■ 【エッセー】生と死―今ここにあること      

―文学座公演 「わが町」を観て―     高沢 英子

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  従弟の息子のMさんから、暫くぶりに演劇公演の案内が送られてきた。たゆま
ず研鑽を重ねているらしい。彼はどうしても芝居がやりたくて、大学を中退して
文学座に入り、研修生として頑張ってきた。三八期生とかで、大きな役ではない
が、個性に合った役柄で、いい芝居によく出演することがあり、案内を貰うと足
を運んで、観劇の楽しさを味わわせてもらっている。

 今回の演し物は、一九三八年、ブロードウエイのヘンリー・ミラー劇場で初演
されたソートン・ワイルダー作、「わが町」で脚本森本薫訳の翻訳劇だった。わ
が国での初演は一九四一年、創立間も無い文学座の勉強会で取上げたのが、初め
という。長岡輝子、荒木道子、三津田健、宮口精二、といった人たちがこれに加
わっている。以来文学座では度々この戯曲を上演しているらしい。アメリカでは
現代劇作家の四大巨人とまで評価されているソートン・ワイルダーについて、私
は何も知らなかった。

 さて、作品は、アメリカ北東部の小さな田舎町が舞台で、そこに暮らす二人の
若者が主人公の、一見ホームコメディ風のドラマらしいのだが、一種の実験劇と
して、一筋縄でいかない名作らしい。チラシの予告によると、「・・・・毎日の
時間は当たり前のように過ぎて、善良な両親とご近所に見守られて育ってきたふ
たり、幼馴染の仲にいつか恋が芽生え、やがて祝福された温かい結婚の日を迎え
ます。幸せな結婚はずっと続くと思えましたが、しかし九年目の夏、二人にとっ
て運命ともいえる出来事が起きます。」とある。

 予定した日は生憎の雨で、四月中旬というのに、日中でも5度くらいしか気温
が上がらず、真冬なみの寒さ、昼の部を予約してあったので、凍えるような風の
なかを、同じ棟に住む友人と誘いあわせ、新宿全労災センターにあるスペース・
ゼロに出かけた。

 会場に坐った途端に、不思議なドラマだ、という予感がした。幕が無い。照明
を落とした舞台に、数脚の木の椅子が、あちらこちらを向いて無造作に置かれて
いる。倒されているのもある。開演5分前、裏方の人が二人、黙々と、薄暗がり
の中で、倒れている椅子を立て、机を二つ組み立てて、それぞれ対称的に配置す
ると、椅子を並べて退場し、いよいよ開演となった。場内は静まり返った。


◇〈第一幕〉◇


  照明が明るくなり、がらんとした舞台に、普通の服を着たひとりの人物が出て
きて喋り始めた。この芝居の監督である。東の空に明けの明星が輝いて、町に夜
明けが訪れていることを示唆すると、

 時は1901年であること。町の名はグローバヴァーズ・コーナーズ、といい、
ニューハンプシャー州の小さな町であることを告げる。地球の一隅という意味を
持つこの名前は、なかなか象徴的である。続いて町の概要や登場人物のあらまし
が紹介され、いよいよドラマが始まった。

 早朝の町の様子が生き生きと演じられていく。普通の中流家庭の朝の様子が、
二人の主婦と、町の人たちののパントマイムと弾むようなテンポの速い会話で描
かれる。二つ置かれた木の机は、二軒の隣り合った家、という見立てだ。

 一軒はこの町のお医者の家、もう一軒はこの町で週2回配られている地方新聞
の編集者兼発行者の家である。町医者のギブズ家と新聞編集者のウェブ家である。
めいめい主婦がいて、人々に愛されながら真面目に働く主がいて、それぞれ子供
が男女一人づついる、という設定だ。

 もう少し科学的な紹介者として、州立大学のウィラード教授が登場する。髭を
蓄え、鼻めがねをかけた教授は、やおら何億年も前の地層の解明から始めて郊外
の牧場で発見された化石の披露に及び、さらに詳細なデーターをもとに気象現象
の説明にとりかかる。監督に「町の人間の歴史を」、といわれると、「人種は初
期アメリカインディアン、XX族・・」などとやりはじめるので、たまりかねた監
督に体よく追い払われ、ご機嫌斜めに退場する。現実と乖離した世界に住む学者
の非日常的な姿を浮き彫りにして、ドラマの日常性をいっそう際立たせる役を果
たすのである。いささかコミックな存在であるこの教授役を好演しているのがM
さんだった。

 椅子と机と脚立、窓に見立てた二つの枠以外、小道具は一切無い。全てはパン
トマイムで演じられ、特に事件らしいものも何も起こらない。英雄もいなければ、
悪者もいない。いるのはただただ運命の前に無力な弱い人間たちだけである。

 ひとり異色なのが、飲んだくれの教会音楽奏者,サイモン・スティムスンで、
劇の終わりで,数年後、自死していたことが告げられる人物である。


◇〈第二幕〉◇


  3年後の早朝、土砂降りの雨が降っている。子供たちは成長し、いよいよジョ
ージとエミリーの結婚式が披露される。どちらも高校を卒業したばかりの十七歳。
結婚式の場は、さしたる事件の起こらないこのドラマでの唯一の華やかな場面で
ある。

 幸せの予感と不安に震える十七歳の心理が、繊細なタッチで描き出され、難し
い場面だが、控えめに抑えながらも、充分二人の幼さ、瑞々しさを感じさせる力
演で、好感が持てた。

 チラシによると、幸せな結婚をした若い二人に、何年か後、大きな運命的な出
来事が起こる、とあるのだが。
  「いったい何が起こるんでしょうね」と友人が期待に声を弾ませる。
「そうねえ、どんなことになるのでしょう」と私も、わくわくして観ている。


◇〈第三幕〉◇


  観客の目の前で、裏方の人の手で、舞台右手に例の木の椅子が十数脚、整然と
並べられてゆく。時は九年後の一九一三年夏、並べられた木の椅子は、実は墓場
であることが追々明かされてゆく。第一幕や第2幕で活躍したひとたちのうち既
に死者となった人々が、静かにそれぞれの席に着く。

 第一幕の始まりに登場した元気いっぱいの新聞配達の少年は、優秀な成績で大
学を卒業したが、第一次大戦でフランスで戦死。ジョージの母親のギブス夫人も
何年か前、肺炎で死亡。不幸な教会奏者のサイモンはさきにも触れたようにこの
教会音楽マイスターで都市から流れてきた人間だが、辛い心の悩みを抱え、とも
すれば酒に浸り、ついには自死を遂げるという設定に、作者の重い意図を籠めた
メッセージの片鱗が汲み取れる気もする人物である。明るくお喋りのソームズ夫
人。全て故人となって、いくらか無表情に着席している。舞台監督が、独自の死
生観を披露するうちに、葬儀屋が一人、新しい墓の準備を始める。

 雨のなかを葬列が静々と丘を登って来る。黒い傘、傘、傘の下で、町の人たち
は黒一色に身を包み、舞台の奥にかたまりあって黙って立っている。死者達の会
話。生者たちの会話が飛び交い、過去と現在が交錯し、墓場は俄かに賑やかにな
る。時には烈しく、時には静かに語られる生と死。人生について、死と生につい
ての作者の思想が最も鮮明に語られる場面である。

 葬列から抜け出した新たな死者が、墓場にいる知人に話しかける場面は、この
ドラマのクライマックスであろう。十四年まえの幸福な回想シーンが突然挿入さ
れ、悲しみをいっそうそそり立てる。断ち切れぬ生への未練で涙にくれながら叫
ぶ死者の声「さようなら、世の中よ、さようなら。グローヴァーズ・コーナーズ
もさようなら。時計の音も・・・お料理もコーヒーも。アイロンかけたてのドレ
スも。あったかいお風呂も・・夜眠って朝起きることも。ああ、この地上の世界
ってあんまり素晴しすぎて誰からも理解してもらえないのね!人生というものを
理解している人はいるんでしょうか、その一刻一刻を生きているそのときに?」
この言葉は痛烈だった。

 答えはノーである。幕が引かれ、舞台監督が最後の挨拶をする。「わが町はも
う11時―――。では、皆さんもぐっすり休息を。お休みなさい」
  ほろりとしたり、くすり、と笑ったり、しんみりしたりしているうちに、一時
間五0分の芝居は終わった。

 その時々で静かに歌われる教会の賛美歌の美しいコーラスの旋律が、このドラ
マの時代的雰囲気を観客に刻み付けるのに効果を挙げ、観客の心に静かで幸福な
日常に対する郷愁をかき立て、さらに永遠なるものへの憧れを夢想させたことも
忘れがたい。

 実際に何が起こったかは語らないでおこう。ともあれ、人間の生と死にかかわ
る重いテーマを、軽やかなタッチでみずみずしく切り取って見せたこのドラマは、
日常の裏に潜む人間の生のはかなさと弱さを、そしてそれゆえにこそ生きてある
事の楽しさを、しみじみ味わわせ、死と生と、今ここに一刻一刻あることへの意
味、を問い直す手助けをしてくれたのである。

      (筆者はエッセイスト・東京・大田区在住)

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