父江田三郎の時代から

江田 五月

 加藤宣幸さんのご逝去は、本当に突然でした。文字通りの急逝でした。前日まで仲間との活動に奔走し、亡くなった時には手に原稿用紙を持っていたそうです。

 私が初めて加藤さんに会ったときは何時か、往時茫々として記憶は甦ってきません。1960年春、私は郷里岡山の高校を卒業して、東京にある父・江田三郎の参議院宿舎に同居して大学生活を始めました。建て替え計画の進む清水谷の宿舎になる前の、古い宿舎でした。その年の初めに、日本社会党は鈴木茂三郎さんの後任に浅沼稲次郎さんを委員長に選び、浅沼さんが右派だったからか、左派グループから若手代表として父を書記長に送り込みました。「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」と言った浅沼さんが右派、日本の目指す社会主義は「高いアメリカの生活水準、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義と日本の平和憲法」と言った江田三郎が左派ですから、かなりいい加減です。

 父はその前は、組織局長を務め、全国の党組織を掌握していました。そして、その仕事をオルグ面で支えていたのが加藤さん、森永栄悦さん、理論面が貴島正道さんでした。この3人は同世代で、戦後の社会党の出発時からの同志で、若い夢と志を共有してひたすら党活動に専念していました。逆に言えば、議員になることは彼らの夢からは遠く、むしろ社会党議員が議員に安住することに批判的でさえあったと思います。そんな思いが、彼らを私の父に引き付けていったと思います。
 その年の秋、浅沼さんが刺殺され、その後の党大会で父が委員長代行に選ばれ、総選挙をたたかいます。その大会で、委員長刺殺の悲しみの中で、活動方針が決定されました。その中に構造改革路線が含まれていたことが、つまり冷静な議論を経る余裕がないまま、その時の政治情勢の勢いに押されて採択されたため、その後の厳しい党内議論に晒されることになりました。しかし、講構革論を確信する勢力は江田派を立ち上げ、この3人は本部書記局の「江田派三羽烏」として活躍することになりました。私が彼らにあったのは、間違いなくその頃のことです。

 加藤さんのご尊父は、戦前の無産運動の指導者の一人である加藤勘十さんです。勘十さんは、江田派の精神的支柱の一人で、父も大変にお世話になりました。勘十さんの奥さんは加藤シヅエさんですが、宣幸さんのご母堂ではありません。しかしシヅエさんも父を応援し、父もまたシヅエさんの参議院全国区選挙の選対責任者を務めたりしました。そんなことで、宣幸さんの妹の大森さんもシヅエさんのお子さんの加藤タキさんも、私たちは大変にお世話になってきました。
 60年代から最近に至るまでの年月は長く、この間の思い出を書き出すと切りがありません。また、多くの人がそれぞれの切り口でいろいろ書かれると思うので、省略します。「現代政策総合研究所」のころ、松前重義さんを中心の江公民路線を進めた「新しい日本を考える会」のころなど、いろいろあります。そして1977年の父の社会党離党から社会市民連合提唱となり、三羽烏の動きも様々となります。そして森永さんに続いて貴島さんが世を去られ、今また宣幸さんが他界されて、あの時代は去ったとの思いが頻りです。あの時代に私たちを燃え滾らせたものも、一緒に雲散霧消した感じがして、寂しさは一層募るばかりです。
 加藤さんは、いつも穏やかでした。人を論難するという姿を思い出すことはありません。今、遺影を見ると、何か仙人の風情を湛えています。仙人には、内面に強い信念をしっかりと持っていることが欠かせないのだと思います。そして加藤さんこそは、単に写真写りだけではなく、全人格が仙人だったのだと思います。そして文字通り仙人のごとく、私たちを残して旅立たれました。加藤さん、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

 (元参議院議員、民進党岡山県総支部連合会顧問、弁護士、日中友好会館会長)

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