【コラム】
『論語』のわき道(11)

泥湯温泉

竹本 泰則


 温泉といえば単純温泉、塩化物泉、硫黄泉などにはなじみがあるが、このほかにもさまざまな種類があって、現在地球上で十二種類ほどが確認されているという。大分県の別府温泉はそのうちの十の泉種が揃っているとアピールしている。さらに源泉の数、湧出量はともに日本一だという。入浴の形態をみても単にお湯につかるだけではなく、上から流れ落ちる湯に打たれる滝湯、岩盤浴とサウナが合わさったような蒸し湯、温かい砂を全身にかぶせる砂湯などバラエティーに富む。
 リタイア前の短い期間ではあったが、本社・工場を大分に構える会社を担当した余得で、幾つか毛色の変わった温泉を楽しむことができた。しかし泥湯は未体験のままに終わっていたので何となく心残りだった。何年か前になるが法事で九州に下った折、日にちをとって別府に泊まり、この温泉を訪ねた。

 目覚めると同時に脳裏には「予定通りに動けるか?」という自問が浮かぶ。前の晩にかつての仲間と飲んだ酒の宿酔が気になった。
 早い時間だったので、朝食までの時間はたっぷり余裕がある。食欲で判断しよう、多少でも食べられるようであれば予定通りに動くことにする、そう決めてベッドを出た。
 朝食は食べ物の種類と量が選べるようにとバイキング会場を選んだ。入るや否や、いささかオーバーないい方ながら度肝を抜かれた。ここはいずこ・・・?
 場内のざわめきを含めて、全体の雰囲気が何か異質なのだ。その理由は考える間をとらずとも分かった。顔かたちを一見しただけではわからないが、そこにいるほとんどの人たちは東アジア系の「外国人」なのだ。別府の宿には何度か宿泊しており、海外の観光客と一緒になることも多かった。しかしホテルを借り切られたかのような光景は初めてである。お盆の休暇にかかる週にわざわざ観光する日本人は少ないという条件が重なったせいもあろう。
 只一人で座ったテーブルの隣りあう卓は、聞こえる言葉から推してどちらも韓国からの家族連れのようだ。別にうるさいわけでもないが、何かしら気になる。

 泥湯を目指して駅から乗ったバスの乗客もほとんどが外国人だった。こちらは見た目でわかる欧米系の人たちで少人数グループやカップルである。人数も少ないし大人ばかりであったせいだろう、騒々しさはない。彼らは「海(うみ)地獄」、「坊主(ぼうず)地獄」に最寄りのバス停で降りてしまい、車内はガラガラの状態となった。因みに別府でいう地獄とは地下から温泉の湯、蒸気などが絶えず湧き出ているところであり、先の二つの他にも「鬼山(おにやま)」、「龍巻(たつまき)」「血の池」などといった幾つかの地獄がある。

 目的の泥湯がある施設は、さらにしばらく山道を登った先にあった。バス停のすぐ前から敷地が広がっている。駐車場を備えた前庭は広く、建物も車寄せなどを構えそれなりの大きさだが、年月を経た感じは隠せない。少なくとも朝のホテルで見たような外国人観光客の団体が押し掛けそうな雰囲気ではない。

 手書きの館内見取り図ではわかりにくかったが、泥湯の浴槽は建物の地下にあった。古色蒼然とした風情である。浴槽内の木の手すりをたよりに奥へ進む。足に伝わるのは底の敷石の感触だけで泥の中を行くという感覚ではない。想像と違って、泥(鉱泥)はいくらでもあるというものではなく、年数の経過でその量が減っていくのかも知れない。身を沈めて底を撫でてみるときめの細かい泥に触れた。すくい上げて握ると湯と一緒にこぼれ落ちていく。いかにさらさらしていようと泥は泥、顔などに塗るなどという気は起きなかった。

 地下から上がって庭に出ると、そこは全くの別世界であった。陽の光がまぶしい。二つの風呂があって、どちらも周りは自然石で囲ってしつらえられており、きれいな乳白色の湯をたたえている。夏の晴れ上がった青空、緑濃い山、立ちのぼる温泉蒸気・・・、目に障るものは何一つとしてない。
 早速に大きい方の風呂に入る。中まで突き出した形で簡単な小屋掛けがあり、それに続く木の柵が湯面を二分していた。柵には「立入禁止」の札が打ちつけられ、それより向こうには行けないようになっている。一人の先客が入っていたが、それも気にならない十分な広さだ。縁石にすがりながら歩を進める。牛乳の中に入っているようなもので足元が全く見えない。奥に進んでも、足底に泥の感触はあまり感じない。「泥で落書きをしないで」と書いた札が小屋の壁に貼っているが、美観の問題だけではなく鉱泥量維持の目的があってのことかもしれない。

 燦々たる陽光の下、贅沢な気分で湯にひたっていると視界に人の横顔がはいってきた。柵の向こう側を顔から上だけが動いてゆく。頭にはタオルを巻いている。女性だ。中年の域にはまだ間のありそうな年頃に見える。そうか! 「立入禁止」の柵は男女の境を示すもので、この風呂は混浴なのだ。
 あらぬ方に顔を向けて気を使ったつもりだったが、女性はいつの間にか見えなくなっていた。もう一つの風呂にも入ってみる。少し奥まった場所にあるだけなのだが、こちらは泥が深く沈澱していた。田圃を歩くのはこんな感じかと思った。顔にこそ塗らなかったが腕などには白い泥を塗ってみる。粒の感触はなく、クリームに近い感じであった。

 時期的に相客が少なかったことも幸いして、いい気分で宿願を果たし終えることができた。
 予め確かめておいた時刻表の時間に合わせてバスを待つ間、若いカップルが出てきた。男性の問いかけに女性は「面白かった」と弾んだ声で応えているのが聞こえた。

 孔子は温泉に入ったことがあるだろうか、と考えた。
 中国の古典に対する知識も浅く、孔子が生きた時代の生活様式などについては知らないことが多い。『論語』などを思い返してみても温泉の話題は浮かんでこない。普段常用している辞書を見ても温泉という熟語は載っていない。ひょっとすると古代の中国には人間が利用するような温泉そのものが無かったのかも知れない。

 「ものは試し」とインターネットであれこれ検索をしてみた。
 あった。今から三千年以上も前、中国に周王朝が誕生するが、その都の近くに温泉が湧き出す場所があるのだ。十二代目の幽王(ゆうおう)はこの場所に驪宮(りきゅう)という宮殿までを建てている。この王さまが在位した時期は孔子が生まれる二百年以上前、そして温泉は今に続いている(華清池:かせいち)。したがって孔子の時代に温泉があったことは確かだ。

 華清池の温泉は、周の後も歴代の王朝の皇帝が利用しているが、中でも華を極めたのは唐の玄宗皇帝の時代のようである。玄宗はこの地に離宮(華清宮)を造営し、秋から春にかけて寵姫・楊貴妃と一緒に過ごしていた。彼女のために豪華な浴槽まで造らせたという。
 白楽天の「長恨歌」には、この温泉が登場する。かの詩の中でも最も艶っぽい場面である。

  春寒くして浴を賜う 華清の池
  温泉 水滑らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う
  侍児(じご)扶(たす)け起こせば 嬌(きょう)として力無し
  始めてこれ新たに恩沢を承くるの時

 この手の文章は面映ゆさもあって自ら訳す勇気はない。石川忠久という大家の訳文に頼ろう。

 ――春はまだ寒く、(玄宗皇帝は楊貴妃に)華清宮の温泉に湯あみするよう特別にお命じになった。
 温泉の水は滑らかで、白くむっちりした肌にそそぎかかる。
 湯から上がって、侍女が抱きかかえて起こそうとすると、なよなよと力ない風情である。
 これこそ楊貴妃が初めて皇帝の寵愛を受けたばかりのことであった。

 『論語』を学んでいるサークルの先輩がこの段にまつわる思い出話を教室で披露したことがある。
 「漢文の教科書を手にしたとき、しみじみ中学生(旧制)になったことを実感した。だが、授業でこの箇所の解説を聞いたとき、こんなことを中学生に教えていいのかとびっくりした」というものだった。詩句も諳んじていた。良き時代の勤勉な学生の姿が浮かぶ。

 それはさておき、ここには「温泉」という語がある。
 素人が探し当てることができた温泉は僅かに一つだけ。そこは孔子が住む場所から遠い。大雑把にいえば、我家(調布市)から広島くらいまでの距離であり、しかも宮殿の中である。もちろんここ以外に温泉は存在しなかったとは言えないが、古代の漢民族が生活をしていた黄河流域は火山も少なく、温泉はほかにあったとしてもごく限られた数だったはずだ。孔子が温泉を楽しんだ可能性はほとんど無さそうな気がする。

 『論語』には温泉という語はもとより、「泉」という字が出てこない。一方、「温」はよく知られた「温故知新」という成句で現れるほかに四つの章の中に見える。それらは主に人柄を形容するのに使われている。その一つ。

  子は温にして厲(はげ)し

 ここの温は温厚、温和などというように、人柄・性格などがあたたかい、おだやかであるといった意味のようである。一方、厲(れい)はもともと砥石(といし)をいうそうで、そこから派生して砥ぐ、激しい、厳粛であるといった意味になると辞書にある。一緒にいるとき相手をゆったりとくつろがせるような持ち味が温、思わず姿勢をたださせ緊張を強いるような人柄が厲といったところか。

 ともかく「温」と「厲」とは明らかに相反する性質ではないか。現に、この文章で漢字を字義通りに日本語に置き換えて「先生(孔子)は温かく厳粛である」と訳しても、意は伝わり難い(実はこの訳は辞書にあるものだが…)。ひねくれた解釈をすれば孔子さまは二重人格者か、ということになる。まさかそうではあるまいと、少し頭をひねってみる。
 表面はおだやかだが、芯は強くてはげしいということか。あるいは大概の事柄にはおだやかな姿勢で臨むが、重大な案件、いい加減に済ますことができないような問題には、はげしさ、きびしさをもって処するということか。おおむねそのような文意だろう。

 周りにはおだやかな人がたくさんいる。また、いずまいを正したくなるようなはげしい人も珍しくはない。しかし大抵はどちらかに偏る。おだやかな人はあくまでおだやか。人当たりはいいのだが、自分なりのしっかりした見識がなく頼りない面があったりする。一方のはげしい人は、見識がしっかりしていてぶれないのはいいが、凝り固まってしまって話にも何もならないという手合いがいたりする。孔子はおだやかさとはげしさ・きびしさとを的確に両立させていたということなのだろう。

 子夏(しか)という弟子の次の言葉も直接名指しをしていないが、孔子を評したものと解されている。

  君子に三変有り。これを望めば厳然たり
  これに即(つ)けば温なり その言を聴けば厲し

 我流で文意を追うと、「君子(孔子)に接すれば三つの違った面がみられる。遠目には堂々としていて厳めしい感じがする、しかし近くで接すればおだやかである。そして言うことはきっぱりとしており、筋違いなことには手厳しい」といったところだろうか。

 孔子がおだやかさときびしさを併せ持った人であったろうことは『論語』からもうかがい知ることはできる。しかし孔子も生身の人間、その使い分けが百パーセント完璧であったはずはない。現に特定の弟子に対しては、さほどの過ちとも思えないのに、感情的と評したくなるほどにこき下ろす場面がある。あるいは、主君に対して謀反を起こした家臣に味方しようとして弟子から諫められたりもしている。そういう人間臭さがこの賢哲に親しみを感じる所以である。

 後世、儒教(儒学)が大きく発展するのに伴って、孔子は「聖人」といわれ、神格化されていった。それには大きな抵抗を感じている。
 本来、なまみの人というのは「不完全」なものである。一人の例外もなくそうであり、いつの世においてもそうである。特定の人物を過度に美化したり、絶対視したりするような考え方は避けるべきことではないか。それはあの忌まわしい全体主義と同根のように感じるからだ。
 一方で、孔子という人は人間として完成度が高かったであろうこと、それまでを否定する気はない。

 (「随想を書く会」メンバー)
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