■歴史資料

□社会運動と政党(岩根邦雄)

   ◆「産業社会の転機と社会運動」
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産業社会の転機と社会運動  議会政治というものが、その国の特殊性を背負いながら変遷してきているわ けだが、今日的に見ると、先進国といわれている国々、それから、ある程度デ モクラシーが確立している国における議会政治が持っている大きな枠組みは、 そこにはいろいろ欠陥はあっても、根本的なかたちで政治的な自由というもの が保障されて、その中で政党政治が行われてきている。そして、産業社会に対 応しながら動いてきているという状況でずっと来ている。しかし、どうやら大 きな壁にぶつかりはじめている。もっと言うならば、産業社会の大きな転椴 が、政党政治の基盤の変化になりつつあるのではないか。転校に来ている現在 をどのようにとらえ、何を突破口として見い出していけるのかということを、 考えてみなければならないだろう。

 そのように考えるならば、その時代その時代で中心的なテーマがあったのだ ろう。そこで、その時代における中心的な運動、あるいは社会闘争というのは いったい何だったのかと考えてみると、産業革命以前、重商主義時代の中心的 課題は、啓豪思想などでいわれてきた市民的自由とか、自由、平等、博愛とい うようなかたちでの問題のとらえ方であった。

 産業社会では、産業ブルジョアジーのたい頭、それに基づくプロレタリアー トの出現の中から、社会の中心的対立が、労働運動というかたちに置き換えら れていくということになった。その運動がどのように発展し、どういうふうに 変化し、どのように衰退しているのか、というようなこともよく見てみる必要 がある。そういう観点からいうと、今の労働運動の衰退、停滞というのは、歴 史的な必然性だというふうにもいえる。  労働運動自体は、革命の担い手でも何でもない。社会的な制度なり、権利の 獲得、あるいは労働条件の獲得ということのためには力を発揮するけれども、 社会の基本的なシステムをどうこうするというのではないわけで、産業社会の 大きな特徴というのは、そういうかたちで利害調整が行われてきた。その社会 的な運動の中の飛び抜けて大きな存在が労働運動であった。そういうふうに考 えてみると、むしろ素直に納得ができるのではないだろうか。

 しかも、今日的には産業社会自体が大きな変ぼうを遂げており、一般的には ポスト産業社会といわれている。そういう産業社会以後の社会に、労働運動が 無力になりつつあるという中で、いったい何が運動の中心になっていくのだろ うかということが、中心的テーマである。このテーマが見いだせないで苦悩し ているというのが今日の状態だし、労働運動がもはや中心ではありえないとい うことも、絶対的に明確になってきていると考えたほうがいい。  産業社会とはいったい何なのか。社会主義国も資本主義国も、産業社会であ ることは変わりない。では何が違うのかというと、資本主義国においては労働 運動自体がある程度活発で、今日でもまだあって、物事に対して制御する力と して働く。健全なコントロール装置として働いているということがあるし、市 民的自由も保障されている。しかし、国自体の方向なり資本の方向は、無政府 的な要素を多分に持ちながら、産業自体は実態としてはどんどん社会化しつつ あるというような状態にある。

 それに比べて社会主義国の根本的な大きな特徴は、労働運動が、日本的に言 うと大政翼賛化している。御用化している。そして、チェック機能を果たせな い。だから存在理由を失ってしまっている。これはマルクスが考えたことと全 く違って、皮肉にも正反対なかたちになってしまう。そういうかたちの中でチェック磯能を持たずに、党が国家になっていくというかたちをとって、産業社 会に対する磯能としてある。だから、同じ産業社会で強権的な支配装置を党が 担っているのが社会主義社会である。しかし、社会化しているということに関 しては、社会主義の社会化と、資本主義の中での実態的な社会化への進行と は、たいへん違うけれども、どちらが能動性があるのかという点では、今まで われわれが公式的に考えてきたような見方ができるのか、という疑問が残らざ るをえないわけで、問題をもう一回見直してみる必要があるのではないだろう か。

 それでは、われわれが運動的な立場からものを考えてみる時に、議会制民主 主義というものが生まれたその時から今日まで、運動自体が担ってきたことは 何なのか。社会運動が大きく存在できる国とできない国とがあり、社会主義国 においては社会運動は存在できない。ポーランドの「連帯」のように、たまに そういうことが起きるけれども、しかしそれはみんな圧殺されていくというこ とになっている。だから、社会運動が社会に存在しえない国の運動と、社会運 動が存在して、物事を実践的に動かしていくということとの違いがまず一つ大 きくある。われわれの場合は、社会運動を通じて、さまざまな異議申し立てな り、いろいろな変草なりを提起し、実現していくというかたちでやっていく。

 例えば、公害に対する市民運動なり住民運動なりが、日本の社会制度そのも のを大きく突き動かしてきたことはあきらかである。環境庁がやっていること に対しての批判は多分にあっても、少なくとも、そのことに対応することは、 日本の場合、世界的に見て非常に積極的であった。それはチェック機能として 社会運動が健全に機能しているということが、大事なことなのではないか。わ れわれの運動がどういう意味を持っているかということを考える場合に、そこ のところをもう一回考えてみる必要がある。

 そこで、われわれの今後の課題になることは、社会運動が、いわゆる民主主 義的な制度とどのような新しい結びつきをつくるかということを、さっきのポ スト産業社会の中での社会運動とはいったい何なのかということと併せて、考 えていかなければならないのではないか。そういうことの中で社会運動自体が 発展ということを模索しなければならないし、そういう意味の運動をどうつく り出していくかということを、考えなくてはならない。