砂川闘争60年と辺野古闘争 (1)

【沖縄の地鳴り】

砂川闘争60年と辺野古闘争(1)
〜デニス・J・バンクスの話

仲井 富


 昨年2015年は砂川闘争60年の年だった。激突の1955年、56年、57年を回顧して現地砂川で記念集会が開かれ、今なお続く沖縄辺野古闘争との連帯を誓い合った年でもある。そして砂川闘争と伊江島の伊江島米軍基地と非暴力闘争が1955年前後に相呼応して起きていたことや、砂川の宮岡政雄行動隊副隊長らと、沖縄のガンジー阿波根昌鴻との交流と連帯が当時から続いていたことを知った。そして宮岡副行動隊長の娘である福島京子さんが、辺野古現地闘争に参加し、砂川闘争の歴史ある旗を掲げ、連帯のメッセージを送ったことも特筆すべき出来事だった。ともに非暴力不服従の旗を掲げて闘い今日の辺野古闘争にひきつがれている。

 私は22歳の1955年秋、社会党軍事基地委員会(委員長加藤勘十)の新米書記として現地闘争の裏方をつとめたが、ただただ夢中で過ごした現地闘争であった。年月を経るにつれ闘争の歴史には裏と表があり、さまざまな発見がある。そのなかで強く印象に残ったことを記してみたい。
 その一つが、宮岡さんが砂川の非暴力闘争の信念を貫くもととなった、日本山妙法寺の西本敦上人との出会いである。「流血の記録砂川」に登場する西本上人は、1956年10月の機動隊による暴行で重傷を負い入院した。その西本上人たちが警官隊の警棒に無抵抗のまま乱打されている姿を基地内から目撃していた米軍の若い兵士がいた。それが後年、日本山に帰依することになる、デニス・J・バンクスだった。

 そのデニス・J・バンクスの一文を私が読んだのは2009年春のことだ。日本山妙法寺のインド布教にたずさわっている森田上人の手紙によって知ることになったのである。きっかけは2009年4月21日、この日国会前でうちわ太鼓を毎日行じていた日本山の坊さん三人をお接待することにした。かつてともに砂川現地の闘争で親しくしていた西本敦上人の話をしたかったし、現在の日本山の現役の坊さんたちの話も聞きたかった。
 そこで森田捷泉、大津行秀、石橋行受の三上人を、顔なじみの九段下の和食の店「ベル」でお接待をさせていただいた。西本上人の話を喜んで聞いて下さり、月刊誌「むすぶ」に書いた西本上人の砂川闘争の記録を差し上げた。ちょうど西本敦上人の命日が、4月29日だったこともあり、彼の供養にもつながると思った。当日の日記に「西本上人の話を彼ら三人とした。食膳食後合掌、よき日だった」と書いている。後日インドに滞在する森田捷泉上人から礼状が届いた。

 ——南無妙法蓮華経、ご健勝にて平和正義のために一意専心して居られますことと拝し申し上げて居ります。国会御祈念中激励に来て下され、その後私たちに西本上人様の追善供養の為として施食を致して下さいまして感謝申し上げます。貴方様が書かれました西本上人様の追悼即ち平和運動の記事サルボダヤの事務局長の浅井師にお渡ししました。砂川闘争に対します当時、米軍に居りました方の感想文が在ります。異種結縁の貴さを教えられます。ガンディー精神も非同盟・中立も世界中のあらゆる平和勢力も、良識者の連帯又良心有りまする人々が消され挫かれ弾圧されてまいりました。真に第六天の魔王というものは、巧妙狡猾あらゆる国のあらゆる階層の人々を操って行く見事さで有りますね。全てのものが服従して居る様です。それに対して私どもは素手で青鼓殺人・天鼓自然鳴のお祈りしかないと信じて、それを行ずるのみです。私の畏敬する又戦後の平和運動の先駆を為された西本上人様を顕彰して頂き改めて感謝申し上げます。日本の方も動きも重要なのですが、一年を通して日本に居りません故、一貫した動きができません。それでは又、御礼まで。森田捷泉 拝具——

 森田上人の手紙に添えて以下に「運命的な出会い」と題する、デニス・J・バンクスの一文が同封されていた。

●運命的な出会い デニス・J・バンクス

 —私は一九五三年から一九五八年までアメリカ空軍の軍務に服した。その間、一九五四年から一九五八年までの四年間は立川の砂川基地に駐屯していた。一九五五年、立川空軍基地拡張に反対する運動が起こり、米軍はこの運動が基地に直接的に危害を加えるのではないかと、その防備対策にやっきになっていた。事実、軍部は私たち兵隊に緊急体制につくよう指令をだした。すなわち、反対運動グループが基地になだれこむようなことがあった場合に備えて、一日二四時間、厳重な武装警備にあたることになった。「基地のフェンスを乗りこえて侵入しようとする者は、射撃をもってしてもそれを阻止すること」という命令がでたためである。

 私も含めて仲間の兵隊たちは、この命令に喜んで服する気にはなれなかった。私たちは軍事的攻撃に対して行動する訓練を受けてきたのであって、一般市民に対して銃を向けるために訓練されてきたのではなかったはずなのだ。にもかかわらず、それは「米軍」対「基地拡張に抗議する市民」のあからさまな対立という様相を呈するに至ったのである。しかし、デモ隊からの暴力的行為は全くなかった。暴力行為は警備にあたった警察の側から一方的にデモ隊に向けられ、フェンスの外で数名の仏教僧が太鼓を打ちながら唱題しているのを最初に目にしたのは、そんな行動を開始したある早朝のことだった。仏教僧の後には何百、何千という学生、農民、市民が続いていた。仏教僧は唱題をひとときも中止することなく、穏やかにそして平和的に抗議を続けた。

 それは奇妙なシーンであった。フェンスの内側には、完全武装をした私たち米軍兵士が立ちならび、外側には、自衛隊のバックアップを受けた日本の警察がならんでいるのである。その正面に、仏教僧たちがひたすら唱題しながら座り込んでいた。と突然、何の警告もなく警察官たちが平和的なデモ隊に襲いかかり、警棒で仏教僧を打ちのめした。あたりには血が飛び散り、それは大きな混乱と騒動に発展した。フェンスの内から私は多数の警察官が人びとを殴り続けるのを目撃したのである。仏教僧たちは打たれても、殴られても、決して殴り返そうとはしなかった。なんだって彼らは、ただ座り続けて、殴られるに任せているのだ、私には理解できなかった。どうして立ち上がり、反撃しないんだ。その光景は以来、今日に至るまで、私の脳裏に鮮明に焼きついて離れない。

 それから二○年余りの歳月が流れた。私は峰松茂樹という名の仏教僧と出会った。それは一九七七年、カリフォルニアでのことであった。彼は、私がいつか、ずっと昔、どこかで聞いたことのある言葉で祈る僧であった。どこで、その言葉を聞いたのか、私は思い出せなかった。彼は平和と人類のよりよい相互理解のために祈っているのだ、と私に語った。
 一九七八年に私たちアメリカ・インディアンは、反インディアン法の制定に抗議して、カリフォルニアのアルカトラス島からワシントンD・Cまでの大陸横断行進“ロンゲスト・ウォーク”を始めた。峰松上人は彼の仲間たちもこの行進に参加し、私たちに力を貸すといった。そして最後には、僧、市民、農民、学生が闘いに勝利したのである。そして彼は藤井日達グルジーについて語った。

 私が初めて藤井グルジーにお逢いしたのは、インディアンの精神的センターであるD・Q大学だった。グルジーは私たちの招待に応えられて、スウェット・ロッジに入られ、私たちと共に祈られた。アメリカ・インディアンと日本の仏教という二つの文化が出会い、交わり合うさまを、私は心から嬉しく思った。グルジーは“南無妙法蓮華経”の祈りの意味を私に語られた。そして、非暴力について、核戦争の廃絶について語られた。

 ロンゲスト・ウォークの夜、グルジーは私を日本とインドに招いて下さった。私は二カ月間、日本山妙法寺の尼僧と共に旅をして回った。その間、何度も藤井グルジーと親しく話を交わす時を持ったが、ある日、私に彼の仏教僧としての一生を語る写真をみせて下さった。その中に砂川闘争の写真があった。グルジーのお弟子の一人が死んだことも話された。わたしも1956年の砂川にいたことを語った。それは不思議な再会であった。私たちは互いに深く理解し合った。
 翌日、私は砂川闘争の記念碑を訪れ、祈った。そのとき私はなぜデモ隊の先頭にいた僧たちが殴られたり打たれたりしても決して殴り返そうとしなかったのか理解できた。“南無妙法蓮華経”の祈りは、彼らの信仰の表現であり、その祈りの力をもってのみ彼らは基地拡張に抗議していたのだ。そして最後には、僧、市民、農民、学生が闘いに勝利したのである。

 藤井グルジーはアメリカ原住インディアンに、仏教に対するよき理解をもたらされた。それは実に素晴らしい理解だ。人類を救わんとする真の思い、そのものである。そして代わりに、グルジーとそのお弟子方はアメリカ原住民の信仰と生き方を理解し、学ばれたのだった。
 この二つのヴィジョンの絆は、損なわれることなく永久に続くことであろう。いかなる国も、この強い粋を切り離すことは決してできないであろう。
 私の民びとたちは、藤井グルジーの健康と長寿を祈ってやまない。
 私たちは、すべての国が互いに平和に交わり合うことができる日まで念仏僧たちと共に祈り、行動しつづけるであろう。
 南無妙法蓮華経
 私の民びとたちは、藤井グルジーの健康と長寿を祈ってやまない。人びとの
ために祈ってやまない。
 私たちは、すべての国が互いに平和に交わり合うことができる日まで仏教僧
たちと共に祈り、行動し続けるであろう。
 南無妙法蓮華経

<筆者紹介> Dennis J. Banks:ミネソタ州出身のオジブエ族。1975年、サウス・ダコタ州において無実の騒乱・暴行罪で有罪と決定されたが、事前にカリフォルニアに逃亡。アメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)の指導者。現在、東海岸のインディアン唯一の国オノンダガにおいて農耕生活。


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