氷が溶けてゆく北極 ― メリットよりはるかに大きなリスク

■海外論調短評(59)  初岡 昌一郎

氷が溶けてゆく北極―メリットよりはるかに大きなリスク

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 ロンドンの『エコノミスト』6月12日号が、巻央の特別報告で「溶けてゆく
北極」を取り上げ、また巻頭の社説でもこの問題を論じている。長文の報告なの
で、その中からいくつかの重要と思われる側面を紹介する。

 筆者のジェームス・アスティルは、2011年より同誌のエネルギー・環境担
当エディター。以前、彼は同誌の国際安全保障担当エディターとして、インドに
常駐して南アジアをカバーし、アフガニスタンやパキスタンについての特集記事
を書いてきた。優れた署名記事によってこれまでいくつかの国際的な賞を受けて
おり、現代イギリスの代表的ジャーナリストの一人。

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 地球全体より2倍の速度で温暖化する北極
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 北極圏における氷原の大規模な溶解は貴重な鉱物資源やシーレーンへのアクセ
スをもたらすが、重大な危険も包含している。

 1970年代以降、海氷は10年間に12%後退し、昨年の夏には、1960
年代の約半分になってしまった。1950年代以後、地球の大気温度は平均0.
7度上昇したが、グリーランドでは1.5度も温暖になった。北極の温暖化が他
の地域の2倍の速度で進んでいるのには、特別の理由が重なっている。

 雪や氷が解けると、濁った水たまりができる。その結果、太陽熱がより大きく
吸収される。これが局地的な温暖化を招き、氷の溶解が促進される循環が生まれ
る。このままだと、今世紀末を待つまでもなく、少なくとも夏季には北極の氷が
消滅するようになる。

 北極圏は世界でもっとも探検、開発されていない巨大な場所の一つであり、最
後に残された未開地である。その海や川について知られているところは少ない。
 シベリアのエニセイ、レナの両河は、いずれもミシシッピやナイルよりも多く
の水を海に運んでいる。世界最大の島、グリーンランドはドイツの6倍の面積で
あるが、居住者はわずか57,000人で、そのほとんどはイヌイット(原住民)
である。

 北極圏全体の人口は400万人にすぎず、その約半分がムルマンスクやマガダ
のどの旧ソ連時代の侘しい都市に住んでいる。残りは、アラスカ北部、カナダ北
部、北極圏シベリア各地、スカンジナビア北部に居住している。

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 消滅するイグルー(原住民イヌイットの氷と雪による円形の家)
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 海原の氷が薄くなり、イヌイットの猟師は犬橇を使えなくなりつつある。もは
や、伝統的なイグルーに住む家族はいなくなった。氷の溶解が激しいからだ。

 北極にだけ存在する動生物の種に絶滅の危機が訪れつつある。反面、これまで
いなかった種類の鳥、魚、動物が北に向かって進出している。鰹、鱈、ハドック
なども北極海で網にかかりだした。

 船の出す汚水、鉱物資源開発や石油流失の危険が現実化しているのに、北極は
環境汚染に無防備である。伝統的な原住民の生活様式も西欧化によって輸入品に
よるプラスティックなどの不燃ごみを排出するようになっているが、ごみ収集・
処理のシステムはない。

 もっとも真剣に懸念されなければならないのは気候変動自体である。北極の氷
塊が溶けるインパクトは、地球に多重的累積的な影響をもたらす。暖流と寒流の
バランスを崩し、海流を攪乱する。永久凍土の解凍が大量の二酸化炭素を排出し、
温暖化をさらに促進する。

 2009年と10年に、ヨーロッパとアメリカは記録的に最も寒い冬を経験し
た。これは地球温暖化が逆転したからではなく、気候体系が複雑化したためであ
る。北極温暖化が熱帯と両極間の温度差を不安定化させている。これにより、北
半球全体の気象パターンが影響を受けている。

 グリーンランドの氷原は10年前よりも10倍の速度で溶けてなくなっている。
北極の氷がすべて解けると、海水のレベルが7メートル上昇する。世界の大都市
のほとんどは沿岸部にあるので、壊滅的影響を受ける。北極の環境問題は世界自
体の温暖化阻止にかかっている。

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 北極圏の富をめぐる地政学 ― 紛争か、協調か
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 2007年8月、ロシアの潜航艇が北極点水面下4キロにチタニューム製のロ
シア国旗を埋め込んだ。このニュースは世界にショックを与えた。「北極海はこ
れまでもロシアのものだ」という主張も現れた。

 2010年、NATOのアメリカ人高官は、「今のところ北極での紛争は平和
的に処理されているが、気候変動が平衡を乱す恐れがある」と警告した。ロシア
のNATO大使も同様な憂慮を表明した。北極海地下には大量の石油や鉱物資源
が眠っていると想定されている。

 現在はデンマークの準自治領であるグリーンランドは、北極圏開発によって豊
かになり、独立に向かう可能性がある。それは、デンマークにとってだけではな
く、そこに軍事基地を置くアメリカにとって戦略的な影響を及ぼすことになる。

 ロシア、カナダ、北欧諸国の間で領海域境界について不一致があり、これが資
源争奪紛争を呼ぶとの懸念があるが、リスクは誇張されている嫌いがある。デン
マークの想定によれば、北極圏天然資源の95%は合意された境界内にあり、境界
紛争の主なものはアメリカとカナダの間にある。

 異様とも見えるこの協調ぶりには理由がある。まず、ロシア、アメリカ、カナ
ダ、デンマーク、ノルウエーの5か国はいずれも資源に恵まれており、持たざる
国の間での争いではない。一例をあげれば、バレンツ海の領海線にロシアとノル
ウエーが昨年合意し、10年以上にわたる紛争に終止符を打った。

 北極海協力のもう1つの理由は、開発と運営のコストが高いことである。北極
海協議会が捜査・救援活動に関し拘束力のある協定に昨年調印したのには、この
理由が背後にある。競合する石油会社も協調して化学的調査と探査を行い、正規
の合弁企業を模索している。協調の第3の理由は、アウトサイダーが域内の問題
に介入するのを阻止したいという、関係国の共通した願いである。

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 長年の夢 ― 北極海航路が現実に
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 昨年8月、ロシアのタンカー「ウラジミール・チーホノフ」16.2万トンが、
バレンツ海のムルマンスク港から北極を抜けてベーリング海峡に7日間で達した
ことは、北極点下のロシア国旗掲揚にはるかに勝る大ニュースであった。この船
は濃縮ガスを積んで目的地タイに通常のスエズ航路より約1週間早く到着した。
総航行距離は40%短縮された。その航海には4年間の計画を要している。航海
には2隻の砕氷船が同行したが、記録的な薄氷の年で、砕氷はほとんど必要なか
った。今年も同様な航海が予定されている。

 近年、北極海海運は大幅に増加している。2009年には約6000隻が通過
したと見積もられている。大半は、水深の浅いトローラー漁船や鉱物資源輸送の
平底貨物船である。ロシアの公式統計によると、昨年は82万トンの貨物が輸送
されたが、今年は150万トンに達すると予測されている。アメリカの予測によ
ると、2020年には6400万トンになる。将来は北極海航路がスエズ航路の
ライバルとなるだろう。

 ロシアが北極海航路の開発に熱心なのは、中国をはじめとするアジア諸国にエ
ネルギーなどの資源を輸出するためである。ロシアはすでに10隻の砕氷船を抱
えているが、アメリカは2隻にすぎない。今は石油やガスなどの資源輸送が主体
となっているが、将来はコンテナ船も運行されるだろう。

 北極海輸送の便益は、未開発の資源探索と掘削を促進せずにおかない。グリー
ンランド政府は氷に覆われた沿岸の石油開発権入札を間もなく行うが、メジャー
の3、4社が参加するだろう。しかし、石油会社の現有砕氷能力は疑問視されて
おり、直ちに搾油に結び付くかどうかは不明である。

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 解き放たれる北極の富は気候変動のコストに見合わない
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 北極の新しい産業チャンスは一夜にしては実現されないだろうし、持て囃して
いる人たちが期待するよりも小さいことも十分ありうる。氷の層が後退しても、
北極は非常に冷たく、暗く、遠隔地で、費用が掛かり、操業困難であることに変
わりない。

 北極の石油埋蔵量は世界の10%にも達するかもしれず、北極圏経済に大きく
寄与するであろう。しかし、北極圏諸国の富裕化は暴走する北極圏温暖化のコス
トを償うものではない。北極の生物、生態系、そしてエコシステム全体が失われ
るだろう。環境保全実績の乏しいロシアは云うに及ばず、こうした環境破壊を単
独で予測、対策をとれる国はない。

 それにもかかわらず、すべての国がそれから利益を得ようとしている。これは
北極を気候変動がもたらす共有財産喪失悲劇の教科書的実例としてしまうだろう。
しかも、世界全体に対するコストは北極圏自体よりも高くなりそうだ。

 北極の氷塊は予測以上の速さで溶解し、崩壊している。これが長期にわたって
続けば、海水位が壊滅的に上昇する可能性が高くなる。これだけでも、北極圏資
源の利益を遥かに上回るコストを世界に負担させる。さらに、地球温暖化の兆候
としての北極温暖化は、それに伴う多重的なコストから切り離すことができない。

 世界銀行は、2010年から2050年までの気候変動対応費用を年間750
-1000億ドルと見積もっている。他の予測はそれよりも高い。遅かれ早かれ、
こうした計算は気候変動に各国政府が真剣に取り組むことを強いることになる。

 何が必要かはすでに明らかになっている。税制や市場システムを通じて、より
クリーンな技術を採用させ、カーボン排出にもっと適切な負担を強いることであ
る。迅速な行動によってのみ、北極温暖化の最悪の結果はまだ回避できる。


●●コメント●●


 残暑の厳しい折から、消夏的な話題を提供することを狙ったが、それどころで
はなく、南極から吹く風が我々の背筋を凍らせるようなメッセージを含んでいる
ことを伝えることになった。人間による地球破壊が取り返しのつかないところに
向けて暴走を続けていることへの警鐘は、いまやいたるところで乱打されている。

 富は関係国で分け合い、環境破壊の付けは国際社会とすべての国に回す現状は
黙過できない。環境破壊のしわ寄せは防御の資源や手段を持たない、弱小貧困国
に住む人々に破滅的影響をもたらしつつある。特に、海洋の深刻な汚染と水位上
昇は、沿岸部に居住する人々に、津波のように一過性ではない、構造的な危険を
もたらすと既に繰り返し警告されている。しかし、この警告が各国政府よって、
また世界の多くの人々によって、真剣に受け止められているとは言えない。

 グローバリゼーションが声高に叫ばれる時代において、資源ナショナリズムが
大手を振ってまかり通るのを最早ゆるすべきではない。たまたま、人為的に設定
された国境内に発見されたすべての資源が、その国に独占的に帰属することが正
当と今日も見做されうるのであろうか。

 資源と環境は全人類の共通の資産として、国際的な所有と管理のもとに託す、
体制と国際法上の原則の確立が早急な課題となっている。国連は平和の確保と同
じように、社会経済問題でも責任を負っているはずである。休眠状態にある経済
社会理事会の活性化が求められている。

 北極については知識と関心が薄く、問題があるとの報道も乏しい。それだけに
本報告が新鮮な関心喚起に寄与し、世界的に必要とされる行動を刺激する契機と
なることを期待したい。
 (筆者はソシアル・アジア研究会代表)

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