【エッセー】

江田三郎没後40年の感懐― 老いるとは未知との出会い ―(2)

仲井 富


◆江田三郎は叙勲を断り園遊会に出席せず

 私はわが師江田三郎に17歳から44歳までの27年間師事した。だが、没後40年を経て、知っているようで知らなかった江田さんの一面を、84歳まで生きて知ったことが多々ある。江田さんが戦後の岡山県議の時、有名なブリ事件で県議を辞めて信任を問い、落選して浪人したことや、あるいは宮中の招宴に一切出なかったことなどについても知ることができた。なにしろ過去を語らない、後ろを振り向かないで前へ前へと進むのが好きだった。獄中時代の話や弾圧された話など、よく戦前からの県議などから聞かされていたが、江田さんからはそういう話を聞いたことがない。そんな暇があれば前を見て先のことを考えろという人だった。

 江田さんが亡くなってから2年後に『江田三郎 そのロマンと追想』(江田三郎刊行会発刊)が出版されたが、私の気づかなかった側面を知友、旧友などが語っている。そのなかに知られざる江田三郎の真骨頂を発見した。神戸高等商業で同期の西川英三氏(幸商事株式会社社長)の「江田三郎君が貫いた社会主義」という一文がある。そのなかで西川氏は次のように述べている。

 ――往年は左派のプリンスだった彼が、構造改革論争をバネに現実路線を追究して「ソフトな江田」になったが、しかしその彼が頑強に守っていた社会主義者の一線がある。江田がふと漏らしたのは、僕が藍綬褒章を貰って二重橋を渡った感懐を彼に話した時「それだけは俺は頑固に守っているんだ。宮中に招かれたり、赤坂離宮の園遊会にも順番が廻ってくる。社会党でも喜んで出席する人達がいるが、俺はそれだけはいつも辞退している」と農民運動以来、社会主義者としてのこの一線だけは筋を通していることをなんのテライもなしにもらしたものだ。「オイ! 総理主宰の新宿御苑の観桜会にも、社会党さん、奥さん同伴でホクホクきていたよ」と彼に話したときも、彼はフフンと鼻で笑っていた。――

 叙勲を辞退し、葬儀も青山斎場のような派手な場所を避けて、普通のお寺だったことはよく知られている。江田は右翼社民と、口を極めてののしった左派の国会議員たちが唯々諾々と勲一等を授賞し、盛大に授賞記念パーティを開いたのは周知のことだ。なかでも最左翼、ソ連派の向坂協会とレーニン勲章を受章した岩井総評元事務局長にもっとも忠実な議員は岩垂数寄男氏だった。彼は、自社さ政権の中で環境庁長官となり勲一等の叙勲に浴した。その弁解ぶりが当時の社会党書記局のなかで話題を呼んだ。

 曰く「俺は貰いたくなかったが支持者が貰え貰えというもんで」と、わざわざ書記局の連中にまで電話してきて弁解したという。岩垂氏のみならず、毛沢東万歳の中国派議員も、ソ連派の議員も同じである。当時の社会党で江田攻撃の最先端にいた左派議員たちのほとんどが、「おれは貰いたくなかったが、支持者がもらえというのでね」と同様の言い訳をしていた。私が江田さんを終生、わが師として尊敬するところは、その出処進退の潔さと、権威に対して膝を屈しない自由闊達な精神にある。

 政治家では宮沢喜一元首相が叙勲を辞退した。そのときこういった。「オレが政治家になったのは、地位や名誉、カネや権力のためじゃない。純粋に日本のため、国家・国民のためだ」と。戦後の財界人や文化人にも「役人に位階勲等を付けられるのは嫌だ」と一流人士の多くが叙勲を辞退している。今や政界には右も左もそういう誇り高き人士はいなくなった。

◆社会党閣僚で唯一叙勲を断った伊藤茂さんのこと

 自社さ政権やその前の細川連立政権での閣僚経験者は、ほとんどが岩垂議員と大同小異の理屈をつけて勲一等の叙勲にあずかった。野坂浩賢建設大臣のごときは、市民団体の「もっと議論を」の声を無視して1995年5月に長良川河口堰の運用を宣言。当時は産経新聞を除くすべてのマスコミが「世紀の愚行」と批判した。長良川河口堰建設をやめさせる市民会議の天野礼子は「野坂は党と自分への建設業界からの金と票に目がくらんで運用を宣言した」と著書のなかで述べている(『巨大な愚行』風媒社/刊)。しかも野坂氏は勲一等を貰うと自ら胸像を鳥取市内に建てるということまでやってのけた。

 しかし、社会党出身の閣僚経験者で唯一叙勲を断った人がいた。細川連立政権で運輸大臣を務めた伊藤茂さんである。私は数年前、三宅坂の社会党本部が解体されるということになったころ、社会党関係者のOBの集まりで直接、伊藤さんに話を聞いて確かめた。伊藤さんは言った。「社会党がこんなザマになって勲章を貰うなんてできないですよ」。あの惨憺たる、細川連立政権から自社さ政権に至る1993年から95年に亘る社会党の崩壊消滅の過程はなんだったのか。究極のところは護憲の党は、改憲の党自民党を政権に復帰させる役割を果たしただけであった。伊藤さんはそれを「恥」として認識していた、ただ一人の閣僚経験者だった。性格的には寛容で時には物足りなさを感じることもあったが、彼の一言に敬意を表したくなった。

 私は伊藤さんに、私のブログ「老人はゆく」か「メールマガジン・オルタ」に唯一叙勲を断った閣僚として書きたいと了承を得ていた。しかし伊藤さんは昨年の9月病没された。約束を果たす前に亡くなったのである。当時の新聞には、「衆院議員を8期務め、細川連立政権の運輸相や社民党幹事長を歴任した伊藤茂(いとう・しげる)氏が11日、病気のため死去した。88歳。山形県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行った」とあった。

 私は1955年9月に当時の港区桜川町の左派社会党青年部の専従事務局長となった。しかし翌月には左右社会党統一で三宅坂の旧社会党本部に勤務することになった。伊藤さんは当時すでに党本部の政策審議会の書記などを経て、1960年代にソ連の核実験に対する評価をめぐって日本の原水禁運動が分裂した際の、党国民運動事務局長だった。東北の山形県出身で、温厚な人柄で知られた。同じころ総評の国民運動担当の書記だったのが岩垂数寄男氏である。相前後して神奈川県で代議士となったが、それぞれ細川、村山政権で閣僚を務めた。
 伊藤さんは陸軍士官学校卒業後に終戦を迎えた。東大経済学部を卒業後、旧社会党本部書記局に入り、1976年に旧神奈川1区から衆院議員に初当選。政審会長、副委員長を経て、93年に政権交代した細川連立内閣の運輸相を務めた。総評出身の最左派岩垂氏は勲一等叙勲を弁解しつつ71歳で亡くなった。伊藤さんは88歳までの長寿を全うされた。

◆勲章を断った西宮弘さん キリスト者としての反核闘争

 西宮弘さんは60年安保の時代に、当時の宮城県副知事から社会党の知事候補になって落選、その後、社会党代議士として活躍されていた。わたしは特に親しいというほどではなかったが、ときおり党の会合などで同席し、いつもにこやかな風貌で温厚な紳士というイメージだった。後でクリスチャンと聞いてなるほどと納得した。その後、わたしは1970年に社会党本部を辞めて公害問題研究会をつくり、本格的に全国の住民運動の世界に没頭していた。

 西宮さんは5期務めた議員をやめ、79年からは左派主導の社会党も離党して、地元仙台で平和人権の市民活動を続けていると聞いた。たまたま雑誌『世界』1986年3月号によって、その活動ぶりを知った。「声を励まして語りつづける~核兵器廃絶のために『エディターズインタビュ―』」という世界編集長安江良介氏との対談記事だった。当時すでに80歳だった西宮さんの言葉に恐れ入った。「仙台市の中央アーケード街の入口で、夏も冬も毎日一時間半、辻説法で反核平和を訴えています。いま80歳ですが、お年なのに大変ですね、と同情する方もけっこういるが、私は昔からほんとの年寄りは80歳からとい言ってきた。これからが人生の働き時です」。

 1980年代の初めに、まだ50歳そこそこの若造だった私は、仙台市内で偶然、西宮さんと会う機会があった。全く元気そのもので意気高らかだった。ちょうど今の私と同じ年齢である。80代半ばにしてすごい人だなと感嘆した。その後2003年に97歳で亡くなられたと聞いた。80歳から酷寒の冬も、炎暑の夏も、連日街頭に立ち続けて反核平和を説きつづけた大先輩のことを詳しく知りたくなった。東京にお住いの娘の中塚慶子さんと連絡が取れて、西宮さんの生前の話を聞いた。そのときいただいたのが『声に学ぶ―平和運動にふれあいを求めて』(西宮弘/著、谷沢書店/刊)という本だった。この本には前述の『世界』の対談も収録され、それに対する全国の方々からの賛意や意見が寄せられている。

◆勅使ご到着叙勲という事大主義に吐き気

 それを読ませていただいて気づいた。社会党内では穏健な右派と思われていた西宮さんが、強烈な天皇制と勲章の批判者であったことだ。安江氏との対談で「社会党は従来から貰わないことに決まっていた。現在は全くケジメがない。私は権力主義、事大主義は大嫌いだから、お断りしました。役人が人間の値打ちを十九階級に格づけして、褒めてつかわすなんていうのは失礼千万ですよ。第一、議員は一定の年限に達すると機械的にくれる。政治家に優先的にというのはけしからん。貰う社会党議員もおかしいですね」。
 また別のところで「私は社会党を去りましたが、初心に帰っての健全な発展を願っています。勲章の例だけを見ても、ある先輩のお葬式に参列したら、式の途中で『只今勅使がご到着になりました』などとアナウンスされた時は、急に嘔吐を催しそうになりました」と語っていらっしゃる。

 わたしは、様々な人の叙勲についての賛否を聞いたり読んだりしたが、西宮さんほど明確かつ公然と叙勲反対の意見を述べた人を知らない。1963年、戦前の叙勲制度を復活した池田政権の時代に、社会党は叙勲反対を打ち出した。それがいつのまにか空文化して、70年代以降、かつての左派の闘将が続々勲一等を受賞し、なおかつお祝いのパーティまで開くに至った。社会党は「健全な発展」どころか、村山自社さ連立政権で、党是の自衛隊違憲、安保反対を放棄して、ついに消滅した。私は仙台に行くたびに、仙台駅前の通りを歩き、80歳から97歳まで仙台市駅前のアーケード街で一人マイクを握り続けた戦闘的クリスチャンに敬慕の念を捧げる。

画像の説明
  (西宮弘さん 仙台市アーケード街)

 (オルタ編集委員)

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