【追悼】

猪上輝雄 平和人権反差別に献身した87年の生涯

仲井 富


 9月16日は猪上輝雄さんの一周忌である。猪上さんとのつきあいは長い。わたしは1955年秋から、当時の日本社会党本部書記として青年部と軍事基地員会を担当した。砂川、百里、東富士などを、米軍基地と自衛隊基地反対闘争のオルグとして駆けめぐった。そのなかで1950年3月、日本の米軍基地反対闘争で最初の完全勝利を勝ち取ったのが、群馬県妙義山の米軍山岳演習場反対闘争だった。その現地オルグとして、農民や婦人と寝食を共にして戦ったのが、当時25歳の猪上さんだった。その後、猪上さんは社会党群馬県本部の書記長として、長年にわたって田辺誠、山口鶴男氏の地元を支えてきた。

 1989年、社会党県本部を退職した彼が人生最後の闘争として取り組んだのが、太平洋戦争末期の群馬県における朝鮮人労働者の強制連行の記録を掘り起こすことだった。苦節9年、2004年に県立公園「群馬の森」に追悼碑を建立した。

 だが、近年の日韓関係の悪化やヘイトスピーチに代表される、侵略の歴史はなかったとする政治的、社会的潮流のなかで、2014年の7月22日、群馬県は『朝鮮人追悼碑』の撤去を猪上事務局長宛てに文書で通達してきた。朝日、産経、東京などの各紙も取り上げ、全国的な注目を浴びている。

 この朝鮮人追悼碑問題で中心的な役割を果たしてきた「追悼碑を守る会」事務局長としての猪上輝雄さんの話を聞きに行った。当時85歳の猪上さんは、週3回は自宅での点滴を必要とする重症の患者だったが、連日、10月に予定された通達取り消しを求める裁判闘争の準備に奔走していた。当時私は「彼はいま死ぬ訳に行かないのだ」と書いたが、ついに2016年9月帰らぬ人となった。
 (メールマガジン・オルタ128号(2014年8月20日)「群馬県の朝鮮人慰霊碑撤去に反対する85歳の抵抗―猪上輝雄事務局長に聞く」仲井 富 参照)

画像の説明
  猪上輝雄さん

◆ 「青年よ銃を取るな」の鈴木茂三郎委員長の呼びかけに感動

 二〇〇六年の秋、前橋市に猪上輝雄さんを訪ねた。彼は一九五〇年代の内灘、妙義、大高根などの米軍基地反対闘争のなかで、初の勝利をかちとった妙義闘争のオルグだった。いわば歴史の証人である。

 一九五四年四月三日、政府は妙義・浅間地区一帯を米軍の山岳演習地にすると発表した。一九五〇年からの朝鮮戦争で、朝鮮半島山岳地帯での戦闘に苦戦を強いられた米軍が、金剛山によく似た地形をもつ妙義山に目をつけたのである。ここでも条件闘争派が現れたが、地元の恩賀部落の団結で一九五五年三月、米軍をしてついに計画を放棄させ、日本における米軍基地反対闘争の初の完全勝利を勝ち取った。わたしは群馬には一九五一年の知事選挙から参議院選挙、衆議院選挙と党本部からオルグとして派遣された。数十年の長いつき合いだが、しみじみ妙義闘争の話を聞いていなかった、と気づいた。電話をして2007年10月、前橋市の自宅を訪ねて話を聞き、月刊誌『むすぶ』2008年4月号に載せた。以下はその証言である。

――妙義闘争に福岡出身のあなたが飛び込んだキッカケは何ですか。大学を卒業して就職先も法務省に決まっていたと聞いているが。

【猪上】 わたしが社会党に入党し、妙義の米軍基地反対闘争に参加したのは、一九五〇年(昭和二十五年)朝鮮戦争が勃発し、それに伴う日本の再軍備が急速に進むなかで、当時の社会党委員長(左派)鈴木茂三郎さんが訴えた「青年よ銃をとるな、婦人よ、夫や恋人を戦場に送るな」のよびかけに感動してからでした。学業を終るや直ちに平和運動にとびこみ、社会党本部の軍事基地対策特別委員会のオルグにしてもらい、上州妙義をめざし、リュック一つを背に上越線にとび乗りました。九州福岡の生れである私にとって初めての上州であり、そそりたつ妙義の山は、いやがうえにも闘争心をかきたてるように感じられました。ときに二十四才の青年でした。

◆ 全県民闘争が崩れ十七戸の闘争へ

【猪上】 一九五三年(昭和二十八年)四月、日本政府は、妙義山一帯の山地に米軍山岳戦演習地をつくることを発表した。坂本町の恩賀部落とその北にそびえる高岩に目をつけたわけです。群馬県を通じて地元坂本町(現松井田町)に通告してきました。びっくりした県当局や地元関係町村(軽井沢町などを含めて十一町村)は、これは大変とばかり、全県あげて反対することとし、県議会議長が会長になり、「妙義基地反対期成同盟」をつくるとともに、全県民に一円カンパを訴えるなど積極的に反対運動にとりくみました。地元坂本町でも町民大会を開き、関係十一町村も反対期成同盟をつくりました。

 しかし、六月に安中市において、政府、米軍を迎えて第一回現地懇談会がもたれた頃から、県や各市町村などは政府側の説得に崩れ、条件闘争という名のもとに賛成にまわってしまいます。絶対反対を主張し残ったのは、山岳訓練学校の建設予定地である恩賀部落の十七戸の農家と、それを支援する社会党を中心に民主団体で組織する「妙義基地反対共闘委員会」だけとなりました。

――あなたがオルグとして入って行ったのは、全県闘争が崩壊して、地元民だけの少数派の運動になった時期だったわけですが、どういう状況でしたか。

【猪上】 私はこの共闘委員会の現地オルグとして、一九五四年四月、闘いの中途から恩賀部落に住みこんだのでした。当時私の外にも共産党のオルグ、或は東京方面からの支援の学生や労組員が、附近の岩かげや洞くつに夜露をさけて寝泊りし、恩賀の周辺はとてもにぎやかでした。

 絶対反対の十七戸の農家で組織した「恩賀同志会」は、反対の決意は強いものの、最初の段階では外部の支援団体との共闘を拒否していました。なにしろ、赤旗を持ってくる団体は鬼よりこわいものと信じていたようです。支援のために恩賀に入っていくと、各戸とも雨戸をかたく閉ざして、会おうとしませんでした。四面楚歌、県も町も、そして農協までもが賛成にくみし、調達庁(米軍に施設や物資を提供するためにあった官庁)の役人だけでなく、町会議員や農協理事までもが、連日説得のために各戸をめぐり、学校では子供たちが差別され、部落の入り口には臨時の警察の派出所が新設されるという状況に追い込まれました。

◆ 基地反対なら鬼とでも手を握る

――そのころに、恩賀同志会が、猪上さんたちを受け入れるようになったきっかけは何だったのですか。

【猪上】 追い込まれた中で、恩賀同志会の人々は、一つの大きな決断をしたのです。それは、支援団体である「妙義基地反対共闘委員会」(委員長茜ヶ久保重光)との共闘でした。同志会の会長だった故佐藤忠一さんは「米軍基地に反対してくれる人なら、鬼でもよい、手を握ってみようと思った」と、社会党の当時の鈴木茂三郎委員長宛に白紙委任状を書いたのです。

 それから反対闘争も積極的になり、それまでは説得から逃げることだけを考えていた同志会の人々も、山仕事や畑仕事のあい間をみて、高崎に、前橋に、そして東京にと支援の要請に出かけました。団体をまわったり、街頭からも訴えました。生まれて初めて見る拡声機とマイクを手にして、足をふるわせながら、それでも心の底から訴えました。その年の総評大会では、佐藤会長は演壇にたち「塩屋に三里、たばこ屋に三里、何千年も静かに、貧しく生きてきた恩賀に、なぜ米軍は基地をつくらねばならねエーのか」と、全国の労働組合の兵(つわもの)たちを前に訴えました。

 妙義基地反対闘争は、全県下、全国の平和をねがう人々の支援に包まれるようになり、激励に恩賀を訪れた人たちは、恐らく数百人に達したと思います。

――わたしは、そのころは岡山にいて、党大会などで内灘や妙義の反対運動の代表の挨拶などを聞いていただけでした。

【猪上】 どうしても崩れない恩賀同志会の団結に業を煮やした政府は、一九五五年一月十九日、ついに実力行使に移りました。積雪数十センチの雪の朝、突如として、警察機動隊に守られた測量隊が村を襲ったのです。

 「測量隊が来た」という連絡を受けて恩賀同志会の人々は、老若男女を問わず、小学生も登校をやめ、病人を除いて全員が、唯一の部落を貫通する道路に座りこみました。全員といっても六十人か七十人ぐらいでした。前夜から泊りこんでいた支援者十人ぐらいが加わりました。必死の抵抗でした。しかし警察隊は、座りこむ農民を踏みつけ、けとばして測量を強行したのでした。私はその時、警察隊の警棒で頭をなぐられ、全身血だらけになって倒れました。ところが警察隊は、倒れている私と、介抱する数人の人めがけて更に攻撃を加えるという有様でした。真白な妙義の雪は、警察隊の蛮行によって鮮血に染まったのです。
 強制測量の後も、恩賀同志会の人々は崩れません。いよいよ決意はかたく、鎌倉権五郎影政を祀るという鎮守の神社に全員が集まり、神前に“決死の闘い”を誓ったのでした。

◆ 総選挙の勝利につづく妙義演習場反対運動の完全勝利

 この激しい闘いが続けられる中で、二月二十七日には第三十七回総選挙が行なわれ、反対共闘委員会委員長の茜ヶ久保重光は群馬一区でトップ当選し、三区では武藤運十郎とともに新たに栗原俊夫が当選、左派社会党が大躍進しました。そして、その勝利の喜びがさめやらぬ三月一日、私たちは耳を疑うようなニュースをラジオで聞きました。「米軍妙義演習地の接収解除」の報道でした。十七戸の農民の命がけの闘いが、アメリカ軍に勝ったのです。基地闘争史上初めての完全勝利でした。
 いま、美しい高岩は、恩賀の農家の裏山に三十数年の昔を忘れたかのようにそそり立っています。妙義山一帯には、ハイカーたちの平和な歌声がひびいています

――三里塚闘争のオルグだった友人の加瀬勉さんが、加瀬完参議と富里、八街の空港反対運動の講演に行って、猪上氏から、妙義闘争の話を聞いた。男はダメだ。女性と老人こそが闘争の主力だと聞いたと、書いていますが、どんな話でしたか。

◆ 女性と老人が闘争の主力だった

【猪上】 わたしはこう言ったのです。加瀬さん、女性と老人を組織しなくては勝てない。男はダメだ。男は最後には役に立たないよ。名誉欲が強く、野心もある。そうして家族をオレが養っているという意識が強いから、防衛施設庁の山に入ってきた連中にコロリとだまされてしまいます。生活の中で一番苦労している女性と、その土地に一番愛着を持っていて、この土地は自分が苦労して守ってきたのだ、この土地以外では生きていくことができないという老人たちを組織しなくては駄目なんだ。

――同じ意味のことを内灘永久接収反対実行委員会の委員長だった出島権二さんが言っています。「男は酒いっぱいやらんかいや、と言われている内に、ヘナヘナと行ってしまう。しかし女は強い。酒は飲まんし、ちょろまかされんね。内灘闘争はばあさん闘争といわれたくらいです」(『証言 内灘闘争―参加者が見た想い―』)

◆ 女と老人を組織しなければ勝てない

【猪上】 こういうことがあった。防衛施設庁の役人たちが山に入ってきた。老人たちは白の死に装束に身を包んで役人の腰に下がっている水筒にしがみつき、『俺たちに三途の川を渡る死に水をくれ、俺たちを殺してから山に入れ』と水筒から離れなかった。それで阻止することができた。防衛施設庁の役人が札束を持ってきた。家族で炬燵をかこんでいるその前に札束をポンと置き、これで山を売ってくれと言った。深い沈黙が続き、その金に夫が手を出したその時、隣にいた女房が『父ちゃん、その金とるとここにいられなくなる』とワッと泣いて夫の手にしがみついて離さなかった。

――加瀬さんは、「私は猪上氏の言葉がいつも頭にあり、婦人と老人の組織化の機会をうかがっていた」と述べています。

【猪上】 わたしは大高根に行き、砂川闘争にも参加しました。加瀬さんに呼ばれて、富里空港反対運動の現地で、婦人たちの初めての集会で、妙義闘争の女たちと老人の決死的な体を張った闘いを報告しました。

――加瀬さんは、一九六六年三月の節句の次の日の休みの日に、猪上さんを招いて、「空港反対婦人親子大会」を初めて開いたと、書いています。当日、富里中学校体育館は婦人と子どもたちでいっぱいになった。妙義闘争の報告が参加者に感動をあたえ、空港反対富里八街婦人行動隊が結成された、と述べています。

【猪上】 妙義闘争の勝利はその後の群馬県内の民主運動にも大きな影響を与え、運動の精神と手法は安保闘争、民擁連(民主主義擁護群馬県民連合)へと引き継がれました。60安保反対のデモは恩賀からスタートしました。すべての運動は個別の闘争として出発するが、やがて全国的な流れとして広がるということを、妙義の経験から信じたいと思います。

――たしかに女と老人を組織しなければ勝てない、という妙義の教訓は、その後のあらゆる住民運動のなかで、実証されていると思います。女の闘争の歴史をきちんと見なければ住民運動は語れない。

画像の説明
  恩賀部落の背後にそびえる高岩

 (公害問題研究会)

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