【コラム】酔生夢死

理念と実利

岡田 充


 ある日突然、コンビニやスーパーに並ぶ食料品が3割値上げされたら? 「えっ、起きるわけないっしょ」と涼しい顔のあなた、これはモスクワで実際に起きた超インフレの実話だ。ソ連崩壊後のロシア政府は、資本主義に移行するため通貨を固定相場から変動相場に変更した。その途端ルーブルはドルに対し急落、ルーブルで買えるミルクやパンは一日で3割も上昇したのである。人々はルーブルを見限り、米ドルを求め通貨取引所に詰めかけた。

 モスクワ赴任時は1ドル=40ルーブルだったルーブルは、3年後には5,000ルーブルまで下落。紙屑と化した。エリツィン大統領はこれを「痛みを伴う改革」(ショック療法)と言って庶民の怒りを買ったが、米国主導の国際通貨基金(IMF)の勧告に従っただけだ。これに対し中国は、米国が要求する元の変動相場移行を拒否。政府管理下で変動幅を調整する管理通貨制度の下で、約15年をかけて対ドル相場を約3割上昇させた。超インフレは避けられた。
 同じ社会主義でも、ロシアは金融資本主義の教科書に従い、中国はソフトランディング目指して独自路線を歩む。「理念」と「実利」のどちらを先行させるかの違いと言える。自由と民主に法治という「普遍的価値」を先行させる欧米的思考に対し、日本を含むアジアではまず実利を先行させ、理念は「付随してくる」と考える傾向が強い。

 テロで明けテロに暮れた2015年。米国中心の「有志連合」はシリアとイラクへの空爆を強化。テロに見舞われたパリでは、自由と民主を理念とする「文明」への挑戦と位置づけ、市民は腕を組んで国歌「ラ・マルセイエーズ」を唱和した。理念という旗の下に結集する姿は美しく見える。しかし「美しい」のは理念そのものではなく、人々が「一体化」する時に覚える情緒だ。引き寄せられるのは、そんな情感を刺激させられるからだ。
 本欄2月号でも触れたが、「テロリスト」が生まれたのは、自由や民主主義を中東に軍事力で押し付けたからである。空爆はテロリストを再生産する。「彼らの土地を戦場にし続ける限り」テロは止まない。圧倒的な軍事力に対抗するには、パリやニューヨーク、東京を「戦場」にしなければ「不公平だ。戦争なのだから」という論理である。
 保守派の論客、佐伯啓思がその理念について持論を展開している。テロ事件で明らかになったのは、西側の理念である自由と民主主義の限界だとし「自由はグローバルな金融中心の資本主義へと行き着き、民主政治は大衆的な情緒や気分で不安定に流動する」(「朝日」12月4日朝刊)と書く。では守るべきものは何か。「われわれの生命と財産」だと説く。これこそが実利である。

 (筆者は共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧