■父はなけれど、母もなけれど        若林 英二

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 東京調布市深大寺に、私を知る方がいる。

    「友だちの友だちは、友だちだ」

これほど覚えやすく、言いやすく、しかも竹馬、コマまわし、凧揚げの昔まで連
想させる言葉も少ないだらう。

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 太平山南麓にお住まいの富田昌宏さんは俳人で、私の反戦・平和への運動に目
を留められ、友人になった。栃木市山本有三記念「路傍の石全国俳句大会」の句
会で「胡麻干して関八州の隅に老ゆ」と知事賞受賞。  

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 富田さんは四十年前からの刎頚の友今井正敏さんに、私の八冊ものガラクタ本
を紹介して下さったので、私と今井氏との文通が始まった。お住まいは東京深大
寺。 文通のみではない。町長時代の足跡を、同人誌ともいうべきメールマガジ
ン「オルタ」で絶賛してくださった。

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 今井さんに会ったことはない。写真もない。
深大寺も未知の土地で、武蔵国分寺跡視察の折、かい間見た程度だが、その名前
には絶大な憧れを持っている。発音の妙は例えば、町村合併で許されるならこの
名を使いたいほどだ。今井さんはガラクタを辛抱強く読まれて、町長の業績を、
平成十八年一月号のメルマガに載せてくれた。

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 人は聖人君子の人格で生まれてはこない。人生には数々の失敗や不徳がある。
特に政治に関係するものには批判はつきものだが、死にたくなるほど落ち込んだ
人の、味方の最右翼というか筆頭は父と母だ。父も母も地獄の果てまでついて着
てくれよう。
 父は私が十八歳の時、西方へ旅たち、母は女子どもばかり抱えて戦中を生きぬ
いた過労で倒れ十七年間寝込んでいた。 戦中、母の口ぐせは決まっていた「百
姓はナ、ショッパイものがあれば生きられっと。」
 戦いが終わった時、ミソが伊丹ダルに何本もあったが、塩分が強くて食べられ
なかった。
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 町民、知人、文学の友。みんな二十八年に及ぶ町政の歩みをほめて下さる。素
直に受け止めて有難く思っている。
 けれども深大寺さんほど文章をもってほめて下さった方はいないので、ここに
転載させて頂くことにした。

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 もち論、ほめ言葉を文にして、自ら公表するなんて、「はしたなく、君子のす
ること」ではない。それは、先刻ガッテン承知之助だが、小泉内閣の改憲、軍備
増強、産軍ゆ着ムードの中にあって、反戦平和を唱える心やさしい友が、肩をす
ぼめて、声を上げられないでいるのを見て、あの戦時の「挙国一致、一億一心百
億貯蓄、対支よう徴」の軍国主義時代に、斉藤隆夫代議士の「唯徒に、聖戦の美
名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、」の名演説を、もう一度皆さんに読んで頂い
て元気を出してもらうために、深大寺今井さんの許可を得たものである。

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 深大寺先生のメルマガは左記(オルタ25号今井文章全文と斉藤演説抜粋)の
とおりだが、特に私が感動したのは、「町長時代に造った哲学の道の休憩所に、
このような文章(斉藤演説のこと)を堂々と掲げた例はまずない」と、ほめてく
ださったこと。父や母が生きていたとしても、こんなにほめてくれなかったと思
っている。
             (筆者は元栃木県国分寺町長 下野市箕輪在住)  

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