落穂拾記(28)

石橋政嗣氏と溶解した社会党

                     羽原 清雅 


 先日、博多に住む元社会党書記長、委員長を務めた石橋政嗣氏を訪ねた。89歳。大いに元気なのだが、政治についてはあまり語らず、報道関係者にも会うこともない。国会40年の政治活動は必ずしも思いを果たすことはできなかったが、昨今の社民党や政治状況には『失望』というよりは『あきれてものがいえない』といった印象である。

 石橋氏は1951年長崎県議、1955年旧長崎2区で衆院初当選、1970年成田委員長のもとで7年間の書記長を務め、1983年飛鳥田辞任により86年まで委員長に就任、1990年土井氏の期待する立候補を蹴って政界を引退した。今も「平和・民主・人権」の信念は変わっていない。

 筆者は自民党担当のほうが長かったが、野党、特に社会党を担当したのは佐々木更三・勝間田清一・成田知巳・飛鳥田一雄・石橋政嗣・土井たか子・田辺誠各委員長までで、必ずといっていいほど抗争なり、選挙での敗退、委員長交代などの波乱があった。党大会が年5回、ということもあった。それぞれの委員長体制には個性や面白さもあったが、やはり成田・石橋時代が強烈だった。

 おおまかながら、石橋氏の動きを振り返りつつ、社会党の崩壊に至る道筋を追ってみたい。

1>1960年 岸内閣下での安保条約改定の際、論理的に首相を追及して『安保五人男』として、議員5年ながらその力量が評価された。
2>1966年 党是だった「非武装中立論」を具体化させて、自衛隊を国民警察隊に改組、漸進的に縮小する、との案を打ち出す。30万部発行の評判だった。
3>1971年 書記長として四日市・石原産業の公害の実態を国会で追及、環境庁設置や公害立法に鈍い佐藤内閣に拍車をかけた。
4>197、80年代 当初の全野党共闘路線から実現可能な社公民路線へと路線を修正して「政権」に配慮したが、公民両党の自民傾斜のほうが勢いづいた。成田委員長の全野党路線、さらに中国の覇権主義問題で衝突もあった。
5>1983年 委員長として中曽根首相相手に非武装中立論をぶつけ、自衛隊の「違憲合法論」を主張した。党内の反発に、最高裁の一票の格差判決を引いて「格差は違憲でも、選挙結果は合法」と同じ、と押し切った。

 石橋氏は、大半の書記長報告や党務報告、各種の原稿などを書記局に任せず、自ら執筆していた。総務局長時代には、連日朝から書記局に詰めるので、夜が遅く出勤の遅い書記たちもやむなく早い出勤にならざるを得ない、といったこともあった。けむたがる面々がいたのも事実だったが、強気の率先垂範であった。
 あれこれ考えて一度こうと決めたら、変えない。まずは自分自身で動く。頑固、意地っ張りである。「任せてくれないなあ」との不満も出たが、厳しく相手の能力も見る。

 石橋氏については、二つの点を紹介したい。
 ひとつは組織政党化の試みと社会主義協会との関係、もうひとつは記録的な外遊と野党外交の存在、である。知る人は知るが、メディアからも十分には伝えられていなかった、といえる。

■1> 組織政党化の試みと社会主義協会との関係

 成田委員長が1964年に打ち出した「成田3原則」は、社会党の基本的なもろさを言い得たものとして注目されていた。つまり、社会党の組織的欠陥は「日常活動の不足」「議員党的体質」「労組依存」にある、という反省の弁である。
 日常的な政党活動は共産党、公明党のようにはいかず、選挙前になると候補者や資金繰り、動員力などで労組の力を借り、代わりに労組の言いなりになりがちになる。また、議員らは選挙区での活動よりも派閥活動を重視、党人事や路線をめぐる党内抗争に走りがちになる。こうした体質を変えなければ党の再生はない、というのだ。

 そこで、成田・石橋執行部は「機関中心主義」を標榜して、まず「社会新報」の購読者を広げて財政基盤を作り、その資金をもとに専従の地方オルグを増やし、党自体の主体的な日常活動を強め、労組依存から脱して党と労組の関係を整理しようとした。労組の力に依存しなければ、候補者や議員は出身労組の言いなりになったり、労組幹部を卒業して国会に出ることを望んだり、といった風潮を排除できるし、労組とその企業の利害で動くような対応を断つことができるし、さらに一般からの有能な人材を国会に送れれば派閥がらみの言動を封じ込める、といった狙いがあった。

 山本政弘機関紙局長のもとで、「社会新報」の部数が増え始め、地方の若い専従活動家も徐々に伸びて、地方での党の体質に変化の兆しが見え始めた。
 ところが、行動的な党員の多くが、向坂逸郎氏らの影響の強い、理論に基づきがちな社会主義協会のメンバーだった。山本氏は現実路線の立場ながら、協会の幹部だった。そこに、これまでの党運営とは大きく異なってきて、従来のやり方に慣れた国会議員や地方議員らのあいだに戸惑いや反発が広がっていった。

 たしかに、労組の言いなりになる、議員の座にあぐらをかく、党としての日常活動に加わらない、権威を振りかざす、国会や県議会をタテに横柄な言動に走る・・・・といった日頃の先輩党員への批判や反発の材料が転がっていたことも事実だった。
 急増していく若い党員の情熱は燃えて、行動力も強まった。ところが、「自分たちが党を変える」、「既成の議員たちの手法を変えるのだ」という意気込みが、地方組織を「数」で抑え、古い党員や議員らの思いや経験を聞かない方向に進みがちになった。いわば、血気に燃えた急激な行動が全国に広がりそうになったことで、これに反発と危機感を覚えて、右派も左派も糾合する「反協会」の一大勢力を生み出し、協会系との摩擦が党中央で大きく表面化した。
 協会内には、党の体質改善をあまり性急にやらず、地方の古参党員や議員らとの摩擦を抑えようという現実路線と、折角の改革機運にブレーキをかけるな、という原則推進路線の対立が生まれていたが、必ずしも穏健な方向には踏み切れなかった。
 党中央の成田、石橋執行部は、双方の板ばさみとなり、本来の党体質の改革の動きが協会系の台頭にすり替えられていったことを惜しみながらも、強硬な「反協会」勢力を抑えられなかった。

 結局、若い党員たちの行動力や意欲は次第に衰え、「反協会」系の議員らも新たな改革の方向を打ち出すことはできず、双方にダメージを残して社会党の衰退を受け入れざるを得なくなった。
 おそらく当初の「3原則」を緒につけながら、予想外の展開となっていった状況に、当時の石橋氏らの思いは複雑だっただろう。社会党が社民党に名を変え、次第に消えていく姿に、かつての社会党を支えてきた幹部らが、憮然とした思いを漏らす様子をあちこちで見聞きしたものだ。彼らはみな、本来の社会党支持層は部厚く残されているはず、と思いながらも、取り残される焦燥感は消えなかった。

 しかも、党の組織化の方向に反して、「成田」後に就任した飛鳥田委員長は、一般的な人気はありはしたものの、打ち出した百万党建設の構想はいささか甘く具体化には至らず、キャッチフレーズのみで「風」待ちにとどまった。このあとの石橋体制も、「ニュー社会党」をめざすが、組織党への道に戻ることはできないままに交代。石橋氏を継いだ市民党的な立場の土井委員長もまた、マドンナ旋風などの一般人気に依存、政党としての足場作りにはほとんど関心を示すことはなかった。組織政党建設の試行はこのあたりで終わり、社会党溶解につながっていく。
 石橋氏とすれば、その後の村山富市首相の率いる社会党・社民党が与党化し、自衛隊合憲・安保堅持を言い出したことも、今日の保守化とオール与党化の引き金になったという思いが消えないだろう。
 そこに、引退した石橋氏の政治離れというか、社会党への愛想尽かしの根っこがあると言って差しつかえあるまい。

■2> 野党外交の足跡

 石橋氏は最近、外遊の記録をメモにまとめた。まずは個人的関心からだろうが、あらためてこれを見ると、最近の与野党幹部や議員には見られないほどの「野党外交」歴である。
 石橋氏は台湾に生れ育ったあと、戦争の悪化の時期に本土での軍人生活をさせられている。植民地から「日本」を見る眼があったことから、とくに海外に外交の必要を感じ、多角的にそうした経験を求めるようになったのではないだろうか。
 安倍政権はじめ、与野党の議員外交のなかに、中国、韓国、北朝鮮に対する外交努力が見えてこない昨今、あらためて社会党なり、石橋氏なりの姿勢には感じるものがある。

 一端をざっと紹介したい。

(中国)毛沢東主席、周恩来首相<3回>、胡耀邦、李先念、王震、喬石<2回>、胡啓立<2回>
(米国)エドワード・ケネディ上院議員、ロバート・ケネディ法務長官、キッシンジャー大統領補佐官・国務長官<3回>、ブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、アーミテイジ国務副長官、ライシャワー大使、マンスフィールド大使<5、6回>
(ソ連)フルシチョフ書記長、ミコヤン書記、スースロフ書記<3回>、ゴルバチョフ大統領、シュワルナゼ外相<2回>、ポノマリョフ書記<2回>
(韓国)盧泰愚大統領、李賢宰首相、金在淳国会議長、金大中平和民主党総裁<のち大統領、4、5回>、金泳三統一民主党総裁<のち大統領、7、8回>、伊吉重民主正義党代表委員
(北朝鮮)金日成主席<2回>、金永南全人代委員長
(台湾)李登輝総統、郭白村行政院長、黄尊秋監察院長、銭腹外相<各2回>、林洋港司法院長
(豪州)ウイットラム首相、ホーク首相
(ニュージランド)ロンギ首相
(ポルトガル)ソワレス首相
(スペイン)ゴンザレス首相
(英国)ベン労働党副党首、コウタッチ大使<4、5回>
(東独)ウルブリヒト大統領、ホーネッカー大統領、マルコフスキー国際部長
(ルーマニア)ゲオルゲ・デジ大統領、チャウシェスク大統領
(ユーゴスラビア)チトー大統領
(ブルガリア)ジフコフ大統領、セレベゾフ大使<約10回>
(ギリシャ)メルクリーヌ文化相

 社会党幹部(国際局長、書記長、委員長)としての訪問・会談が多いのは当然だが、随行した国際局の書記らの話では、石橋氏の明快な分析と物言いから日本の実情を聞きたいというアプローチが多くあり、また単なる野党の幹部ながら相手に会談を申し込んでも容易に会談が実現できた、という。

 北朝鮮では、金日成主席と約10時間会い、民間漁業協定の協議再開を取り付け、これには安倍晋太郎外相からお礼の食事に招かれたという。また、「南進しない。民族間の戦争はしない。米軍撤退と核兵器撤去を南北米3国会談の条件としない」など、いまの北朝鮮とは異なる主席発言を聞いている。
 韓国では、金泳三に招かれ、彼の望んだ訪ソの受け入れを仲介、これが実現して、のちに盧泰愚・ゴルバチョフ会談の道を開くことになった。

 中国は、1960年の鈴木茂三郎委員長に同行、毛沢東主席について「西郷隆盛を彷彿とさせる、と書いて不評だったが、晩年の文化大革命という大きな過ちを見て、直感は必ずしもピント外れではなかった。毛も西郷も革命の人で、建設の人ではなかった。建設の人は実権派の劉少奇・周恩来・小平、日本では大久保利通・伊藤博文」との趣旨を石橋氏はメモに書いている。 周恩来首相については「世界のトップ・リーダーの中で頭脳明晰の人といえば、間違いなく数えられる」とし、また必ずしも文革支持ではなかった、と見ている。1970年の3回目の訪中では、石橋氏は当時大きな論議になった「日本軍国主義の復活」について、「復活しているとは思わない。(中国は)非武装中立を批判するが、軍国主義の復活を阻止しているのはわれわれ護憲の勢力だ」として対立した。

 ソ連では、1964年に会ったフルシチョフ首相は「失脚直前で魅力なし」と見た石橋氏だが、「高く評価しているのはゴルバチョフ大統領」と記す。約束の時間の10分前には迎えに出ていた、といわれたが信用しなかったところ、その映像を同行記者団から見せられ、「その謙虚さ」に驚く。会談が始まると、昼食抜きで約4時間。「存分に話し合い、こちらの意見にも真摯に耳を傾ける」「(ソ連が)今の侭では駄目だという確信から、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)の旗印を高く掲げて改革に立ち上がったということは、特権的な地位・独裁の放棄に他ならない」と讃える。

 米国には1984年、委員長として出向いた。「党内に、米国、韓国、南ベトナム、インドネシア等に行くことがタブーといった空気のあるころから、私に会いたいという人とはどこの国の人とも会うようにしていたので、それが実際に訪問した時に大変役立った」と書く。キッシンジャーには、富士銀行の岩佐頭取からの電話で『在米中に会ってもらえないか』といわれて会うことになり、その後もニューヨークと東京で会っている。ブッシュ副大統領とはおもに核軍縮の実現を迫った、という。

 ところで、石橋氏は「あと味の悪い会談—好きになれない人物」として、ルーマニアのチャウシェスク大統領をあげている。1974年の2回目の訪問で会い、「非常に神経質なワンマンという印象を強く受けた。権力の座を追われ、逃亡の果てに追い詰められ、国民の手で殺された最後の姿を見て、なんとなく分るような気がした」と綴った。
 もうひとりはユーゴスラビアのチトー大統領。いったん断られたが、会うことになり、遠隔地で狩猟しているので、その山中のホテルに3日間かけて向かう。「到着するから玄関に出てお迎えをするように」と言われたあと会談に。だが、あと味悪く、「周囲の者が神格化させる為に努力している実態を目の当たりにするにつけ、独裁者はこのようにして作られるのだと強く実感させられた」と書いている。

 石橋氏は本や資料を大切にしていた。書籍類ばかりでなく、スクラップブックもきちんと整理され、数十冊に及んだ。それらは今どうなっているのだろうか。
 大半を贈られた国立国会図書館には、石橋政嗣関係文書として選挙演説や論文の自筆原稿、国会質問の原稿、日米安保・防衛・沖縄・日中・日韓などの準備ノート、海外訪問団の報告書、掲載紙誌など約1500点があり、最近ではレーニンの革命当初のレコードなどが収められた。
 また選挙区だった佐世保のシーボルト大学と早稲田大学の図書館にも贈られて、かなりの蔵書が収蔵されている。早大図書館の日本政治文庫はまだ、開設に至っていないのだが。
 政治家が後世に記録を残すことは、ひとつの責務ではなかろうか。できれば、日記をつけてほしいところでもあるが、「秘密は地獄にまで持っていくよ」という人物もいて思うようにはいかない。

 じつはこの稿を起すには、ひとつの理由がある。
 社会党の歴史や実態を書いた書物は多い。だが、派閥抗争のなかで関係者や新聞記者が書いたものが多く、大半は細切れの新聞記事をまとめたか、混迷を時系列で書きまとめたか、あるいは派閥や抗争の背景説明にとどまるか、といったものが圧倒的だ。出来上がったものからの孫引きや、再検討なしの記述も少なくない。社会党の歴史には是もあり、可もあるが、社会党が戦後の二大政党下の政治を動かし、ブレーキをかけ、各種の政策等を進め、チェックし、ときに失敗を重ね、それらに対してどのような結果が残され、あるいは日の目をみなかったか、あるいは世論の受け止め方はどうだったか、といった日本政治の構造のなかでのトータルな分析、研究はまだ不十分である。

 それでも最近、当時を実体験していない若い社会党の研究者が出てきている。過去の書物にとらわれず、往年の文献や記事を最初から再検討し、比較しつつ読みこなして、戦後政治の全体像の中での社会党の存在を客観的な姿勢で見直すことが必要だ。なまじっか当時を知って先入観にとらわれるよりも、白紙状態で見直すことが望ましい。少し長い眼で歴史を固めてほしい。
 九条の会や原発ゼロの運動など地域単位の部分的な組織はともかくとして、政党をバックアップしたり、苦言を呈したりするようなナショナル・センター的な全国規模の組織、かつてのことでいえば総評や同盟などの機能が存在しなくなった昨今(連合はその機能を果たしていない)、もういちど「戦後」の社会を、新しい感覚で見直してはどうだろうか。

 そのような思いもあって、石橋氏の健在に端を発して、若い人たちに書き留めてみた。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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