■【追悼】

河上先生の思い出                    堀内 慎一郎

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 日頃から大変お世話になっている加藤宣幸さんから、「河上先生に一番世話に
なった君が追悼文を書け」という命を受けたのは、銀座教会で行われた河上民雄
先生の前夜式でのことでした。

 後に述べさせていただきますが、私は、約9年前、大学院修士課程在籍中に、
河上先生の御宅にお伺いしてから、1、2ヶ月に1度という頻度で先生にお会い
いただき、さまざまな貴重なお話を伺ってまいりました。数年前からは丈太郎先
生からの父子2代に渡る関連資料の整理もお任せいただき、また、先生が外出を
される際には何度か随行の任を賜っておりました。

 河上先生と私との間には以上のような経緯があったわけですが、しかし、河上
先生と長きに渡って道を同じくされてきた大先輩の皆様を差し置いて、私のよう
な者が追悼文などを書いてよい訳がありません。一度はお断りしようとも思いま
したが、真っ先にお声を掛けていただいた加藤さんに対し、それも大変失礼なこ
とではないかと思い直し、では私に何ができるのかを自問いたしました。

 結論として、ご家族の皆様を除けば、恐らく(このような言葉は使いたくあり
ませんが)晩年の河上先生に最も頻繁にお会いした一人として、徐々にご体調を
崩されながらも、先生が最後まで充実した、実に先生らしい日々を送られていた
ことを皆様にご報告すること、このことが私の務めではないか、と思うに至りま
した。

 したがいまして、以下、「追悼文」ということではなしに、私の河上先生との
9年間の思い出を皆様にご報告させていただく、ということで、どうかご容赦を
いただきたいと思います。
 
■【河上先生との出会い】

 河上先生に初めてお会いしたのは、先生の著書『社会党の外交』にサインして
いただいた日付を見ますと、2003年11月5日のことであり、当時、目黒稲
門会の副会長をされていた中沢さんという方から紹介され、お手紙を差し上げた
のがきっかけだったと記憶しています。

 内容は今思い出しても、冷や汗の出る、若さに任せた内容だったのですが、む
しろそれが良かったのか、ご自宅での面会を許され、私にとって河上先生はまさ
に雲の上の人でしたが、以降、定期的に先生のご自宅にお伺いし、丈太郎先生時
代からの日労系を中心とした戦前無産政党、社会党の話、あるいは国際政治など、
様々な事柄についてレクチャーをしていただくようになりました。

 さらに、修士課程卒業後の就職先が、偶然にも、丈太郎先生によって設立され
た河上美村法律事務所(現・美村法律事務所)が、当時より顧問弁護士を務める
企業であったことなど、不思議なご縁が重なりまして、ダンボール詰めの状態で
あった丈太郎先生の関連資料、そして河上先生ご自身の議員時代の資料の整理を
お任せいただいておりました。

 これらの資料について、それまで河上先生は他人に触れさせることはほとんど
なかったようですが、にもかかわらず、一介の大学院生に過ぎない私にこのよう
な大任をお任せいただいたのは、ひとつは資料の長期的保存と若い研究者に活用
してもらうための方策を検討されていたこと、もうひとつは、『社会党の外交』
執筆時、先生は、主に国際局長時代に様々な交渉を行った海外の要人への配慮か
ら、核心について曖昧な表現をされた部分がありましたが、関係者の多くが一部
の方を除いて第一線を退かれる中、ご自身の集大成として、その決定版を出され
たい、というお気持ちを持っておられたことがありました。

 しかしながら、結果として、河上先生がお元気なうちに、その整理の任を全う
できなかったことが大変申し訳なく、悔やまれてなりません。お許しいただける
ならば、関係者の皆様にご協力いただき、責任を持ってその任を果たしたいと考
えております。
 
■【河上先生随行記】

 先生が外出された際の随行の思い出といたしましては、2年ほど前、河上派出
身で衆院議員を務められた方のご葬儀があり、電車と徒歩で参列されるというこ
とで、私が随行させていただいたことがありました。

 新宿駅で先生と合流し、中央線に乗り込んだものの、あいにくと電車が混んで
おり、やっと空いた席に先生をご案内したのですが、席を譲ってくださった方や
私に、「あなたたちに悪い」となかなか座っていただけず、座っていただくのに
苦労いたしました。しばらくして、電車が郊外に進むにつれて空席が出始め、先
生の隣が空きますと、「私のような後期高齢者が乗ってきたら譲ればいいのだか
ら、とりあえず座りなさい」と、私を立たせていたことが相当に気になっておら
れたようでした。

 お父上の丈太郎先生も混んでいる電車の中で、書記や秘書が席を確保しても、
頑として座ろうとされなかったそうですが、私も当時の書記や秘書の皆様と同様、
そのような先生のお姿に、偉い方の姿を学ばせていただき、尊敬の念を強くする
とともに、また先生のお姿を通して丈太郎先生の存在をも感じたことを覚えてお
ります。

 また、葬儀の帰路、大変お恥ずかしい話ですが、未婚の私のことを母親が心配
し、どうやら先生に相談のお手紙を差し上げていたようで、「晩婚の方が仲のい
い夫婦が多いようだから、焦る必要はない」などと励ましていただき、本当に顔
から火が出る思いをいたしました。一方、「あなたは私の最後の私設秘書だね」
と望外のお言葉も頂戴し、大変感動いたしまして、先生には内緒ですが、政策秘
書など政治関係の仕事をしている友人に、自慢げに触れ回ったことを覚えており
ます。
 
■【先生へのお誓い】

 河上先生はここ数年間、確かに体調を崩されることが徐々に多くなっておられ
たのですが、それでもご自宅にお伺いいたしますと、時間を忘れて話が弾んでし
まい、先生を疲れさせてしまうことが多々ありました。

 最後にご自宅にお伺いしたのは7月28日のことで、当日は、加藤宣幸さんよ
り、いくつかの重要なミッションを与えられており、そのことに関連して、加藤
さんからの先生へのメッセージをお伝えすると、先生は感じ入られたようで、暫
く黙っておられました。私などには思いの及ばない、お2人にしか分からない部
分がおありになるのだろうと思われました。

 そして、亡くなられた9月22日は、実は本来であれば、資料整理のために先
生の留守宅にお伺いする予定だったのですが、容態が良くないとのことで前日に
キャンセルとなり、7月にお会いしたのが最後となってしまいました。

 尊敬する、そして何より本当に大好きだった河上先生。先生が天に召されて早
1ヶ月、先生のいらっしゃらない人生を生きていくことに、言いようのない寂し
さと不安を感じておりますが、先生に教えていただいたこと、先生との日々は一
生の宝物です。そして、この宝物を自分だけのものとせず、若い世代にしっかり
と伝えていくこと、このことをこの場をお借りして先生にお誓い申し上げ、日々
精進して参りたいと考えております。
 河上先生、本当にありがとうございました。
      (慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 後期博士課程)

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