硫黄島守備隊作戦主任参謀中根中佐と私

硫黄島守備隊作戦主任参謀中根中佐と私   今井 正敏

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  「オルタ」に連載の「臆子妄論」で毎号健筆を振るっておられる西村徹先生が 44号ではいつもとは違って「NHKスペシャル『硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言』を書かれている。上記の放送は昨年夏に放映され、放送文化基金賞やテレビドキメンタリー番組部門本賞などを受賞した話題の番組だ。8月5日に再放送されたのだが、西村先生はこれを「見逃すことが出来ない重い内容のもの」と知人に見ることを薦め、その反響「臆子妄論」にまとめられている。
  私の場合、この硫黄島の戦いに栗林兵団(第109師団)の司令官の補佐を勤めた作戦主任参謀中根兼次中佐と血縁関係にあったので特別な思いで見た。
 私が中根参謀と血縁関係にあることを知ったのは太平洋戦争のさなか昭和18年の春、中根参謀の実弟中根昭二大尉がわが家に来られたときである。幕末に三河の豊川に住んでいた中根家の元助という人が、はるか東の下野足利に近い荒荻村の今井という家の入婿になり、当主になったという手紙の真偽を確かめるために大尉が足利市役所の協力で今井家を探し出して訪ねてきたのである。確かに私の家の先々代に元助という人が実在していたので、この中根大尉の来訪で中根家と今井家の縁が明らかになった。他国に行くなど難しい幕末に、なぜ三河から下野の在の農家にやってきたのか。なぜ入婿になったのか。わが家にも記録はなく、頼るのは一通の手紙だけだった。中根家と今井家の縁は確認できたので、今後は離れていても親戚として付き合うことが中根大尉と約束された。

  大尉との懇談で、中根家は軍人一家で、お父さんは退役の陸軍少将、大尉の長兄は中佐で関東軍の参謀だったが先ごろ千葉県習志野にある歩兵学校の教官に転任になり、内地に戻ってきたこと、弟は少尉で台湾にいるなどが話された。また、本人は昭和12年の南京攻略戦脇坂部隊の連隊旗手をつとめ、南京一番乗りと言われた光華門突入のとき、光華門上で軍旗を高く掲げた写真が新聞に大きくでたことなども語られた。

  この光華門上での写真は、私もよく記憶していたので、その本人がいま私と話しあっていることを知って驚いた。当時、私の兄が近衛兵として東部8部隊(旧麻布3連隊)におり、中根大尉来訪のあと兄が中根中佐に面会に行くなど中根家との実質的な交際が始まった。
  終戦の年の9月中旬、民間人になっていた中根元大尉から「兄は硫黄島守備の栗林兵団作戦主任参謀を務めていましたが玉砕で戦死しました」という手紙が来た。これによって米軍の死傷者が日本軍を上回った唯一の戦場といわれた硫黄島の戦いで栗林兵団の作戦主任参謀として1カ月余にわたる死闘の中心にいたことを知った。
  遠いむかしのこととはいえ、血縁にある中根中佐がこの戦いでどのような働きをしたのか探索しようという思いが強まり硫黄島玉砕戦の模様を調べ始めた。

  硫黄島の戦いについての書籍や雑誌は数多くでているが、それらのなかで中根中佐の名前が最も多くでているのは栗林兵団のなかでただ一人生き残ったといわれる堀江芳孝少佐(戦いが始まる前、打ち合わせのため父島の小笠原兵団司令部に行って助かった。)が書いた『闘魂 硫黄島』という本である。このなかで「栗林中将は敵上陸後1週間位は兵団長として統率していたがノイローゼで全く役に立たぬ状態であり、高石参参謀長、中根参謀、海軍の市丸参謀が中心になって司令部が運営されていた。命令は中根参謀が全部起案、最後の兵団長告別の辞(大本営打電)も中根参謀の筆である。」
  また、ショッキングな証言として「3月23日、D長(注・栗林中将)は、ここまで善戦してきたのだから降伏しても良いといわれ、自ら白旗を掲げ兵数名を伴い、米軍第一線に赴き降伏交渉をしてきた。中根参謀は降伏すべきでないとD長を諌めたがD長は聞かなかった。中根参謀は壕の入り口で自己の軍刀を抜き、D長の首を刎ね、自ら拳銃で自殺した。」とある。

  この堀江参謀が書いた本以外にも戦いが終わりに近づいた3月17日ごろからは中根参謀が実質的に指揮をとるようになり、命令も同参謀が出すようになった。とする生き残った兵士の証言が3点ほど出ている。
  昨年、硫黄島玉砕戦で勇戦敢闘し、散華した栗林忠道陸軍中将のことを書いた『散るぞ悲しき』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した梯久美子さんは「文芸春秋」二月特別号で『<検証>栗林中将衝撃の最後』を執筆している。梯さんはそのなかで、白旗を掲げての降伏と中根参謀による惨殺説、ノイローゼ説などを詳しくとりあげ、この説の出所である堀江少佐の証言は堀江少佐が父島にいて実戦に参加しておらず、全部伝聞または憶測にもとずくものであること、米軍の記録の中に、降伏の記述は全くないこと、堀江少佐に話した証言者の発言の中に多くの矛盾点があることなどをあげて、堀江少佐の記述には信憑性がないと断じている。このためか『散るぞ悲しき』には中根参謀は全く登場していない。
  梯さんは栗林司令官の最後について「栗林の死の瞬間を直接見た者は一人も生還していない。」と書かかれて、栗林中将絶命の模様は防衛省防衛研究所戦史部が編纂した 『戦史叢書』に記述されている状況が最も信頼できるのではないかと述べておられる。
  「栗林は一カ月余りの徹底抗戦の末、生き残った部下を率いて最後の突撃の先頭に立ったが、敵陣に向かって前進する途中っで重傷を負い、最後は力尽きて拳銃で自決した。」
 梯さんは触れていないが『戦史叢書』には「この栗林のあとを追って、同行していた高石参参謀長と中根主任参謀も拳銃で自決、この守備隊司令部要員の自決によって硫黄島の戦いも終末を迎えることになった。」と記されている。
  このような形で私と血縁にあった中根中佐も硫黄島で散った。これらについて中根元大尉からはまったく音沙汰がなく、わが今井家と中根家との関係も硫黄島での戦いの終結と同じように絶えてしまった。

                 (筆者は元日本青年団協議会本部役員)

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