【沖縄・侃々諤々】

知事選挙に続く沖縄の衆院選挙

ーこれは日本の可能性と未来であるー

                          三上 治


 予想されていたこととはいえやはり知事選挙の結果は衝撃的であった。あの沖縄の知事選挙である。予測されていたとはいえ現職の仲井真弘多氏を新顔の翁長雄志氏が大差で破ったあの選挙である。翁長氏が先行していると伝えられていたが、ここまで票数が開くとは思ってもみない事態であった。あれから、さして日はたってはいないが、今度の衆院選挙で沖縄はまた自民党側、権力側に勝った。本土では民主党がもう一つ伸び悩み、与党が三分の二を超すという中での勝利である。自民党は沖縄の小選挙区(四区)で全敗し、翁長知事を推したグループが全勝したのである。今回の争点は「辺野古新基地」の是非であり、反対を掲げた翁長氏の勝利に続いく今回の勝利で沖縄県民の意志が明瞭になった。

 辺野古基地建設に対して「ノー」という声は県民の揺るがぬものとしとしてより明白になった。思えば名護市の市長選で新基地建設反対を掲げて稲嶺進氏が勝利したことから、知事選、衆院選と続くものであり、ここに僕らは日本の可能性と未来をみている。安倍政権下で秘密保護法が成立し施行にまでいたった。また集団的自衛権行使用容認の閣議決定が憲法解釈の変更としてなった。来年にはこのための安保法制が出てくる。こうした中での総選挙と与党の勝利は僕らをペシミックな気分にする。僕の友人はもうテレビも新聞も見たくない、気が重いよと電話してきた。今回の選挙についていえば、僕は自民党の圧勝がまだ続くと見ていた。理由は単純である。あの民主党政権への失望という反動が続いていてそれが幾分でも薄れてくるのはまだ2年は先のことであるからだ。その意味では政府側はいい時期に選挙に打って出たと思っていた。それほど、民主党政権に対する反動はすさまじいのであり、それが政治なのだ。その深刻さをわからないのは当時の民主党政権の中枢にいた面々である。こうした中で人々の気分がペシミックになるのはよくわかるし、そしてまた、沖縄に救いを感じているのもわかる。だが、僕らは沖縄の状況に救いを感じ、それを賛美していてだけでは致し方ない。遺恨10年一剣磨くという言葉がある。一刀を振舞えるのはもっと先だがその鍛錬と精進をせねばならない。

 前回の知事選で「普天間基地」の県外移転を公約にしていた仲井真氏は昨年の12月政府の辺野古埋め立てを承認しこの公約を破った。性質の悪いことに選挙に敗北したにも関わらず、任期の切れる最後に辺野古の埋め立ての承認をしてしまった。信じられないような所業であるが、それだけに沖縄の人たちの行動は感銘が深い。

 この仲井真の所業に対する怒りが今回の沖縄県民の怒りが衆院選挙にも反映した。多分、政府は「辺野古基地建設」は「粛々と進める」とか「安保政策は国家政策」であるとして、知事選を無視する態度にでたが、これは今後も続くとかんがえられる。政府は衆院選挙での勝利を背景に強権的臨むとかんがえられるが、沖縄の人たちに連帯しながら強権化に歩を進める動きに対していくほかない。

 多分、私たちがここで直面しているのは沖縄と本土の関係が新しい視座で問われてきているということではないのか。イギリスから独立の是非を問うスコットランドの住民投票が記憶に新しいが、カルタニアでもスペインからの独立を問う住民投票が実施された。歴史的にふりかえれば、沖縄は明治維新以前には琉球国であった。そして、維新後に琉球処分という方法で日本に組み入れられたに過ぎない。しかも、中国(清)と分割支配の交渉をしながらである。沖縄では独立論というのは目新しいことではなく、研究も議論も重ねられてきているが、日本と沖縄が、独立国家間の関係に立つのか、高度な自治を有する地域と国家の関係に立つのか、あるいは現在の関係が存続していくべきか、いろいろの議論がある。これが現在の状況である。ただ、これは明治維新後にかなり強引に中央集権化を進めた近代日本の中央と地方(地域)の関係を問い直す事態と重なっている。沖縄は東北であり、福島でもあるのだ。耳当たりがよい地方創性ではなく、明治以降の中央集権化された国家と地方の関係が世界史的動きに連動して出てきているのであり、沖縄はその先端というか、象徴のような場所を占めているのである。明治維新後の大久保と西郷の対立、日本国家や社会の構成(形態)をめぐる対立が見直されるべきことになっているのであり、沖縄の動きはそれを示しているのである。

 二つの選挙を通して注目すべきことがもう一つある。これは自己決定権と呼ばれる問題で「自分たちが暮らす地域の問題を決める権利は自分たちにある」という主張の現実化である。国民の意志が政治的決定の根幹にあるということが本来の『自由や民主主義』のことである。かつて沖縄は憲法体制への復帰を、いうならば自由と民主主義のもとに帰ってきたが、復帰後の歳月の中でその空洞化を知った。これを克服するのが自己決定権という自由で民主的な主張である。
 この点では「進んだ沖縄、遅れた本土」といえる。明治以降の官僚体制によって実質を欠如させられた「自由や民主主義」が地域住民《国民》に戻るためには彼らの言う自己決定権が不可欠である。自己決定権は憲法でいう国民主権の事といってもいいが、国民主権というのがよそ行きの言葉のような感がするなかで、これを考えていいのだと思う。安倍は憲法改正に手を付けることを宣言している。これを契機に国民が憲法を創出していく闘いに転じればいいが、その先行的闘いを沖縄の人たちはやっているのだと思う。
 (政治評論家)


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