社会主義インターと日本社会党

■ 【河上民雄、20世紀の回想(第2回)】        河上民雄    

-社会主義インターと日本社会党-

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 本稿は2009年5月11日および2010年2月6日に実施された河上民雄氏(元衆議院
議員・元日本社会党国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したもので
ある。5月11日のインタビューには浜谷惇氏が、2月6日のインタビューには浜谷
惇氏・加藤宣幸氏・山口希望氏および岡田が参加した。

◇質問:今回は日本社会党の国際関係についてうかがおうと思います。社会民主
主義政党の国際組織として社会主義インター(SI)が存在し、日本社会党(社会
党)も参加していたわけですが、両者の関係はどのようなものだったのでしょう
か。

●河上:戦後の非常に早い時期、1947年にSIの前身であるコミスコが設立されて
いますが、社会党はこれには特に関係なかったのではないかと思われます。当時
の社会党がGHQを飛び越えて国際組織と交流するわけにはいかなかったでしょう
から。1951年にSIが発足しますが、社会党は発足時からこれに加盟しています。
社会党が左右に分裂したときも、それぞれの社会党が加盟党としてSIに代表を送
っています。SIは原則として一国一党でしたが、日本については例外として一国
二党を認めていました。1960年に社会党から分かれて民社党が結成されてからも、
社会党・民社党両方がSIに代表を送っていました。
 
SIの設立から間もないときは、社会党はSIの活動に大変熱心に参加していまし
た。また、1954年9月には両派社会党でイギリス労働党の幹部のべヴァンさん(
元保健相、左派の指導者)やビルマ社会党の指導者でアジア社会党会議のウ・バ
スエ議長、同党のウ・チョウニエン書記長をわが国に招き、大変な人気でマスコ
ミでも大きく取り上げられました。SIの下部組織として1953年にアジア社会党会
議が設立されたときも、社会党両派は代表を送っています。そして、その事務局
を構成するために、右社は渡辺朗さんを、左社は館林千里さんを本部のあったビ
ルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に順次派遣していま
す。ただ、大変残念なことに、1962年3月ビルマで軍事政権が樹立され、ビルマ
社会党は粛清され、指導者たちも国外に逃れたり、国内での蟄居を余儀なくされ
ました。これによって、アジア社会党会議は事実上終わりを告げます。いまも国
際的に問題になっているビルマの軍事抑圧体制の始まりでした。

◇質問:その後の社会党とSIの関係はどうなりましたか。

●河上:鈴木茂三郎・浅沼稲次郎・河上丈太郎委員長の時代までは社会党はSIと
の交流に熱心であったと思います。このころはSIの会議には国会議員クラス、特
に党の最高幹部が参加していました。ところが、佐々木更三・勝間田清一・成田
知巳委員長のころになると、SIは社会党にとって縁遠い存在となったという印象
があります。SIの会議にも党本部の書記クラスが参加し、党の最高幹部ではない
ので、出席の重みは随分違ったものになったのではないでしょうか。もちろん、
その間をつないだ党国際局の山口房雄、藤牧新平、杉山正三の歴代国際局書記の
努力を無視することは適切ではないと思います。ただ、言えるのは、戦前の無産
運動を経験していない社会党の指導者はSIにひどく無関心であったということで
す。(佐々木委員長は戦前の無産運動を経験しているので、過渡期の指導者であ
ったと言えます)このころになると、社会党内では親ソか親中かといった議論が
国際交流をめぐる議論の中心を占めるようになりました。

◇質問:社会党とSIの関係が復活するのはいつごろですか。

●河上:江田三郎さんが1975年に訪米したころです。江田さんは訪米の後、ヨー
ロッパに渡り、スウェーデン社会民主党・イギリス労働党の大会も傍聴していま
す。私も同行していましたので、よく記憶していますが、江田さんはヨーロッパ
社会民主主義政党の大会の空気に感銘を受けていました。そのころ、社会党はSI
の会費を滞納していましたが、江田さんが滞納分の会費を社会党が支払うよう色
々と尽力されたと聞いていました。しかし、実際は党国際局の書記の杉山正三さ
んがそれ以前の滞納分の会費を社会主義インター本部に納めており、江田氏が社
会主義インターとの間に、それほど深い関係があったとは思われません。

その後、1977年に私は飛鳥田一雄委員長の下で国際局長に就任したのですが、
そのときにはSIの会議にはなるべく私が出席するようにしました。当時の社会党
は、国会議員の場合、海外出張は全部自己負担という決まりになっていたので、
その都度海外に飛んでゆくのは、中ソ以外の場合、容易なことではありませんで
した。あるテレビ局で、テレビ討論会を終えて廊下を歩いているとき、共産党の
上田耕一郎さんに「河上さんは全部自弁だそうですね」と声をかかられ、私が
「共産党に同情されるようでは、社会党もお終いだね」と切り返すと、大笑いに
なったことをよく覚えています。

◇質問:河上先生が国際局長に就任された経緯をお教えください。

●河上:実は1978年のSI大会を東京で開くよう、SIに働きかける動きが社会党に
ありました。しかし、国際局の杉山さんがジュネーブ大会に出席する前にロンド
ンの社会主義インター本部(ヤニチェック事務局長)に申し出たときは、1978年
の大会はカナダのバンクーバーで開かれることが既に決まっており、SI東京大会
は実現しませんでした。代わりに1977年12月17日に、東京でSI首脳会議が開かれ
ることになりました。もちろん、インター側は日本社会党単独ではなく、社会、
民社両党の共催を求めたといいます。当時、G7はまだ日本で開かれておらず、日
本に各国の首脳が集まるというのは珍しく、マスコミにも大変注目されました。
 
そのSI東京首脳会議を担当する社会党の国際局長は田英夫さんが務めていたの
ですが、1977年9月27日に社会党を離党し、社会民主連合の代表に就任してしま
いました。東京首脳会議の責任者を空席にするわけにはいけないので、私が国際
局長の役割を務めることになり、マドリードで行われた準備会議に私が社会党の
代表として出席しています。

実はその年の社会党大会で国際局長に私を推す声もあったのですが、田さんも意
欲があるというので、いわば旧河上派の先輩が二人が対立する事態になることを
心配して、私が身を引くように説得に来られたので、私も即座に田国際局長を押
すことにしたという一幕がありました。正式に国際局長に就任したのは、1977年
12月13日に飛鳥田委員長が選出されたときのことです。

◇質問:国際局長時代に印象に残った出来事についてお教えください。

●河上:1980年11月13~16日にスペインのマドリードでSI大会が開かれました。
大会の前日に幹事会が開かれ、社会党からは私が、民社党からは渡辺朗さんが参
加しました。このとき、大会冒頭におこなわれるヴィリー・ブラントSI議長の総
括演説の内容が問題になりました。

当時、韓国で金大中さんに死刑判決が下され、死刑の執行が迫っていました。
彼はその年の5月に起こった光州事件の首謀者とされて、死刑判決がくだされて
いたのですが、光州事件当時、彼は獄中にあり、民衆を扇動・指揮できるわけが
ありません。明らかなでっちあげ裁判でした。そこで、私は「総括演説の人権問
題の項で金大中という具体名を入れなければSIは、韓国の全斗煥政権に対して、
金大中の死刑を容認しているという誤ったメッセージを与えかねない。ぜひ具体
名を入れるべきだ」と主張しました。

一方、渡辺さんは「そこまで書くと韓国政治に内政干渉することになる」と言
って猛反対しました。私と渡辺さんが大激論になり、その席にはフランス社会党
の、のちに首相になるジョスパンさんもいましたが、アジアのことがよくわから
ないヨーロッパの党の人たちは皆、唖然と私たちを見守っていました。結局、そ
の場では何も決まりませんでしたが、議論を聞いていたディンゲルスさん(西ド
イツ社会民主党書記局の長老)が、夜、ブラント議長にこの問題を伝えたようで
す。
翌朝、私が朝食を終え、ジェネラルミーティング(総会)の開始を時計を見な
がら待っていると、廊下の向こうからブラント議長を先頭に十数人の一団が通り
過ぎようとしました。その中のディンゲルスさんが私を見つけて、「ミスター河
上、あなたにとってとてもいいことをブラントが言うから、あなたは何も言わな
いでいい」と言って、通り過ぎていきました。

そしてブラント議長の演説が始まりました。演説内容は、日本の国会での施政
方針演説と同じように全代議員にプリントが配られており、我々がそれと見比べ
て聞いていると、人権の項にきたときに、ブラント議長はその最後に、予定稿に
書かれていない衝撃的な言葉を加えます。"Kim Dae-jung must not be killed"
(金大中を殺すな)という言葉を彼が三回叫ぶと、会場は総立ちになり、鳴り止
まぬ拍手が起こりました。私がスタンディング=オベイション(standing ovation)
を見たのはこの時が最初でした。社会党代表団は飛鳥田委員長以下みんな立ち上
がって拍手をしましたが、ふと民社党の席を見るとここだけ代表団全員が座った
ままでした。

1981年2月には、オーストラリアのシドニーでアジア太平洋地域社会主義政党
会議(APSO)の第1回大会が開かれました。当時のSIのヴィリー・ブラント議長、
ベルント・カールソン事務局長はSIをよりインターナショナルに、すなわち、
ヨーロッパだけでなく、アジア・太平洋地域をも重視していこうという方針を持
っており、APSOが誕生したのです。このときも人権問題の項に「金大中」という
具体名を入れるか、入れないかで再び大変な議論となりました。

APSOではオーストラリア労働党とニュージーランド労働党の比重が高く、特に
開催地のオーストラリア労働党は終始、会議をリードしていました。そのオース
トラリア労働党は当初、民社党の主張に同調していましたが、民社党代表が「韓
国大使館が我々を注視しているから、注意深く議論すべきだ」と述べると、この
言葉に反発して、かえって社会党の意見に傾いてしまいました。

当時、朝鮮半島ではブラント議長の影響力は大きく、さすがの全斗煥政権も「
金大中を殺す」ことは出来ませんでした。それから時間はかかりますが、金大中
さんの刑は減刑され、最後には釈放されました。その後、彼は何度か大統領選挙
で負け続けますが、1998年についに韓国大統領に当選します。
 
私の国際局長の時代は1977年12月から1982年2月までの約4年間でしたが、もう
一つ忘れがたいのは1981年5月、飛鳥田訪朝団としてピョンヤンで東北アジア地
域における非核・平和地帯創設に関する共同宣言の起草にあたり、激しい議論の
末、合意、発表することができたことです。両党首脳(飛鳥田委員長、金日成主
席)が出席した全体会議で共同宣言を出すことが確認され、双方が提出した名簿
による5人の起草委員に起草がまかされ、先方は金永南さん、玄峻極さん、当方
は私、大塚俊雄さん、船橋成幸さんで、その日の晩と翌朝早くの二回にわたって
協議が行われました。

第1回の時は玄さんのみ出席で、朝鮮側のタイプ印刷した
案文を頑なに主張し、わが方も予め用意した案――それは政治会談に臨む前に訪
朝団として承認したもの――を一歩も譲らず、その晩は相撲でいえば水入りのよ
うな形で別れ、翌朝の第2回の協議に臨むと、今度は金永南さんが玄峻極さんと
一緒に出席、2回目の会議の冒頭、わが方の前夜の会合での案と主張を大幅に取
り入れた新しい案文を提案したので、私も咄嗟に「それでは金永南先生の新しい
案を叩き台で、今朝は議論したい」と申し入れ、討論は進みました。

 尚やり取りがあり、北朝鮮側は、わが党の非核地帯の範囲についての"朝鮮半
島と日本及びその周辺"という案では中ソの領土をカバーすることを怖れてか、
頑強に"朝鮮半島と日本の領土、領海、領空"と主張しましたが、私がそれでは公
海上の核実験を禁止対象にカバーできないのではないかと反論すると、金永南さ
んがしばらく沈思黙考の末、「周辺海域」という定義を持ち出して、我々も同意
して、決着しました。
 
  飛鳥田委員長の回想、『飛鳥田一雄回想録』(朝日新聞社刊)によるとそうで
はなくて、事前に密使としてピョンヤンに派遣した船橋さんがこの名案を考えだ
し、金永南さんがそこで同意したとされています。昔のことになると、お互いに
思い違いが多くなりますが、5人の起草委員の息をのむような二日にわたるやり
取りを想起すると、飛鳥田委員長の回想には、私としては今一つ納得できない気
持ちです。なお、5人の起草委員のうち、大塚俊雄さんと玄峻極さんはすでに故
人となっています。金永南さんは現在、最高人民代表会議常任委員長の要職にあ
り、金正日総書記・軍事委員会委員長に次ぐNO.2の地位にあります。
 
  国際局長を辞したあとのことですが、1983年1月厳寒のなか、中国からの招き
で北京に赴き、中国共産党中連部と話し合った末、日本社会党と中国共産党とが、
党と党の正式の党関係を樹立することにした事も、もう一つの思い出です。
 
最終的に喬石中連部長(のちに政治局常務委員)と私の間で合意が確認されま
したが、私が国際局長時代に主張していたこととはいえ、国際局長を辞任したあ
とであったので、中国共産党から日本社会党に正式に申し入れてもらうこととし、
事実、その通りの手順を踏んで、わが党代表(八木国際局長、曽我副書記長)
が北京に赴いて調印しています。1989年6月4日の天安門事件で、両党関係も大き
く揺るがされることになりますが、その試練を経て、今日まで日中関係の一つの
大きな柱として存在しています。
 
  なお、社会主義インターとの関係でいえば、私が喬石中連部長との会談の際、
カールソン事務局長からの意向である、「インターは中国共産党とテーマを限定
して話し合う機会を持ちたい」との趣旨を伝えたことが、中国共産党の社会主義
インターへの関心を強めたのか、一時期、社会党が都合で送れなかったようなイ
ンター加盟党の大会に中国共産党が傍聴者として代表団を送るケースがありまし
た。

◇質問:社会党国際局長としてSIにかかわってきた河上先生から見て、現在のSI
の活動はどのように感じられますか。

●河上:最近のSIがどのような活動をおこなっているのか、私にはよくわかりま
せん。ニュースでもSIのことはほとんど報じられないところを見ると、ブラント
・カールソン体制のころと比べて、SIの存在感はかなり低下しているのではない
でしょうか。世界的な中道左派勢力の後退が背景にあるのでしょうが、それ以上
に、現在のSIがブラント議長のような世界的に知名度の高い指導者を持ちえてい
ないという理由が大きいのではないでしょうか。逆に言えば、世界的に有名なブ
ラントさんが議長だったからこそ、ブラント・カールソン体制のSIは世界的に注
目を集めることが出来たのだと思います。

 そのブラント議長を支えたカールソン事務局長は、SI事務局長を退任後、スウ
ェーデン外務省に入り、国連のスウェーデン代表部に送られ、そして、国連代表
としてアフリカの紛争地域を訪れ、ロンドン経由でニューヨークに戻るときに、
搭乗したパンナム機がテロ組織に爆破されて、スコットランドに墜落、命を落と
しました。1988年12月21日夜のことでした。リビアが背後にあったと当時から言
われ、最近になってリビア自身が認めました。カールソンさんは独身だったので、
彼の父親に弔電を打った記憶があります。その後、ブラントさんもこの世を去り
ました。こうしてブラント・カールソン体制は終わりを告げました。そして、そ
れはSIが世界政治に大きな影響力を持つことが出来た一つの時代が終わったこと
でもあったのです。
 
       (元衆議院議員・元日本社会党国際局長・東海大学名誉教授)

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