河上民雄さんと私

【追悼】

河上民雄さんと私       高橋 勉

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 民雄さんと知り合ったのは、私が矢尾喜三郎代議士(滋賀県選出)の秘書にな
って2年めの1955年の夏ごろだ(「民雄さん」と呼び慣わしていたので、そう書
かせていただく)。矢尾代議士の部屋は当時の第一議員会館8号館の1階で、河上
丈太郎先生の部屋が同じ会館の9号館の2階だったから、ご尊父の部屋に行かれる
民雄さんとよくお会いした。

 そのころ民雄さんが丈太郎先生の部屋に頻繁に通われたのは、左右両派社会党
の統一に備えて設置された統一綱領委員会のメンバーだったからだ。同じ委員会
のメンバーだった右派社会党書記局の藤牧新平さんといつもいっしょで、廊下を
歩きながら真剣な表情で話し合っておられた。2人は右派社会党の論客だったか
ら、綱領委員会での議論の内容を右派社会党委員長の丈太郎先生に逐一報告に上
がられたのだろう。

 駈けだしの秘書でも、それぐらいのことは想像がつくから、もうそれだけで民
雄さんが私などの手のおよばない高みの存在に思えた。くそ生意気な文学青年で、
政治家なんて俗物の最たるものだと思っていた私が代議士の秘書になったのは、
貧乏学生で学業をつづけるのが難しくなっていたところを、郷里の矢尾代議士に
拾われたからだが、アルバイト学生の私などにも、廊下ですれ違うたびに「ご苦
労さん」と声をかけてくださる丈太郎先生や浅沼さんや三宅正一さん、三輪寿壮
さんらと接しているうちに、政治家は俗物だという私の考えが間違っていたこと
に気づいて忸怩たるものがあった。日労系の人達はみんな立派な人格者であり、
若者をねぎらう優しい心の持ち主だったのだ。

 なかでも丈太郎先生は、崇高という言葉がぴったりする大人格者で、やさしく
声をかけてくださるたびに畏れ多く思った。その丈太郎先生から命じられて、民
雄さんは統一綱領の草案作成委員になられたのだ。そんな偉才の民雄さんも、議
員会館の廊下ですれ違うたびに、にっこり笑って「お元気ですか」と声をかけて
くださった。私はもうそれだけで全身の血が頭にのぼり、体が硬直して「はい」
と答えるのが精一杯で、10歳ほど年長の民雄さんに心底畏敬の念を懐いた。

 それまで政治思想や社会主義に無関心だった私は、右派社会党の中央執行委員
だった矢尾代議士から統一綱領の草案をもらって読んでみた。草案の作成過程で
は左右両派の妥協もあっただろうが、妥協は許容範囲内のものだから、当然そこ
には崇高な丈太郎先生や畏敬する民雄さんの思想が盛り込まれている。それを読
まないで社会党代議士の秘書をつづけるのは、大きな過ちのように思えたのだ。
草案を読み始めた私は「前文」の冒頭のくだりに釘づけになった。

  19世紀以来、世界の資本主義は飛躍的な発達を示した。それは生産力の増大、
 国民生活の向上、民主主義の成長、近代文明の発展などをはなばなしく展開し
 た。しかし、資本主義は、その固有の特質である人による人の搾取、無計画な
 生産のため漸次大衆生活の不安定、周期的な恐慌、大量的な破産や、失業問題
 をひき起こした。とくに、賃金労働者は、資本主義の正面の犠牲者となった。

 こんなことを高校時代の世界史の授業で教わらなかった私は、この一文を読ん
で鮮烈な印象な印象をうけ、目から鱗が落ちたように思った。さらに統一綱領草
案は、それまで釈然としなかった共産党に対する疑問を解いてくれた。

 草案は、共産党が「プロレタリアートの前衛」であることを主張し、「革命後
の国家を支配すること」を当然として、オール・マイティの権力を行使したため
に、「共産主義は事実上民主主義をじゅうりんし、人間の個性、自由、尊厳を否
定して、民主主義による社会主義とは相容れない存在になった」と共産党の過ち
を指摘して、社会民主主義との違いを明確に示している。

 私の早大在学中には、文学部の地下に日本共産党早稲田大学細胞があって、学
生自治会の委員は共産党員か共産党のシンパだった。一般学生は彼らの呼びかけ
で、1952年の血のメーデー事件や警官隊が無抵抗な学生に襲いかかった早大事件、
東大の構内で行なわれた破防法反体全都学生集会などに参加したが、そのたびに
私は彼らの独善的で強硬なやり方に疑問を感じていた。その疑問は、統一綱領の
草案の上記の記述によって解消し、私が当時の全学連に疑問を感じたのは間違っ
ていなかったと自信をもつことができたのだった。

 統一綱領草案には、社会党が目指す国家像についてもはっきり書かれている。
社会党は「民主的、平和的手段によって現存する資本主義制度を変革し、社会主
義社会を実現し、人間の人間による搾取をなくすため、重要な生産手段を社会化
して、生産力を飛躍的に増大させ、もって大衆の生活を物質的、文化的に保障す
るとともにわれわれの究極の目標である自由、平等、その他基本的人権を保障し、
人間性を完全に解放する社会を実現する」のだという。

 そして、この平和革命の過程においても、その後においても「言論・集会・結
社・信仰・良心の自由・完全な秘密・平等・自由の選挙など、あますところなく
発揚させ(略)国民の自由な批判、反対党の存在とその批判を進んで迎える」と
いうから、前衛政党として国権を握り、全体主義国家を目指す共産党とは大違い
だ。

 しかも「この平和革命が達成される根本的条件は、わが党が日常不断に活発な
る大衆の利益を擁護し伸長するための運動や闘争を発展させることによって広く
勤労大衆を味方にし、国民世論の支持をうることにある」として、単なる議会主
義に堕してはならない」と強調し、政治家によって国の政治が壟断されてはなら
ないと戒めている。

 これこそが民雄さんや藤牧新平さんの思想であり、草案を起草した伊藤好道さ
んの考えでもあるのだ。それまで政治音痴だった私は、いっぺんに社会党の大フ
ァンになってしまった。

 その年(1955年)の10月、左右社会党は統一し、11月には自由党と日本民主党
が合同して自由民主党が結成され、いわゆる“55年体制”がスタートした。それ
を機に私は社会党に入党し、一本化された社会党衆議院秘書団の執行委員になり、
小選挙区反対、新教育委員会法反対、立川基地拡張反対など院内外の闘争に、積
極的に参加した。そのために私は、デモを嫌う右派の先輩秘書から「左派に身売
りしたのか」と批判されたが、私は怯まなかった。

 そうした行動が評価されたのか、1958年の警察官職務執行法改正案反対闘争の
ときには、私は秘書団の書記長に選出され、院内の廊下で社会党秘書団を指揮し
て、スクラムを組んで向かってくる屈強な自民党院外団に対抗した。

 衆議院を自然休会に追い込み、警職法を審議未了にできたのは、社会党が統一
した成果だった。だが、昭和電工事件に連座していた西尾末広氏の無罪が1958年
11月に確定し、同氏が反党的な活動を活発に行なうようになると、党内で西尾批
判が急速に高まり、党分裂の危機が日増しに高まった。

 社会党の分裂は自民党と共産党を利するだけだから、絶対に避けなければなら
ないと考えていた河上派の苦悩は深まり、事態は深刻さを増していった。そして
遂に1959年9月の党大会と10月の延会大会で、西尾氏を統制委員会に付託する決
議案が可決され、西尾派の国会議員が集団脱党して社会党は分裂した。

 河上派を苦しめたのは、オール右派結束を呼びかける西尾派の誘いに呼応して、
河上派からも脱党者が出たことだ。いわゆる“五月雨脱党”で、櫛の歯がこぼれ
るように国会議員が数人ずつぼろぼろと脱党していった。河上派の脱党者は国会
議員25人(衆院23人、参院2人)のほか、前国会議員、地方同議員、活動家など
多数にのぼった。

 私はこの激動の半年間の経過を克明に記録していた。連日のように世話人会が
行なわれていたが、議員の進退に関わる会議だったから、すべて秘密会議だ。わ
れながらよく記録したものだと思う。私のメモ帳は20冊ほどにもなった。

 それから20年ほどもたってから、このメモ帳が民雄さんの知るところとなり、
貴重な記録だからぜひ書物にまとめるようにと勧められた。だが、生来ものぐさ
な私は雑事にかまけて作業が進まず、やっと全体をまとめあげたのは1996年のこ
とである。「資料・社会党河上派の記録」という表題をつけた完成原稿を持参し
て、民雄さんに「解題」の寄稿をお願いすると、民雄さんは即座に快諾してくだ
さった。

 民雄さんに書いていただいた「髙橋勉メモに寄せて──民社分裂と河上派の苦
悩」は、戦前の無産運動から説き起こした社会党小史ともいうべきもので、1960
年安保闘争の直前の時期、換言すれば戦後政治史の分岐点ともいうべき時期の政
治情勢が活写されている。そのことで、ただ事実だけを客観的に忠実になぞった
私の記録が、どれだけ重量感のある生き生きしたものになったことか。

 そのうえ民雄さんは、私の記録が政治史や現代史の研究者にとって第一次資料
になると褒めてくださった。畏敬する民雄さんからこんな褒め言葉をいただいて、
私が恐縮したのはいうまでもない。民雄さんの長文の「解題」を巻頭に載せた
「資料・社会党河上派の記録」は、1996年12月、三一書房から出版された。A5版
3段組531ページの大冊である。民雄さんの勧めで完成させることができたこの著
作を、私は誇りに思っている。

 (筆者は大津市在住・作家)
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