■ 【社会活動】

禁煙嫌煙運動30年を振り返って            渡辺 文学

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 日本の「タバコ問題」に関わる民間組織の運動は、まず明治時代、日本キリス
ト教婦人矯風会が初の取り組みを行った。1900年(明治33年)、茨城県水戸出身
の根本正衆議院議員が中心となって「未成年者喫煙禁止法」が制定されたが、キ
リスト教婦人矯風会がこの法案の成立に向けて努力を重ねた。
  その後の民間運動には、ほとんど見るべきものがなかった。それは、日清戦争
、日露戦争の二つの戦争に際し、時の明治政府は「戦費調達」のため、“民営”
だったタバコを“専売制”として、国民大衆に売り込みを図ってきた歴史があっ
たからである。

 さらに、第2次世界大戦の際「恩賜のタバコ」ということで、戦地に出かける
兵士に“天皇の下賜品”としてタバコが授けられ、政府が意図的に喫煙者を増や
していったのである。
  第2次世界大戦後、初の禁煙運動を展開したのが長野県伊那市の「日本禁煙友
愛会」だった。1954年、伊那市在住の小坂(おさか)精尊氏が、「狂人の沙汰と
扱われ…」(本人談)ながら、一人づつ粘り強く会員を増やし、現在4万人を上
回る会員を擁する、恐らく世界最大の禁煙団体に育てあげたのである。(残念な
がら小坂氏は1999年1月に他界された)


◇「嫌煙権運動」のスタート


  1978年2月、東京四谷の小さな会議室で、「嫌煙権運動」が旗揚げされた。マ
スコミで大々的に報道され、その後のタバコ論争に火をつけたのは、このネーミ
ングがあったからこそと言われている。コピーライター中田みどりさんの造語だ
った「嫌煙権」運動は、圧倒的な世論の支持を得て全国に広がっていった。
  当時国鉄は(現在のJR)、新幹線「こだま号」自由席(16号車)にたった1
両の禁煙車を設けていただけで、その他の公共の場所や交通機関、病院、学校、
航空機、職場など、ほとんどの所で「吸って当然、捨てて当然」の社会状況が続
いていたのである。


◇流れを変えた「嫌煙権訴訟」


  タバコ問題に対する関心が、マスコミを通して広く社会に伝えられると同時に
、各地に「禁煙・嫌煙」の機運が広がっていった。
  その大きなきっかけとなったのが「ひかり号にも禁煙車を!」というスローガ
ンを掲げて、当時の国鉄に対し様々な働きかけを行なった「嫌煙権運動」である
。さらに、国鉄が禁煙車を増やす意思・意欲が極めて弱いことを痛感した運動の
中心メンバーと、タバコ問題に関心を抱いていた弁護士が、1980年4月、国鉄と
国、専売公社を相手取って、「全ての列車の半数以上を禁煙車に」を求めた「嫌
煙権訴訟」がその流れを加速させた。
  1987年3月、東京地裁は原告側の訴えを棄却したが、7年間の裁判の過程で、
国鉄は約30%の禁煙車を設けており、原告・弁護団は「実質勝訴」と位置づけ、
控訴しなかった。この裁判が行われている7年間に、日本各地で様々な反タバコ
運動が活発となり、「喫煙問題」への見直しが行なわれるようになったのである


◇専売公社から日本たばこ産業(株)へ民営化


  1985年4月、明治時代から81年間続いていた「日本専売公社」が民営化され、
「日本たばこ産業株式会社」(JT)へと衣更えを行なった。国がいつまでも「
公害企業」と一体で動いているということは、WHOの加盟国として恥ずべきこ
とであり、「国営企業」からの脱却は大きな課題となっていたのである。

 これが、1987年10月、厚生省が刊行した『喫煙と健康問題に関する報告書』(
『たばこ白書』)への転換点となった。国が、正式に喫煙・受動喫煙の有害性を
認めた内容だった。同年11月、東京・経団連会館で「第6回喫煙と健康世界会議
」(“6th World Conference on Smoking and Health”)が開催され、世界55カ
国から700名が参加し、「タバコの害」が連日大きく報道された。(『たばこ白
書』が10月に刊行されたのは、この世界会議開催を目前に、何とか間に合わせた
というのが真相と言われている)

 この会議の最終日に、「全てのタバコ広告の禁止」が特別決議された。その当
時、日本におけるテレビ、新聞、週刊誌などの実態はまさに野放しで、米タバコ
と日本のタバコCMは激化の一途をたどっていたのである。
  しかし、地下鉄など交通機関の「タバコ規制対策」はかなり進んできた。この
世界会議が大きな役割をはたしたことは間違いない事実である。


◇「分煙」がキーワードに


  1986年、東京足立区の本庁舎が、23区内で初めて「分煙」の庁舎として建設さ
れた。各フロアーに換気装置を別にした喫煙所を設け、庁舎内は原則禁煙で利用
を始めたのである。
  *(この「分煙」という言葉と考え方は、1983年、カナダの第5回喫煙と健康
世界会議の帰路サンフランシスコ市に立ち寄り、ウエンィー・ネルダー議長から
「職場の禁煙条例」の原文を入手。「雇用者・経営者は喫煙従業員と非喫煙従業
員の席や部屋をきちんと分けなさい」ということが骨子であり、当時渡辺が発行
していた公害問題専門誌『環境破壊』に「サンフランシスコ市で分煙条例実施」
と紹介したのがルーツである)
  自治体、民間企業、公共の場、飲食店などのタバコ規制対策も、「分煙」がキ
ーワードとなって、徐々にではあるが全国に広がっていった。1990年代は、「分
煙」の時代と言ってもよいと考える。


◇「分煙」から「無煙」の時代へ


  1998年、世界の航空機が全面的に禁煙となった。日本でも、日本航空、全日空
などが国内線、国際線とも「全面禁煙」となり、それまでの機内のタバコの臭い
が完全になくなっていった。密閉された空の旅で、これまで「禁煙席」「喫煙席
」で分けられていても、タバコの臭いはなくならず、非喫煙者は一方的にがまん
を強いられてきたが、その臭いが全くなくなったのである。画期的な出来事だっ
た。
  また、電波媒体のタバコCMも1998年の時点で「自主規制」ではあるが、廃止
された。87年の「世界会議」の決議から10年以上も経過してのことである。多く
の先進国では、70年代半ばからすでにテレビ・ラジオのタバコCMは全面的に禁
止されており、日本だけが異質の存在だったのである。さらに、電車の中吊り、
街頭の看板、駅ホームの看板などのタバコ広告も、順次「自主規制」で撤退して
いった
 
「分煙」というキーワードで、公共の場や職場、交通機関、劇場、野球場、競技
場などの喫煙がかなり規制されるようになってきたが、最近の調査・研究によっ
て、煙を分けるだけでは受動喫煙の被害が完全には防げないことが明らかとなっ
ている。今後、「分煙」ということだけでは問題は解決できず」、やはり「完全
禁煙」=「無煙」の社会環境が求められる時代となっていることを政府、医学団
体、自治体、企業経営者は充分認識のうえ、抜本的対策を講ずることが重要な課
題となっている。


◇「健康増進法」の施行


  2002年、国会で「健康増進法」が制定された。罰則規定はなかったものの、そ
の施設の管理者に対し「受動喫煙を防止するよう努力しなければならない」とい
うことが、とにもかくにも「法律」で定められ、全国各地の高速道路のサービス
エリア、パーキングエリアが屋内全面禁煙となった。さらに、関東の主要私鉄の
駅構内からすべての灰皿が撤去され、紫煙が追放されていったのである。

 野球場、競技場などの観客席も禁煙(分煙)となり、映画館のロビーも全面禁
煙を選択するケースが増えていった。
  大相撲桝席の喫煙も2003年まで認められていたが、私たち禁煙運動の粘り強い
取り組みによってついに禁煙となり、国技館はじめ各地の体育館でのタバコは完
全に追放された。
 
この2002年には、さらに二つの大きな出来事があった。その一つは、和歌山県
教育委員会の強力な取り組みによって、県内全ての公立小学校、中学校の敷地内
が全面的に禁煙となったことである。それまで、学区内では校舎内に喫煙室を設
け、タバコを吸う教師、事務職員はその「喫煙室」に行って吸うことが認められ
ていたが、これを全て禁止し、学校の中では完全に「禁煙」のルールを作ったの
である。最初は喫煙教師の抵抗もあったようであるが、マスコミの追及などもあ
って禁煙が徹底されていった。
 
  この和歌山の取り組みが全国に広がっている。現在までに約7割以上の都道府
県において「敷地内禁煙」が導入されており、従来、運動会や各種のイベントな
どでPTAや地元の有力者などが平然と紫煙をくゆらせていたシーンはなくなっ
たようである。
 
もう一つの取り組みは、東京・千代田区の「歩行喫煙禁止条例」だった。石川
雅己千代田区長が、PTAの母親の訴えを重視し、子供の目の高さにある歩行喫
煙の際の火のついたタバコの危険性を考えて、歩きタバコ・路上喫煙禁止の条令を
議会に図り、「罰金」ではなく「過料」として自治体がこれを徴収できることに
した。
  これによって、千代田区内の主要道路のポイ捨てタバコが激減したのである。
JR市ヶ谷駅近くの文房具店の経営者が「定点観測」で吸い殻の数を調べていた
が、条例の施行前には1日に千本もあった吸い殻が、50本以下となって、道路が
すっかりきれいになったと喜んでいたのが印象的だった。


◇「禁煙推進議員連盟」発足


  タバコ規制対策で重要なのは、国会での取り組みである。これまでも、タバコ
問題の解決に熱心な議員が、財務省、厚生労働省、文部科学省などの関連委員会
で、政府の姿勢を厳しく追及していただく場面があった。中でも、がんで亡くな
った山本孝史議員には、政府の消極的な態度を何度も追及していただいた。
 
  その後、私が発行している月刊専門紙『禁煙ジャーナル』で、2001年秋に「歩
く禁煙マーク」として報道された小宮山洋子参議院議員のインタビューを行った
。その席で小宮山議員に、ぜひ超党派の「禁煙推進議員連盟」の結成を訴えたの
である。
  小宮山議員は、その訴えを真剣に受け止め、2002年3月、超党派の64名の議員
が参加して「禁煙推進議員連盟」が発足した。会長には綿貫民輔衆議院議員、副
会長には津島雄二、宮下創平、江田五月、大島令子、松あきら、岩佐恵美などの
各氏が就任、事務局長に小宮山議員、幹事に武見敬三、小池晃氏など、タバコ問
題の解決に大きな一歩を踏み出した。
  現在、会長は綿貫氏が続投しているが、2008年の総会以降、幹事長に小宮山氏
、事務局長に石井みどり参議院議員、顧問に津島雄二氏などが中心メンバーとな
っており、参加議員の数は80名となっている。
  「禁煙議連」では、「たばこ規制枠組み条約」について関係各省からのヒアリ
ングを継続的に行うなど、政府の取り組みを促進させる大きな役割を担っている


◇「たばこ規制枠組み条約」について


  WHOのブルントラント事務局長時代にから懸案となっていた「たばこ規制枠
組み条約」(FCTC)が、保健分野での初の国際条約として、2003年2月27日
に発効した。日本は、だいぶ早くからこの条約の署名を行い、国会の批准を経て
いる。
  この条約の最大の目的は「タバコ消費の削減」であり、そのために(1)喫煙の害
・受動喫煙の有害性は科学的に明らかであり、(2)全てのタバコ広告・イベントの禁
止、(3)イラストなどを活用した警告表示の採択、(4)自動販売機の禁止、(5)社会貢
献活動の禁止、(6)タバコの大幅増税・値上げなどを政府が責任を持って実行する
ことが求められている。
 
  ところが日本の場合、これに全く逆行する「法律」が存在している。「たばこ
事業法」がその法律で、第1章の目的には「わが国たばこ産業の健全な発展を図
り、もって財政収入の安定的確保および国民経済の健全な発展に資すること」が
うたわれている。この法律の精神は、「国民の健康はどうなってもかまわない。
たばこの税収が最大の課題」というとんでもない内容なのである。そもそも、財
務省がたばこ問題の主務官庁・監督官庁ということ自体、国際常識に反しており
、JTの株を50%以上も政府が保有していることは他の国では考えられないこと
なのである。
 
このような「法律」を持ちながら、「FCTC」には署名・批准し、締約国会
議に参加して渋々ながら会議の諸項目に賛成の挙手をすることは、全く矛盾した
態度・方針であることを厳しく指摘しておきたいと思っている。
  この場合、国内法より国際法の比重が高い(重い)というのが条約加盟国の責
務であることを考えると、早急に「たばこ事業法」を廃止して「たばこ規正法」
「非喫煙者保護法」などの制定が最重要課題となっている。「ダブルスタンダード
」は恥ずべき姿勢ということをしっかりと認識すべき時機が来ている。


◇「神奈川県受動喫煙防止条例」の制定を


  2008年、神奈川県の松沢成文知事は、選挙の際のマニフェストを重視して、「
受動喫煙防止条例」の制定をめざし、県内主要箇所で「タウンミーティング」を
開催した。
  とにかく、全国の知事、市長で、「タバコの害」「受動喫煙の害」「政府の消極的
態度」などについて、県民にじっくり何度も語りかけた首長は、私の知る限り、
松沢氏を置いて他に存在しない。2008年2月、横浜の開港記念館で、禁煙推進医
師連連盟の総会でも、財務省の関与、JTの株式保有、たばこ事業法の問題など
、常に禁煙運動が提唱してきた問題点を、現職の知事の口から強く指摘されてこ
とを私は忘れることができない。
 
  しかし、この「条例」は、県議会を通らなければ単なる問題提起に終わってしま
う。
  小さな飲食店やパチンコ業界の抵抗もあり、「全面禁煙」が「分煙」となり、また
小さな飲食店などは、「努力目標」となってしまい、報道機関から「骨抜き」とか「
ト―ンダウン」と言った声もあがっているが、私は、たとえマスコミの批判があ
ったとしても、この条例を採択してもらうことが重要な課題と思っており、2009
年3月議会で「罰則付き条例」が議会で認められたことは、大きな第1歩と評価する
のが自然の流れと言えよう
 
  多くの喫煙者は、内心「やめられればやめたい」と思っていることが明らかと
なっており、条例施行後、ポスターキャンペーンや広報活動、そして医師会や保
健所などとのタイアップで、「吸えない社会環境づくり」への挑戦が可能となっ
ている。
  タバコ問題について、各種意識調査、アンケートなどによれば70%以上の人が
「禁煙願望」を持っていることが判明しており、故平山雄博士の提言では、医学
的・心理学的な適切な設問を行えば、なんと喫煙者の95%が禁煙に成功すること
を力説されていたのである。


◇これからの問題点


  私たちが「嫌煙権運動」を発足させた1978年当時、タバコ問題・禁煙推進に熱
心な医師・保健医療専門家は10本の指で数えられる程度であった0。30年間の運動
の積み重ね、世界の状況の変化、そして何より多くのスモーカーが「やめたい」
と考えている現実を考えるとき、
  行政と医学団体の取り組みが最重要課題となっている。
 
  また、「禁煙治療」に」健康保険が適用されたことも、大きな変化の一つであ
る。これによって、禁煙外来の医師の数も飛躍的に増加し、現在、8000人以上の
医師が熱心に禁煙指導、禁煙活動に取り組む時代となっている。
  また、ニコチンガム、ニコチンパッチをはじめ、2008年からは飲む禁煙薬とし
て「チャンピックス」なども登場し、禁煙に対する社会環境はますます拡大して
きた。
 
私たちも、タバコの煙に悩まされない社会をめざして、世界の国々と手を合わ
せて取り組みを継続していきたいと決意を新たにしている。具体的にはタバコを
「吸いづらい」「売りづらい」そして「買いづらい」社会を当面の目標としてい
る。皆様のご協力を心から期待してやみません。

  【筆者は たばこ問題情報センター代表 ・禁煙ジャーナル編集長/全国
    禁煙推進協議会副会長/タバコ問題首都圏協議会代表】

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