現代の精神疾患 躁鬱病と双極性障害」

大原雄の『流儀』

現代の精神疾患 躁鬱病と双極性障害 〜精神疾患の患者と医師の間に立つ者の役割〜

大原 雄


 『孤立無業』(玄田有史、「日本経済新聞出版」刊)、『無業社会』(工藤啓・西田亮介、「朝日新書」刊)などという本が最近、相次いで刊行されている。160万人はいるといわれる「働くことが出来ない若者」という問題だ。いろいろな事情があるだろうが、その背景に若年層に広がる精神疾患がある、と思う。精神疾患、特に、今回は、双極性障害(躁鬱病)について、最近出版された2冊の本を取り上げて、ポイントをメモしながら書評という形で論じてみたい。間口が広く、奥行きの浅い私のようなジャーナリストならでは(?)の視点で、新しい形での精神疾患評論となるかどうかは、不明。若年の無業者・精神疾患者などの問題も、このコラムでは、機会を見ながら取り上げて行きたい。小泉政権以降、日本は、いま、一度のつまずきで再起しにくいシステムの社会になってしまっていはしないか。さらに、安倍政権が、それを加速しているように私には見える。

■「二つの自我」の間の軋轢という病。
A)森山公夫『躁と鬱』(筑摩書房刊 筑摩選書 1600円+税)
この本を読む読者としての私の課題(問題意識)。
 1)躁鬱病の「症状」とは、どういうものか、という問いに答える。
 2)患者と医師の間に立つ者に何が出来るか、という問いに答える。

 躁鬱病の患者が職場や家庭など身近にいる場合、職場の上司、同僚や家族は、患者に対してどういうケアをすればよいのか。まず、患者の「病像」を可能な限り共有化を試みる必要がある。職場の上司、同僚や家族とは、患者と医師の「間に立つ者」である。

 ケアをするためには、患者の病気について理解をしなければならない。患者でさえ、時に、精神病という病識を持てない場合がある、というのが精神疾患の厄介なところである。患者でさえ、自分がどういう精神疾患か判らないまま精神科に通院する。あるいは重症の場合、入院して治療を受ける。こういう患者に対して、精神科医は、患者の症状を観察し、患者が語る言動から少しでも、症状に繋がる過去のエピソードを聞き出したりして、症状の現況を判断し、服用する薬などを処方する。患者に薬の効き目が出るのは2週間ほどかかるので、継続した期間の服薬の様子を診たり聴いたりしながら、患者の心身ともの体調の変化をチェックする。その情報を元に、服薬の仕方を調整して、治療を続けて行くことになる。患者と医師は、共同で治療方法を探求して行く。従って、治療は長期化する。

 患者でも家族でも職場の関係者でも、躁鬱病を含めて、統合失調症などの精神疾患について学ぼうとする場合、精神疾患の解説本を読んだり、テレビ・ラジオの精神病の解説番組を見たり聞いたり、あるいは、患者が嫌がらない場合には、患者とともに、精神科の主治医の診察に同席して説明を受けたり、精神科病院の家族会などに出席して、カウンセラーやの話や家族同士の情報交換をしたりするという手段があるだろう。

◯森山公夫『躁と鬱』は、そういう軌跡を踏まえて、この病気の現況に切り込んで行くという本だ。森山が描く躁鬱病の「病像」とは、どういうものであろうか。

 「鬱病」の3大妄想は、罪責妄想(重い罪、相応の罰)、貧困妄想(零落、家族の経済的破綻という妄想念虜)、心気妄想(不治の病罹患という身体的違和感)=微小妄想(ミクロマニー)と言われる。→ 妄想にとらわれた患者は、自分はダメな人間だという思いに自分を収斂しようとする。森山は、これを「我執性」=ダメな自分に執着(自己中心性、自己関係性)することだと言う。難解ですね。

 一方、「躁病」の妄想は、誇大妄想(自らを高しとする強い傾向を持った妄想的認知)と言われる。躁鬱病と言うと、躁と鬱という気分を繰り返すと一般的に言われているが、森山は、躁と欝とは別々に切り離せるものではなく、常に表裏をなし、内的関係を持つと言う。躁と欝は、対立せず、密接に関連し、「非常に容易に相互に移行しあう。(上昇的欲動と下降的恐怖の)相克・移行状態=混合状態こそが、躁鬱病の中核的病像であるとして、一般的な躁鬱病像とは異なるイメージを提供してくれる。森山が、この本のタイトルを「躁鬱病」とはせずに、「躁と鬱」とした理由は、それであろう。

 患者は、二つの自我(自己、魂)に悩まされる。理想的自我、現実的自我との間の分裂・葛藤である。孤立感(空虚・深淵、無=喪失・空虚、現実からの離反)を深め、生活リズム崩壊が現れる→ 欝的劣等感と躁的優越感→ 両者の相克と移行の連鎖がグルグル回る「連鎖反応」という迷路→ 不安・焦燥→ 疲弊・興奮(寄る辺を求めて、魔的努力=「手遅れ」なのに努力する)→ 孤立と生活リズム崩壊(変調)→ 病状が深まる(悪化)→ 欝の最低点→ 新たな観念連鎖へ(終わりなきもがき、もがきの無限進行=死ぬことすら出来ない絶望=病気の本態、基底的な状態、原発的事象)→ 閉じ籠り進行。無と不安は不即不離となる。

 そして、妄想形成が始まる。現在が希薄化され、未来が狭まり、過去が肥大化して、嫌な思い出の映像がリアルに現前する。→ 妄想的確信へ。躁鬱の混合状態から躁鬱スパイラルへ(病像の核心)。躁と欝の繰り返しより、このスパイラルは、もっとダイナミックだという(このとき、患者は、もがいている)。

 この「スパイラル」(連鎖反応)を私は、理容店の赤と青の2本の螺旋の筋がグルグル回る看板をイメージする。赤が躁。青が鬱。回転することで、双方が上がったり下がったりしているように見える。

 鬱病像:深淵に落ち込む「抑制」像、「不安焦燥」像。
 鬱病の孤立にもふたつある。絶対的孤立(社会、家族からも孤立)、相対的孤立(社会か家族か、どちらかとは交流)。

 睡眠障害:「熟睡障害」=すっきりと良く眠れない、「断続的睡眠」=まとまった時間の眠りがとれない。

 「了解連関(意味連続性)」からの転調(軌道を外される)と身体的変化とは、イメージが「重ね描き」されることが重要だ、という。人間の苦悩の極限において、精神の正常な「了解連関(意味連続性)」から転調してしまうことの苦しみ。軌道を外され、高まる孤立感の中で、スパイラル状態で躁と鬱という気分が不安定に上下する、ということか。

 生育(体質)の構造 → 発病の構造 → 病態の構造(患者にとって、ここは瞬時も休みのないダイナミックな修羅場となる) → 医師による治療=回復の過程(再転調=ほぼ軌道に戻る) → 「寛解」となる(治らないが、服薬を守れば普通に生活できるようになる。しかし、発症以前には、もう戻らない)。

 患者は、発症後、自分の歴史が繋がらなくなってしまうのでないか。幼少期から続いてきた自分の歴史が発症を契機に一旦切れてしまう。その後の歴史は、また、別の歴史だ。病気で以前と同じことができなくなってしまった。客観的に病状を認識できても、それが、なぜ、この身に起きたのかと主観的に認められないから、そういう患者は「病識」を持つために時間がかかるのだろう。

 漢字の「七」の字を踏んだように、患者の人生は、双極性障害の発症で直角に曲がってしまう。僅かな一歩を踏み入れて、曲がる前まで患者の目の前に広がっていた人生の先ゆく道の光景が、曲がったあと180度違った、見慣れぬ光景に変わってしまっている。曲がる前まで患者の周りに居た人々の姿は見えなくなり、見覚えの無い人々が患者の周りに忍び寄っていることに気付き、愕然とするとともに、絶望的な孤立感に襲われる。絶対的な孤独。親しかった人たちは何処かに行ってしまった。別次元の世界に一人だけ放り出されたようだ。歌舞伎の「俊寛」を思い描く。南の鬼界島にひとり取り残された俊寛の気持ちを歴代の歌舞伎役者は、如何に表現するか。芸の工夫を重ねてきた。

 膨らませる前の風船と一度膨らましてしまった風船。膨らましてしまった風船は、空気を抜いても、膨らませる前の風船には戻らない。

★この病気の先人たち。
マルチン・ルター:双極性㈼型
ゲーテ:双極性㈼型、循環型
北村透谷:双極性㈼型
坂口安吾:双極性㈼型
鶴見俊輔:双極性㈼型
ジョン・スチュアート・ミル:双極性㈼型
マックス・ウェーバー:双極性㈼型

*)㈼型とは、「躁状態」が、「軽躁」のことをいう。但し、この「軽躁」は、決して「軽くなく」、治りにくい、というのが厄介である。㈵型は、躁状態が激しい。北杜夫がそうだった。

 躁では、ハイ状態になり「熱中性」となる。鬱では、生真面目なので、「几帳面」となる。細部に拘り、それが上手くできないと、落ち込む。完全主義者の悲哀。

1)躁鬱病の「症状」とは、どういうものか、患者たちの心象風景。

 閉塞:過度の几帳面さを保ちつつ(欝的)、質量ともに高い水準(躁的)で仕事をこなしたい、という思い。→ 自己撞着(ジレンマ)のうちに閉じ込められる。→ 発病状況。

 停滞:自己自身に遅れをとり(決断を怠った、と悔いる。欝的)、負い目を負う(繰り返し拘る、躁的)。

 発病構造論:欝:重荷状況、荷下ろし、幻滅状況。/躁:緊迫状況、開放状況。
躁鬱両発病状況 → ストレス(心身両面の疲弊)。

 自分が自分を受け入れられないという観念の自己関係付けの障害に由来する二つの自我の葛藤 → 躁病発症へ。

 孤立(皆から切り離された。僅かな一歩 → 皆と自分は世界=別世界が違う)→鬱病発症へ。

 「集団と対」(社会と家族)から阻害される(人間と世界との共感的関係の障害。「空虚」。鬱病の「内閉」:統合失調症の「自閉」と区別)。切り離された→ 自ら閉ざす→ 孤立→ 交互作用が「内閉」(精神病的孤立、例外者的孤立)、幻想的別世界へ。負け犬根性(欝的劣等感)=ダメな自分を責め続ける自分。

 別世界:世界が非現実的になる? → 異次元の世界、(ゲームの世界のようなもの?)

 鬱病の別世界:中等症:3次元世界、二重見当識。重症:超次元(地獄)。孤立の完成。生活リズム崩壊。未来も消滅(死ぬことも出来ない)。時間性も完全崩壊・解体。人類のメランコリーが生み出した最悪の想像の産物。これも難解!

 睡眠障害と生活リズム変調、眠れぬ身体、自分から阻害された離人症的身体に転化=世界からの疎外。睡眠障害=眠れない、逆に、眠れ「過ぎる」=「過眠」→ リズム変調(躁鬱病の本態、原発的事象)と挫折、失敗と無関係に生理的・位相的に生起する。だから、病気なのだ! 状況の困難→ 孤立・不眠(表裏一体に進行)→ 例外者意識、生活リズム崩壊。頭が集中できず、ものが考えられない。漠然とした不安(憂鬱)、焦燥感、食欲不振、他人忌避(回避)、家族との対話もできない、絶望、自己を責める。絶対的孤立。

◯森山理論のハイライト=スパイラル理論。

 心配・不安という落下恐怖、焦燥的上昇的努力との耐えざる相克=鬱病スパイラルの悪循環。寄る辺を求める。(手遅れ的ながら)すがりつく(躁的)、幻滅、また、求める、焦燥、という連鎖。

★鬱病スパイラル=空虚の中で寄る辺を求めての焦燥の相克、絶望から、深淵への墜落、という連鎖の悪循環 → 疲弊と興奮を呼び込む → 鬱病像の拡大再生産。

★躁病スパイラル=孤立と睡眠障害。孤立:天才(浮き上がり型)は孤独 → 睡眠障害(早朝覚醒、先取り=手遅れではない型)。先取り的(リズム障害)、先取り:前傾過ぎということか?  一方的なので相互交流にならず、我執的な当たり散らし、疲弊し、さらに「孤立」する。躁的な熱狂的焦燥(絶え間なき先取り的上昇努力)という苦しい行為の連鎖の悪循環。病状の拡大再生産。

★ 躁鬱スパイラルの3段階。
 正常な人:1)=眠気(意識の識別性・論理性のゆらぎ) → 2)まどろみ・入眠(覚醒意識と眠りの心証の交錯・拮抗。入眠時幻覚。二重構造の世界) → 3)寝入る(夢の世界への転入、記号から像へ転調)。

 鬱病:孤立化、手遅れ的リズム障害 → 1)とらわれ(不安、過去の失敗、身体の異常にとらわれ、のがれようともがき、それをふくらませる)=軽欝状態。 → 2)幻覚・妄想(過去の肥大・強力化)=中等症鬱病。 → 3)夢幻様世界(完全不眠、意識混濁。過去が既定、世界を圧倒)=重症鬱病。

 躁病:浮き上がり的孤立、早朝覚醒型リズム障害 → 1)憑かれる(現実感覚のゆらぎ。先取り的行動)=軽躁状態。 → 2)幻覚・妄想(未来の肥大・強力化)=中等症鬱病。 → 3)夢幻様世界(完全不眠、意識減弱。未来が圧倒、想像世界、夢幻的世界)=重症躁病。

 双極性障害の「病像」は、患者以外には解りにくいので、繰り返し森山の説明をメモして見た。患者と医師は、こういうイメージを共有して治療に当たっている。家族、職場の同僚・上司は、患者と医師の間に立つ者として、どうしたらイメージを共有できるのだろうか。

2)患者と医師の間に立つ者に何が出来るか。患者と医師の間に立つという立場を如何に構築するか。家族、職場の同僚・上司の役割。

★ 森山説:柔らかい治療主義=認知行動療法。

 インフォームド・コンセント重視:治療者(医師)と患者の信頼関係の構築。
自然(自己)治癒力重視:柔らかい治療主義、患者こそが治す主体となる。

 傾聴と信頼(共感)関係の構築:精神療法。

◯治療の三段階:欝や躁の内的葛藤の悪しきスパイラル(循環)を解体・消滅(服薬で可能)し、孤立と生活リズムの歪みを克服し、自己内葛藤を統合する。

 1)眠り:眠りと休養。眠りへの導入。悪循環を自ずと解体する。安定の継続。病気の自覚。→ 執着からの解放。
 2)遊び:猶予期間。孤立と生活リズムの歪みを克服。心身の安らぎ。遊びと自覚。遊び上手。結果に拘らない。歩き=心身調整、精神浄化の重要性。睡眠覚醒のリズム、歩きを軸に日常活動のリズム → 生活の24時間リズム構築。自己洞察。対人関係の再構築。生活リズムの確立。遊びの喜びの体得。生活リズムの継続(社会復帰の準備)。患者の「遊び」への家族らの協力。
 3)仕事:二つの自己(理想的自我、現実的自我)の和解(折れ合い)・統合(ありのままの自分の受け入れ → 自己の再生、「二度生まれ」:生まれ直す、という認識をどう育むか)。ただし、この際の、躁転注意! 職場、仕事との「和解」の成立、現実化。社会参加。「頼む、断る」が、出来るような人間関係の再構築へ。めげずに、何回も繰り返す。一進一退に耐える。持ちこたえる。

 患者の状況を理解し、自立への途を妨げない形で、患者と医師の間に立つ者は、どういうことができるか。なかなか難しい。患者の自発性を阻害しないようにしなければならないからだ。

◯回復を妨げる要因探求。

1)軽微な躁に早く気づく。
2)躁転を早期に抑える。
3)躁鬱は徐々に振幅を小さくする。

★規則的な生活の徹底。
★ 「治りにくさ」とは、の探求。
 患者は、自身が抱えている問題の重さを越えて行く。それ相当の時間と努力が必要。成長下手でも、諦めずに。
 患者と医師の間に立つものは、患者の葛藤矛盾の解決・統合を援助する。
→ その結果、患者は、世界との和解体験の中で自己自身を受け入れ、自己を統合する。

■「双極性障害」と闘う、記者という「病」(病が病気を克服する)。
B) 熱海芳弘『双極性障害と闘う 患者として 新聞記者として』(無明舎出版刊 1600円+税)
ひとりの重症な患者の闘病記。この本を読む読者としての私の課題。
 同じジャーナリストとして、患者である元新聞記者の闘いの軌跡を追いかけてみる。

 現役の大手新聞の記者が、精神疾患で倒れた。やがて、知らされた病名は、「双極性障害」(以前は、「躁鬱病」と呼ばれた)という一般には、まだまだ、馴染みのない名前だった。きっかけは、町役場の女性職員の横領事件を特ダネとして記事にしたことだった。後に、その職員から名誉毀損で訴えられ、2年後、記者は自ら証人として法廷に呼び出され、「記者の取材活動」を「虚偽」と決めつける相手側の代理人(弁護士)と闘った。出廷を含めて、その時の対応が、精神的な極度のストレスとなって、記者を襲い、「躁」状態になって、相手の代理人をやり込めるとともに、自身の気分のアクセルを「過度に」入れたような状態となってしまった。24年前のことだ。「双極性障害」。躁鬱状態を繰り返し、なかなか安定しない、という厄介な病気である。

 記者だった著者は、その後長く、通常の安定した気分に戻らなくなってしまったのである。躁と鬱の気分の波に翻弄され、休職、入退院を繰り返し、11年後には、新聞社を退社せざるを得なくなってしまう。「双極性障害」では、「躁」状態の後には、「鬱」状態が襲って来る。

 「躁」では、気が大きくなり、浪費したり、多額の投資をしたり、注意力に欠けて集中力がなくなったり、それでいて、相手を見下したりして、対人関係にトラブルを引き起こしたり、その挙げ句、失職する患者も多い。「鬱」では、「躁」状態の時の過度な言動を恥じて、落ち込んでしまう。イライラする、疲労感が取れない、眠れない、日常の生活活動の昼夜が逆転したりする。まともな就労が出来なくなったりする。極端な場合には、自殺したりする患者もいる。

 ただし、著者は、新聞記者であった。患者となり一方的に病気に翻弄されてはいない。「双極性障害」という病気を相手に取材活動をし始めたのだ。その体験記が、『双極性障害と闘う 患者として、新聞記者として』という本に結実した。新聞記者が精神科病院に短期間、「偽装入院」してルポ記事を書くという前例はあったが、それはあくまでも「偽装」での取材だった。著者は、入院させられた真の患者の立場で精神科病院の現状と問題点を取材して本書をまとめた。入退院を繰り返す中で、不幸にも「離婚」も体験させられた。苦渋に満ちた体験を記者は、「これは記事にしなければならない」という使命感に燃えて取材し続けた。闘病記は、体験ルポでもあった。開放病棟、閉鎖病棟、独房のような保護室にも入れられた。病院内で生活するほかの患者たちの様子もしっかり観察した。精神科病院の「闇」にも目を凝らした。

 病気と闘いながら、著者は、復職をし、職場に戻った。しかし、なかなか上手く行かない。病気を理解しない職場の上司や同僚から心ない言葉も投げかけられる。新聞社に限らず、職場としてのマスコミは、極めて前近代的な職場である。非情な異動で、職場も変えられ、病気が悪化したこともあった。精神疾患になった記者は、健常者時代には自身も気がつかなかった新聞社の体質に目を向け始める。健常な記者には見ることが出来ない光景を新聞社の中に見つけ出す。自分と同じように、精神疾患に見舞われ自殺した同期の記者に思いを馳せる。「まじめで、誠実、几帳面な」優秀な記者だったという。しかし、鬱病になってしまい、記者会見の場では、取材対象者には背を向けて、後ろ向きでメモを取っていたという。相手の顔を見ることが出来ない「対人恐怖症」に陥っていたのではないかと著者は、同期の記者の症状を類推する。新聞社の上司や同僚は、これに気づかず、あるいは、気づいても放置していた。その挙げ句、同期の記者は、電車に飛び込んで自殺をしてしまったという。病気を通じて著者が見いだした新聞社の体質は、極めて古いものであった。

 著者は、8年ほど前から「寛解」状態になっているという。「双極性障害」は、完治しない病気だと言われている。「気分安定薬」などの服薬治療を軸に「精神療法」(認知行動療法、対人関係・社会リズム療法など)を加味して、気分を安定させて、「寛解」状態(気分の安定感を保てるが、治ったわけではない)に持ち込み、就労を始めとする社会復帰(健常者同様の生活をする)を実現させている人たちも増えてきた。著者は、いまも、小さな気分の不安定と闘いながら、「双極性障害」の患者や家族のために作られた団体の役員として活動を続けている。この本の刊行は、著者に取って、本格的な「カミングアウト」(病気の告白行為)となったし、何より自分の病気と人生を改めて総括する(「ライフチャート」づくりという)ことができた。自分流の再発防止策も本書の中で提案している。こういうことを含めて、記者という「病」(生まれ変わっても記者になりたい)が駆り立てたであろう本書の執筆意欲と活動は、著者に取って極めて高度の認知行動療法的な効果があっただろうと思われる。

 双極性障害を「寛解」状態に押し込めた結果、患者として、元記者として、見えて来たものは、抑圧的な方向に傾斜する現代社会の実状ではなかったか。だとすれば、本書で患者のために著者が提言していることは、患者に限らず、社会の抑圧化と日々闘いながら、生き抜かなければならない「患者予備軍」ともいうべき、ほかの健常者にとっても「患者にならない」ために多いに参考になる提言があちこちに籠められているといえるだろう。

 (筆者はジャーナリスト・元NHK記者・元日本ペンクラブ理事)


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