江田三郎没後三十周年の回想

【自由へのひろば】

江田離党前後のあれこれ〜江田三郎没後三十周年の回想

                      仲井 富


◆荒畑寒村さんと江田さんの出会い
 「江田君か、いいね、いいねといった」

 江田三郎さん離党直前の1977年3月、荒畑寒村さんにご挨拶に行ったときの話である。晩年の寒村さんに仕え、寒村会の事務局をやっていた桜井俊紀氏から話を聞いた。桜井氏は当時、新泉社、マルジュ社などという出版社の敏腕の編集者で、『反体制を生きて』や『荒畑寒村人と時代』などを刊行した。『谷中村滅亡史』も宇井純の解説で出版した。それが晩年の寒村さんの経済的支援にもつながったようだ。横浜新貨物線反対運動の宮崎省吾さんの『いま公共性を撃つ』(『新泉社刊』)も彼の手になったものである。そういう縁などから、わたしも付き合いがあった。
 かつて桜井氏から、寒村さんと江田さんの出会いや、寒村さん最晩年の恋愛相手のことなどについて聞いたことがあった。最近、桜井氏と再会する機会があり、もういちど確かめてみた。江田さんが1977年に社会党離党のときに、新産別の三戸信人さんから「離党に際しては、いままでかかわりのあった労働組合と社会主義運動の大先輩の荒畑寒村、加藤勘十のところには挨拶に行くべきだ」という強い助言があった。わたしは忘れていたが、桜井氏によると「そのときに仲井さんからどうだろうかと相談があって、寒村さんに訊いてみたところ、江田君か、いいね、いいねと言った」というのである。それで、なるほどとうなずけることがあった。

 江田さんは、およそ人にお世辞をいうなどということが苦手な人だった。まして離党するといっても、労組に対してはともかく、いままで疎遠にしていた寒村さんのところに挨拶に行くというようなことは、わざとらしくて嫌だというのだった。それを周辺の今泉清君や毎日新聞の中村啓三記者などが「そんなこと言っても、大先輩のところに挨拶に行くのは当たり前だ」などとこれまた強引に説得したのである。あのころ新聞記者には江田さんの離党・決起を応援するファンがけっこう居て、中村記者などは最後に「社民連の一員としてお願いします。ぜひ寒村さんのところに行ってください」と頭を下げて江田さんに頼み込んだというエピソードもあった。ともかく中村記者と今泉、仲井三人はうまがあった。
 1977年3月18日のことである。江田さんは体調も悪かったが不機嫌そのもので、新橋駅前からタクシーに乗り込んだ。今泉君と私が同行した。はじめに目黒にある寒村さんのマンションを訪ねた。そこには寒村会の元読売の渡辺文太郎、元社会党で書店経営の大浜亮一さんなどが控えていた。寒村さんは江田さんに対して開口一番こういわれた。「江田君、ぼくは社会党のなかで君が一番好きだ。すくなくとも君は社会主義を新しくすることを考えている。そのことを考えているのは社会党のなかで君しかいない」といわれた。とたんに、あれほど嫌がっていた江田さんがニコニコ顔になった。桜井氏の「寒村さんは江田さんが訪ねてくるということを事前に知って喜んだ。江田さんのことを寒村さんは好きだったらしい」」という話と符節が合うのである。

 寒村さんは次いで、江田さん一人の離党には賛成しがたい。もっと大きく社会党を分けるような勝負をしたらどうか、といわれた。寒村さんは、このときのことを雑誌の対談でも次のように述べておられる。「君に離党の覚悟まであるなら、その前に党内で勝敗を度外視して、なりふりかまわず大暴れして、とけしかけたんです」(『諸君』1977年11月号 丸谷才一氏との対談「社会党分裂すべし」)。寒村さんは同じ対談のなかで「江田君が死んだとき、公明党の矢野書記長だったか、戦士が出陣する間際に討ち死にしたようなものだと書いた。實にその通りでね。江田君のために泣く理由はなかったんだけれども、その記事を読んだときは泣かされましたね」といっておられる。
 5月24日、江田さんの葬儀は港区の一乗寺という小さなお寺で行われた。青山斎場などでの派手な葬式はごめんだというのが、常々本人がいってきたことで、その遺志に従ったわけである。寒村さんは大浜亮一さんに身を支えられて参列された。鼻をすすりあげて一言「江田君は壮烈な戦死だよ」と淋しそうにいわれた。わたしは寒村さんの腕を支えて大浜さんの車まで送った。当時89歳の寒村さんの腕は枯木のようだった。

◆加藤勘十さん
 「君が決断したら応援するよ」

 寒村さんのところを辞去して、同じ目黒区に住む、もう一人の大先輩、加藤勘十さんのマンションを訪ねた。三月にしては汗ばむような陽気のなかを江田さんと今泉君とわたしの三人で探し歩いたがなかなか見つからない。するとしびれを切らしたように江田さんが「おれはとにかく小便がしたい」と言い出した。「もうちょっと我慢してください」といっているうちに、江田さんは、とある家の軒先の空き地で小便をはじめていた。今泉君と二人で顔を見合わせて、「人に見られたらまずいなあ」といったがあとの祭りである。江田さんという人は、そういう子供のようなやんちゃでせっかちなところがあった。
 加藤勘十さんは「離党は慎重に」というご意見だったが、「江田君が決断したら応援するよ」と最後にいわれた。86歳の加藤さんは戦後の芦田連立内閣のときの労働大臣で、戦前は鉱夫組合を率いて数々の炭鉱労働争議の先頭に立ち「火の玉勘十」という綽名がつくくらいはげしい人だったという。いまは戦前の社会主義運動文献の整理をして一冊の本にまとめるとのことで、かくしゃくとしていらっしゃった。

 わたしは加藤勘十さんとは1955年に統一社会党の本部にはじめて入ったときからの因縁があった。当時は社会党青年部の事務局長という立場だったが、本部内の書記局配置では、軍事基地委員会に配属された。そこで55年以降の砂川闘争をはじめとする軍事基地反対闘争に参加することになった。そのときの軍事基地委員会の委員長が加藤さんだった。火の玉勘十といわれた往年の面影はなく、まことに朴訥温厚な紳士という感じだった。しかし、いざ演壇に立つとがらりと調子が変わり、さすがに往年の火の玉を思わせる闘志がうかがわれた。副委員長が吉田法晴さんで事務局長が西村力弥さん、そして次長が只松祐治さんだった。これらの人の下でわたしは書記として働いたわけである。
 いまでも覚えているが、55年の年末に、加藤さんから呼ばれて、1000円の小遣いを頂いたことがある。後で気付いたことだが、当時落選中だった加藤さんは手元不如意だったはずで、そういうなかから、ぽっと出の22歳の青二才に気をつかっていただいたことをいまでもありがたく忘れない。加藤さんは翌1978年9月、江田さんの後を追うように87歳の生涯を閉じられた。

◆三戸信人さんの寒村さん辞世の句の話
 「雲の峰 雷雨ともならで 崩れけり」

 寒村さんは江田さんと会ってから4年後の1981年3月6日、93歳で亡くなられた。没後に三戸信人さんが「荒畑寒村さんのご冥福を」という一文を書いておられる。「入院を前にして、寒村さんは五十枚の色紙を書いて各々の人に贈った。その色紙というのは、五年前の米寿の折に、歴史家・信夫清三郎氏から寄せられた『孤高とはかくの如きか雲の峰』に応えたもので、まず、“自嘲の心境を込めて”と前置きして『雲の峰 雷雨ともならで 崩れけり』と書いた。まことに荒畑寒村翁を語って、余すところがない」(『社民連』一九八一年四月一日号)「雲の峰雷雨ともならで崩れけり」をどう読むか、人それぞれであろう。わたしは自嘲の心境ともに寒村さんの深い悲しみを想う。それは同時に同じ夢を描いて生涯を生き死んでいった、あるいはいまだ生を得ている人々の想いでもあろうか。かつて「死なばわがむくろをつつめ戦いの塵にそみたる赤旗をもて」と書かれたが、その赤旗さえ労組から消えつつある。魂魄あらばその胸中や如何、と想う。
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 ところで寒村さんとの出会いをはじめとして、江田さん離党の際に、数々の貴重な助言をいただいたのは新産別の三戸信人さんである。後年、初岡昌一郎さんが一席を設けて三戸さんや清水慎三さんとお会いする機会が何度かあった。
 ところが十年前くらいから愕然とすることが起きた。江田離党に関して、三戸さんの助言や、寒村さん辞世の句などの話は何回か人にも話をし、ときには書き残していた。ところがあるとき、三戸さんに「あのとき三戸さんが寒村さんに会いに行けといわれましたね」などというと、「いやそんなこといった覚えはない」と言下に否定された。わたしはあわてて「寒村さんの辞世の句も三戸さんから聞きましたけど」というと「いやそんなこといったことはない」と否定される。いささか参った。本人が否定する話を、いかにも真実らしく話しするのは気が引けるし、信憑性の問題が出てくる。わたしが困ったなと思っているとき、偶然、社民連の機関紙に三戸さん自らが書かれた文章を見つけた。それが上記の「荒畑寒村さんのご冥福を」の記事である。ほっとしたというか、救われた思いであった。
 江田三郎没後三十周年にあたって刊行された『政治家の人間力』(明石書店刊)にも、三戸さんと最後にお会いしたのは04年12月10日の加藤宣幸さんが主催する「戦後期社会党史研究会」の席上である。忘年会もかねたその会で、水戸さんに「社会党がだめになった原因は」と問うた。「外国の党の代弁者になり下がったことだ」といわれた。これはまことに含蓄のある言葉だと思った。日本の社会党をはじめとする左翼が、最終的にダメになった根幹をついていると思う。

 ある一定の年齢になると、人も自分も、記憶のある部分が欠落するものだという、冷厳な事実を自覚しなければならない。三戸さんにしても、その後の会議では、戦前の高津正道の選挙運動の話や、戦後の2・1ストの話などは、回りくどいが、かなり正確に記憶しておられる。数十年前の記憶は鮮明だが、二十数年前のことになるとまったく記憶にないということが起きる。わたし自身にもそういう兆候がある。
 今年の夏、所用で四国に行った。わたしの四国遍路はいま4回目の途中だが、すでに4回行ったことのある今治市に下車した。ところが市内にある数ヶ所の札所の名前をすべて忘れていることに気付いた。すっぽりと記憶が欠落したのである。あわてて本を取り出して、延命寺、南光坊、泰山寺、永福寺、仙遊寺、国分寺と頭のなかに入力したのである。やはり肝心なことはちゃんと記憶のあるうちに記録しておかなければならない、と思うのである。
 寒村さんの辞世の色紙を、ひょっとして三戸さんのお宅にあるかも知れないと思い電話してみた。奥様が電話口で「寒村さんのほかの色紙はありますが、ご所望の色紙はございません」ということだった。

 (筆者は公害問題研究会代表)


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