【コラム】
技術者の視点(9)

無限を知った者

荒川 文生


1.渋味と深みのある映画

 「“英国の財産”が織りなす誠実な人間ドラマ」(大森さわこ)と評されるイギリス映画を見ました。ハリウッドではなかなか創れない渋味と深みのあるものです。
 第一次世界大戦を背景とする歴史を縦軸に、古代文明を16世紀以来18世紀迄に発展させたインドと19世紀に近代科学の中心と為った欧州とを水平軸とする、世界的な文明の展開を数学と言う研究分野を素材として描き出す壮大な内容をスクリーンに見出す事が出来ます。

 原典と為って居るのは、『無限の天才』(The Man Who Knew Infinity: Robert Kanigel、Washington Sq. Press, 1991. 田中靖夫/訳、工作舎/刊、A5判/上製、384頁1994.9[2016年9月新装版刊行])で、映画の日本版表題は、『奇跡がくれた数式』(マシュー・ブラウン監督、2016年)と為って居ます。映画の中では「人間ドラマ」として、ケンブリッジ大学のハーディ教授とインドの天才数学者であるラマヌジャンとの相克と共鳴が描かれて居ますが、この二人が象徴するものは、ひとつには東西文化、ふたつには科学と宗教であると観る事が出来ます。

画像の説明

  『奇跡がくれた数式』劇場プログラムより

2.東西文化の相克と共鳴

 この映画の深みと渋味は、まず、東西文化の相克と共鳴を描く事から滲み出ています。図式的に単純化すると、右脳と左脳のような東洋的直観的感性と西洋的論理的理性とを対立的に捉えることに為ります。ラマヌジャンの真理を見抜く直感は、ハーディ教授とその属する学会にとって、論理的に証明されない限り非科学的妄想と見做されてしまうのです。弁証法的に言えば、この相克(矛盾)を止揚するものが二人の間に次第に醸成されてゆく人間としての共鳴(友情)、別な表現をすれば、二人に共通する生きざまとしての「真理を求める倫理」なのでしょう。

 科学者や技術者が、自然の中に生まれ、自然と共に生きるものとしての「人間」の生きざま(倫理)を忘れ、左脳の論理の世界だけに生きる時、科学や技術の負の側面としての軍事研究や自然破壊に邁進してしまうのです。これを正すのが右脳の感性(真・善・美)の世界なのです。両者を結ぶ脳幹の働きが如何に大切かを痛感する昨日今日の世相です。

3.科学と宗教の相克と共鳴

 次に、科学と宗教の相克と共鳴が描かれることから、この映画の深みと渋味を味わう事が出来ます。ラマヌジャンが「真理を発見した」と確信する時、それを「神のお告げ」と受け止めます。ハーディ教授にとって、真理は科学的に証明さるべきものなのです。科学と宗教の相克は、既に、ルネッサンスの時代から厳しいものが在りましたが、「神学」の「非科学性」が物的に「証明」されるようになってくると、科学は宗教を「克服」するかのごとき様相を呈してきました。

 その一側面である「自然災害の克服」は、自然の摂理を解く宗教の影響力を弱めるいっぽうで、人間の諸活動が自然を破壊してゆくことへの反省を蔑ろにすることになりました。自然科学者や技術者は、基より、自然の力の大きさや素晴らしさに気付いている筈なのに、これを破壊している自らの姿に気づかなかったかの如くです。これが自然科学者や技術者の倫理喪失として指摘されております。

 映画では、科学と宗教の共鳴が、ラマヌジャンの命に対するハーディ教授の尊敬と愛情として描かれます。映画ジャーナリスト野島孝一は、その解説を次の様に締め括ります。
 「優秀なスタッフの結集が、この映画を格調高くしている。もしかしたらヒンドゥーの神のご加護もあるかもしれない。」

  雷が荒れて共(とも)鳴り田潤う  (青史)

 (地球技術研究所 代表)


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