■【北から南から】深センから 

『中国のアフリカン その二』  佐藤 美和子

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 私の最初のアフリカンの友人は、二度目の北京語学留学時代に知り合った、ア
フリカ東部のウガンダ人です。彼とは同じ学校だったものの、私は留学2年目レ
ベルに相当する中級クラス後期班、かたや彼はまだ中国に来て1年弱の初級クラ
ス。よって、ウガンダ人の彼とは授業などでは全く接点がなく、学校行事の際に
偶然知り合いました。そして彼からはその後、とてもたくさんの事を教わりまし
た。

 彼には大勢の同母・異母兄弟がいます。助け合って生活しなければ生きていけ
ないので、母親の違う兄弟とも仲良しなのだそうです。ところがある時、小さな
弟が病気で命を落としてしまいました。お金が無かったわけではなく、村に弟の
病気を診れる医者がなかったのが原因でした。

 そこで彼は第二の弟を出すまいと将来医師になる決心をし、努力の末、首都カ
ンパラにある医科大学に合格しました。喜び勇んで入学したものの、すぐに意気
消沈することとなってしまいます。なぜなら長らく続いた独裁政治の影響で、優
秀な医師や教授は死亡したり国外に出たりしており、わずかに残った教授は一人
あたり数百人ものの学生を抱え、また実習でもほとんどの学生が実際に触れるチ
ャンスが無いほど深刻な設備器具不足で、まともに授業を受けることができなか
ったのです。しかし彼はラッキーでした。国の基幹となる医学系や工業技術系の
学生のための国費留学制度を知り、その選抜試験に見事合格したのです。

 なんとも驚いたことに、留学先国は合格者が自分で選ぶのではなく、国がアッ
トランダムに選抜試験合格者を割り当てたのだとか。留学先で新たな言語をゼロ
から学べば、医師になるのがそれだけ遅れてしまいます。英語ができる彼も当然、
アメリカやカナダ、オーストラリアなどの英語圏への留学を希望したものの、
それらの国は物価が高いので滅多に希望が叶うことはなく、彼には学費や物価が
比較的安い、中国留学が割り当てられることになりました。

 中国行きが決まった当時の彼は、中国ではナニ語が話されているのかも知らな
いほどに、中国に関する知識も情報も一切持ちあわせていませんでした。そして
中国へやって来るときは、政府がくれたのが格安中の格安チケットだったため、
ウガンダからロンドン・インド・香港を経由するチケットで、北京に到着したの
は出発して3日目の深夜のことだったそうです。

 「北京空港に降り立ったときは、深夜だったのもあって不安で不安でどうしよ
うも無かった。しかも僕らはその時、一人100米ドルずつしか現金を持っていな
かったしね。だけど意外にも、一年先輩にあたるウガンダ人留学生が空港へ迎え
にきてくれていたんだ。先輩たちが言うには、国から次年度の留学生たちが到着
する日時や便名の通知があったので迎えに来た、自分たちも訪中したばかりの頃
は前年度の先輩たちが助けてくれたお陰で今は中国語も覚え、生活に問題が無く
なった、君たちもこれから一生懸命勉強して、翌年度の後輩たちを導き助ける伝
統を繋いでいってくれ、こう言われた時、僕は始めて中国に来てよかったと思え
たんだ。これがもし英語圏だったら、元々英語ができるのだし、誰かに助けても
らって感謝の念を持つという機会はなかったかもしれないからね」

 当時、彼が中国語を学んでいたクラスは、殆どがアフリカや中南米などの、第
三諸国からの国費留学生で構成されていました。それとは対照的に、先進諸国か
らの留学生は私を含め、私費の語学留学生が大半です。我々の目的は、ただ中国
語を学ぶこと。ですが第三諸国の国費留学生にとっては中国語は単なるツールで
しかなく、彼らの目標はその先の医学なり工学なりを修得することなのです。

 彼らは国費留学生なので、2年以内、できるだけ1年で医学部進学に必要な中国
語力を身につけなければなりません。2年目も進学に足るほどの語学が習得でき
なければ、即刻奨学金は打ち切りで帰国となってしまいます。私は恥ずかしいこ
とに、元々漢字の素養がある日本人や韓国人と、その他の国の人たちとはレベル
や授業進度が違うから、アフリカ人留学生らとはクラスでの接点がないのだと思
い込んでいました。しかし実際はそうではなく、ただノンビリと中国語学習だけ
に集中していればいい我々語学留学生と、少なくとも2年以内にそれぞれの学科
に必要な専門用語まで習得しなければならない彼らとは、どだい授業の中身も真
剣さも違ったのでした。

 ウガンダの公用語は、スワヒリ語と英語です。
  しかし英語は学校で習うのではなく、ウガンダの子供たちは小学校入学前には
英語が話せるようになっているのだそうです。英語が分からなければ、ほとんど
が英語放送であるテレビ番組が見られません。そのため子供たちは街頭テレビが
ある所に通っては毎日必死で聞き取ったり年長の子供たちに教えてもらったりし
て、自力で習得してしまうのです。

 英語が流暢に話せる彼にとっては、もし留学先が中国ではなく英語圏であった
ならば、一般教養課程はすでに国内で終了しているので、直接医学部の2~3年次
に編入できていたと言います。しかし彼は医学部入学どころかまず中国語、そし
て漢字を覚えなければならなくなってしまったことに、最初はひどく落ち込んで
悪運をずいぶん呪ったそうです。どうせ医学の前に外国語を勉強しなきゃならな
いのなら、日本やフランスやドイツのような、医療先進国で勉強したかった、と。

 「けれど今は中国に派遣されたこと、イエス様にとても感謝しているんだ。今
では中国には中国医学や漢方学、鍼灸按摩とたくさんの独自の優れた医学がある
ことを知ったし、僕にはいま西洋医学のみならずその方面をも学ぶチャンスが与
えられていることに気づいているからね。漢字には少々苦労しているが、充分そ
の価値はあると思っているよ」

 ある夜のこと。食後の腹ごなしに学内を散歩していると、寮の渡り廊下でばっ
たり彼にでくわし、「昨日、北京首都空港に行ってきたのかい?」と尋ねられま
した。えっ、長期休暇でもないし、帰国する予定もないのにナゼ空港なんか行く
必要が?と問うと、だって昨日ニュースで見たよ、日本の首相が訪中しているん
だろう?空港に、日本の国旗を持って首相を迎えに行かなくていいの?と言われ
て心底仰天しました。

 彼が言うには、ウガンダのムセベニ大統領が訪中したときは、北京や北京近郊
の天津などに留学しているウガンダ人はみな旗を持って空港に駆けつけ、歓迎の
歓声を上げたのだそうです。中国に留学していなければ、僕は大統領と会って握
手してもらえるチャンスなんて無かったから幸せだと思う。彼は本当にすばらし
い政治家なんだ、僕ら国民はみんな彼のことをとても愛しているし、なんと言っ
ても自分の国の大統領なんだから、迎えに行くのは当然だろう?

 この時の衝撃は、私、一生忘れられないと思います。自分の国の首長を空港へ
出迎えに行くという行為、私には毛の先ほども思いつきませんでした。そして大
統領を愛している、間近に会うチャンスに恵まれて嬉しいと誰かに語ることがで
きる、彼の幸福について。私は死ぬまでに、誰か日本の政治家に対して、彼のよ
うにこれほど素直な敬愛感情を持つことはあるのでしょうか。

 彼に返す言葉にひどく悩んだ私は、日本人の若者は政治に興味がないからね・
・・・・としか言えませんでした。そしてその晩、彼は私の受けた衝撃を知って
か知らずか、ウガンダの歴史とキリスト教の教えについて語りだしました。政治
方面や世界情勢にうとい私は実のところ、小難しくて英単語交じりの彼の語りに
はちょっぴりウンザリした部分もありました。でも、彼がもっとも私に伝えたか
った部分が分かってくると、政治の話しは分からんからツマラン、という思いは
消えてゆきました。

 ウガンダのアミン大統領時代、彼の国が恐怖で満ち溢れていたこと。今のムセ
ベニ大統領になってからは、どれほど国の情勢が落ち着き、そして国民が怯えを
感じずに暮らせるというのがどんなに幸せなことか。日本は経済や技術、何にで
も優れていることで有名だ、君はそんな日本人であることを、もっと誇りに思っ
て感謝したほうがいいのじゃないか。

 その夜、彼とそんな話をしながら座っていた渡り廊下のベンチ、なかなか通じ
ない単語を英語や筆記や身振りで私に分からせようと一生懸命な彼のそのときの
光景、今もずっと私の脳裏に焼きついています。(続く)

        (筆者は在深セン・日本語教師)

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