、お客が、入ろうが入るまいが、なんとなく店を開けていた。一日の売り上げなんて考えたことはないだろう。

 職人さんたちは外でプレゼンをして売り込みをしなくても受注があり「無口な職人さん」、爺ちゃんみたいなタイプ「仕事をアツく語ったら止まらないオヤジ」。
 50代の私は一部を知ってはいるが団地で育ったため、海外に出るまでそんな日本の姿を想像すらできず、「日本では」と語っていたのは、日本ではなく東京や都市部近郊でしかなかった。これも年齢を重ねてから知ってきたことが多い。20代半ばの息子は体験としてかつての日本の雰囲気を知らないはずだが、誰もが画一的に「使われる」人間になっている日本と比較しながら、いろいろと考察していたようだった。

 「チベット難民クラフトセンター」ではお土産や展示コーナーにも行った。
 そこでは、在日チベット人をよく知る人たちばかりで、だれだれさんは元気かね、ネットでは元気そうだったけど…などと話しをして、1959年にみんなチベットから出てきて、多くの人たちが海外やインドの別の土地に出て行って、それでもここに残っているんだという話しもした。息子はお気に入りの「トゥンパプンシー(調和の心を持つ4匹) the four friends」という象の上に猿、その上にウサギ、そして鳥が載っている図のタペストリーを買った。もともとの伝説はもっとも年老いた者を上に載せていたわりあう」という長幼の序を表したものだ。図だけみるとブレーメンの音楽隊のような図だ。そして、この図はみんなで協力し合えば、いろいろなチカラとなり希望がかなうというさまざまな伝説や物語をも持っている。あまりにここを訪れた記念にふさわしい自分へのお土産だった。

 ここの人たちは、爺ちゃんも含めて彼らは、ここが終の棲家ではないと心から思っている。いつかダライ・ラマ法王とともにチベットに帰るつもりでいるからだ。
 爺ちゃんがチベットに帰ったら引退してマニ車回して座っているのかな??
 まさか…帰ってもきっと毎日絨毯工場で折り機の修理をしているだろうな。
 チベットの浦島太郎になっても爺ちゃんは爺ちゃんだから。

 もう少しだけダージリンの話しを続けさせてください。次回は、地元民と化したネパール人たちとのやりとり、字数に余裕があれば観光案内もいたします。

 (筆者は公立高校・日本語教師)


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