私たちは沖縄のことを、どれくらい知っているのだろう?

【沖縄の地鳴り】

私たちは沖縄のことを、どれくらい知っているのだろう?
〜映画「沖縄 うりずんの雨」から〜

荒木 重雄


 「1853年の5月に、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍の艦隊が、那覇の港に寄港しました。徳川幕府に開国を迫るための拠点とすべく、琉球政府の意向を無視し、強引に上陸しました。このとき、すでにペリーは、東アジア進出のための足がかりとして、琉球国、現在の沖縄を占領することを計画していました」。「それから92年後の1945年、激しい地上戦の末、アメリカ軍は沖縄を占領することになりました。ペリーの時代から念願だった、沖縄占領が現実となりました」。
 このナレーションではじまる映画は、いま岩波ホール(東京・神保町)で公開中の、シグロ制作、ジャン・ユンカーマン監督によるドキュメンタリー「沖縄 うりずんの雨」である。

 映画は、2004年8月、沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落した事件を目撃したダグラス・ラミス(元海兵隊・沖縄在住政治学者)の証言に続く。
 「海兵隊のヘリコプターCH−53Dが大学の管理棟に衝突して地上に落下し炎上した。誰も驚かなかった。もちろんショックを受け、恐怖に襲われたが、密集した街の中にこんな基地があれば、事故が起こるのは予想できた。でも本当に驚いたのは、その後に起きたことだ。まるで準備していたように、海兵隊員がフェンスを越えて次々と繰り出してきた、彼らは大学を占領した」。「18歳か19歳の“がきんちょ”たちが、海兵隊の軍服を着て、自分たちより年上の報道陣に向かって大声で命令し、勝手に外国の領土に入り込んで人に命令する権威を持っているかのように振舞っている。子どもが、18から20歳の。凄い光景だ」。

 この映画は、沖縄戦から現在まで70年にわたる沖縄の現実を体験した多様な人々の証言を、米軍撮影を含むニュース・フィルムなど資料映像で繋いで構成したシンプルなつくりだが、その両方がもつリアリティーは圧倒的で、相乗効果をうみ、観る者に深く重い感慨をもたらす。
 そして、いくらも観ないうちに、翁長雄志沖縄県知事が繰り返す言葉…「沖縄県が自ら基地を提供したことはない。普天間飛行場もそれ以外の基地も全部、戦争が終わって県民が収容所に入れられている間に、県民がいる所は銃剣とブルドーザーで、基地に変わった。私たちの思いとはまったく別に強制接収された。自ら奪っておいて(日本政府は沖縄復帰の直前、公用地暫定使用法を成立させ米軍の接収を合法化した)、県民に大変な苦しみを今日まで与えて、そして普天間が世界一危険になったからといって、その危険性の除去のために『沖縄が負担しろ』と、『お前たち代替案を持ってるのか』と、『日本の安全保障はどう考えているのか』と。こういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないか」という言葉が、痛みをともなって胸に迫ってくるのである。

◆◆ 本土防衛の「捨て石」とされ

 “うりずんの 雨は血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起す雨”
 映画の題名でもある「うりずん」は、春から梅雨の頃までの季節のことで、それは、沖縄戦の時期と重なる。礎(いしじ)は、いうまでもなく、沖縄県糸満市・摩文仁の丘に立つ沖縄戦の戦没者24万余人の名が刻まれた石碑「平和の礎」のことである。
 この季節になると、沖縄では、現在でも、沖縄戦の記憶がよみがえり、体調を崩したり、ふさぎこむ人が少なくないという。その思いを、証言者の一人、歌人の玉城洋子は次のように詠う。
 “哀しみか 怒りか 胸を掻き毟る 今夜小さき 虫の蠢く”

 沖縄戦は、米軍が1945年3月26日に慶良間諸島に、4月1日には沖縄本島に上陸して始まり、6月23日頃まで続いた地上戦である。日本兵も米兵も、行き先も知らされずこの壮絶・悲惨な戦場に投入された。
 元日本兵の一人、近藤一元兵長は証言する。「上海から船に乗せられ、着いたところが沖縄だ!って、ほんとうに皆、喜んでね。日本へ帰ったんだ、よかったなぁと」。元米兵の一人、ドナルド・デンカー元砲兵も語る。「沖縄はどこか知らなかった。船上で地図を見せられた。俺たちの仕事だ、日本を打ち負かすしかない、と思っていた」。

 近藤はさらに語る。「向こうに米兵の顔もはっきり見えていました。下から見ても大きい兵隊でしたから、ああでかいなあ、という感じで小銃を撃ち返す。上を向いて撃つと、米兵に当たって下へ転がり落ちる。“ママー、ママー”という最期の声が聞こえますね。そうすると“やったぞー”と歓声を上げるような。なんていいますか、当時、人を殺しているという意識が何もない。ただもう、面白いというとおかしいですが、“やったー”という気持ちでガーッとなる」。

 だが、戦局は急激に悪化。近藤は語る。「爆雷を抱えて、戦車に向かってダーッと走っていって、戦車の下に放り込む。ほんとに一人の兵隊と大きな戦車の戦いなんですね。こんな無様な戦いは世界中どこにもないと、私はそう思った」。「米軍の火炎放射はいやでしたね。吹きつけられると、火が3〜4mに広がって、フーッときます。ゴム状のものがベタベタついて、払っても払っても落ちないから、衣類からなにから皆焼けて、そこで倒れてしまう。で、兵隊同士で、“火炎放射で死ぬのはご免こうむる”と。鉄砲の弾か何かで死ぬのはなんでもないけれど、火炎放射は本当にひどい死に方だから、“あれだけはご免こうむりたい”と」。

 元沖縄県知事の大田昌秀は、沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇隊の一員として沖縄守備隊に動員された。大田は語る。「命を投げ出すことには、教えられたとおり、何の躊躇もなかった。ですから、たくさんの若者たちが死んでしまう結果になった。首里が危うくなって守備隊が摩文仁に撤退する時に、下級生も、予科生たちも、守備隊首脳が無事に撤退できるようにせよと、木で作った箱に爆雷を入れて、これを持って戦車隊に突っ込めと。特編隊が編成されて、25名が爆雷を持って戦車隊に突っ込んで行って、全滅した」。また別の日には、「学友が負傷して動けなくなって、私の目の前で死んでしまった。一年生は疲れ切っていて、遺体を運べないわけです。足を捕まえて、こうして引き摺って。地面に頭がついていて、凸凹の所で上がったり下がったりして。“何しているんだ、お前たち”といって、私が穴の方へ連れて行った。当時はそういう状況でした。皆、遺体を抱きかかえることができないぐらい、疲れ切っていて」。

 元米兵のドナルド・デンカーは語る。「戦闘の後は悲惨な状態だった。日本兵の腐乱した死体にハエがたかっていた。そこで…泥を被っていた日本兵の死体を踏んでしまった。死体の胸部が崩れてブーツについた。ひどく臭かった。砲弾の穴に溜まった水で靴を洗った」。米軍側にももちろん多大な犠牲者が出た。

 こうしたなかで住民の集団自決も起きた。その一つ、チビチリガマを案内する真宗大谷派僧侶・知花昌一は語る。「この洞窟に140名が20日近く生活していました。これはみんな骨ですよ。そして、包丁がありますね。眼鏡もあります。包丁とか鎌とか、刃物がね、10以上あるんです。これで首を切り合いながら自決していった。これが石油ランプです。これに石油を入れてきたようです。それを自分の体や子供たちにかけて、火をつけたんです。火が燃え盛る、煙が充満する中で首を切り合いしながら死んでいく。83名がいわゆる自決という形で死んでいった」。

 沖縄戦では日本兵7万7000人、米兵1万4000人、そして沖縄県民は15万人、当時の住民の4人に1人が犠牲になったとされる。数字だけでは抽象的にしか理解されない非業の死が、これらの証言と資料映像によって、リアルに、一人々々の生き死にとして、具体的なイメージをもって見えてくるのである。
 沖縄戦は、なぜかくも凄惨を極めながら12週にも亙って続いたのか。それは、日本政府(軍)が、沖縄を、米軍の本土侵攻を遅らせるための防波堤、「捨て石」にする作戦をとったからにほかならない。既に日本の敗戦は決定的だったのに、「国体を守る」ために無駄な戦いを続けさせ、24万を超える尊い命を犠牲にした、それが沖縄戦の実相である。

◆◆ 「捨て石」から米太平洋戦略の「要石」に

 米軍は、地上戦の開始とともに沖縄の住民を拘束し、6月末までに、30万人以上の住民が12カ所の捕虜収容所に入れられた。村人が強制的に立ち退かされ、無人となった村の民家の藁屋根に米兵が火を放つ資料映像も映画にはある。住民を収容所に閉じ込め、その間に、米軍は住民の土地に無断で幾つもの広大な基地を建設した。戦後も、米軍は、必要とあらば、それこそ「銃剣とブルドーザー」で住民を立ち退かせ基地を拡張した。こうして一時は沖縄本島の半分以上、現在でも沖縄本島の18%の面積が米軍基地に占められている。沖縄は米軍にとって「戦利品」だったのである。

 沖縄の米軍基地は、大戦中、本土攻撃のための拠点として整備されたが、戦後は、冷戦体制の中で、朝鮮戦争、ベトナム戦争での攻撃基地に変わり、米太平洋戦略の「要石」として機能が強化された。
 この過程で、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効は、沖縄にとって重い意味を持つ。日本の主権回復と引き換えに、本土と分離され、米軍の軍政下に置かれた沖縄は、非核三原則が適用されない、核ミサイルの配備も可能な基地として戦略的に強化され、一方、講和発効後、本土で高まった反米軍基地運動で本土各地を追い出された米軍基地の受け皿として、一層、沖縄に基地が集中することになった。いわば、日米安保体制維持のために在日米軍に施設を提供しなければならない日本側の「安保負担義務」を、大幅に沖縄に押しつけてきたのである。この構造は、現在の辺野古新基地建設計画でも変わらない。

 沖縄県民の状態に戻ろう。収容所から解放されて地元に戻ってみたら、家がない、農地も取り上げられている。農業を主産業としてきた沖縄で農地を奪われた住民は、否応なく基地に依存せざるをえなくなった。
 住民が土地の返還を要求し始めると、軍政は軍用地の一括買い上げを打ち出し、これに対して住民は「米軍に土地は売らない」と全島で激しい反対運動を展開し、53年から58年に亙るいわゆる「島ぐるみ闘争」で、米軍基地の永久化を防いだ。
 60年には、沖縄統治の最高権力者キャラウェイ高等弁務官が「沖縄の自治など神話である」とうそぶいて、議会が採択した法案を次々と葬る暴政に抗して、全島的な自治権獲得運動が展開される。
 そうしたことの一方、米兵による犯罪や、米軍による事故、環境破壊も、忍耐の域を超えるものになっていた。
 本土が戦後復興から高度成長への道を謳歌していた同じ時代にである。

 映画では、55年の米兵による幼女暴行殺害事件(由美子ちゃん事件)や70年のゴザ暴動、67年の、嘉手納空軍基地の排油で民間の井戸が汚染された事件(燃える井戸事件)などについての証言も重ねられる。だがここでは、真宗大谷派僧侶・知花昌一の語りだけを引いておこう。
 「アメリカの屈辱的な支配から逃れるには、もう日本に行くしかないと思っていました。日本というのは非常に素晴らしい国でした、僕たちからすると。何故かというと、日本国憲法があって、戦争もしない、軍隊も持たない。そして、基本的人権が保障されている。それで、経済的な発展をとげている。ちょうど1964年ぐらいだと思うんですが、東京オリンピックがきた時代で、僕たちが多感な時代ですね。沖縄にも、日本じゃなかったけど聖火が入ってきたんです。東京オリンピックの聖火。日の丸を振って、それを熱烈に迎えたんですね」。

 「そういう中で1969年かな、佐藤・ニクソン会談があって、復帰が決まるんです。ああ、日本になるんだと嬉しかった。みんな喜んでね。復帰は1972年だと。私たちが望んでいた復帰というのは、基地もない核もない、本土並み返還。というのが、僕らが求めていた復帰だった。ところが、復帰が決まってから復帰までの間に、“えっ、こんな復帰なの? おかしいじゃないか”ということになって。というのは、基地を残すための復帰だと。沖縄を跳び越えてアメリカと日本が政治的な交渉で沖縄をどうするかを決めて、それで基地はそのまま残ると。“なんだ、こんな復帰だったのか”ということで、あれほど求めていた復帰運動が、祖国復帰じゃなくて反戦復帰という形になっていくんですね。日の丸を振って復帰運動を一生懸命した。ところが、反戦復帰運動では日の丸がなくなっていくんです」。

 知花昌一は、のちに、1987年に開催された沖縄国体で、読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸を引き下ろして焼き捨てた人物として、記憶される読者もあろう。昭和天皇の沖縄訪問によって強まった日の丸・君が代の強制に対する抵抗だという彼の心情は、上の証言から理解されよう。
 昭和天皇については、先に触れたサンフランシスコ講和条約発効に伴う沖縄切り離しと米軍統治に関して、「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球諸島を軍事占領し続けることを希望している」と米国に御用掛・寺崎英成を通じて伝えた事実も忘れることはできない。

◆◆ 驕れる眼に抗して

 証言のなかには随所に、沖縄(県民)へ向けられる差別・偏見と、それを敏感に感じ取って抗する沖縄の人々の意志が見て取れる。
 たとえば、毎年、沖縄を訪れ、現地の人々や部隊の仲間の供養を続けている近藤一元兵長にしてからが、沖縄に帝国陸軍兵士として乗り込んだ当初には、芋と豚肉を主食とする沖縄の人を「我々、大和民族とは違う」と見下したと述懐している。
 占領軍としての米兵はなおさらである。元兵士たちはさまざまに証言する。「兵士にとって、好きなだけ酔っ払い、羽目を外せる場所だった。酔っぱらった姿を街で、叔父や叔母、おばあちゃんに見られることもない」。「西部劇の酒場みたいだった。バーには女がいて、売春婦もいた」。「基地の司令官が、沖縄に着いた我々に説明した。“共産主義者に気をつけろ。それ以外は自由だ。沖縄には米軍兵士とほぼ同じ数の売春婦がいる。一人につき一人だ”。売春を禁止する法律もなく、だから、僅かな例外を除いて誰もがそれに手を出した。それも海兵隊の記憶の中で沖縄をエキゾチックな存在にした」。
 しかも、米国は朝鮮戦争やベトナム戦争の戦時中である。前線から戻って束の間の休息と快楽を貪りまた出撃する兵たちを規制して士気を失うことのないよう、司令官は兵たちの街での振る舞いを問わない。

 映画の中で国際関係論が専門の大学教授シンシア・エンローが説明する、海外派兵される米兵の一般的特徴は次のようなことである。
 多くが生まれた町から出たことがない若者である。現地の住民は皆、はるばるやってきた守護者として自分たちに感謝していて、歓迎される、と教え込まれている。アジアの女性たちはとても素直で優しくて従順だと聞かされる。アメリカの男は現地の女性たちにとって金があるだけでなく男としてとても魅力的と思われている、と錯覚している。
 しかも治外法権、上官も咎めだてせず、となれば、行き着くところは明らかである。

 映画では「凌辱」という章を設けて米兵による性暴力や売春、現地妻などの問題を取り上げ、男女の性関係に仮託して沖縄の受難を語ろうとしているパートがあるが、じつは筆者は、この映画で唯一、この手法にだけは違和感をもつ。沖縄の問題は現実具体的な歴史的・政治的範疇の問題であって、けっして男女の性の権力関係などに抽象化できるものではないし、女性が凌辱される存在とも考えないからである。
 それより、写真家・石川真生の次の言葉にこそ、沖縄の思いと矜持が込められているように思われる。

 「わたしはもう生まれたときから基地があるし、復帰運動があるし。ものすごい激しい時代、そういう時代だったね。だからその中で、当然いろんなこと考えるわけよ。高校生の頃から復帰運動、反戦運動やったりする中で、この沖縄を自分は何で表現しようかと思ったら、たまたま写真クラブに入っていたから…。でも写真が好きだったわけでもない、褒められたわけでもない、カメラも持っていなかったのに、ただそれが一番わたしの身近な手段だったのね。当然、沖縄イコール米軍基地。じゃあ、米軍基地を撮るのにはどうしたらいい。アメリカ兵を撮ろう。アメリカ兵を撮るにはどうしたらいい。バーで働こう。というのがわたしの思考法でね」。
 [バーで働いていた当時の、白人兵と黒人兵の間で腕を絡めた彼女自身の写真を見せ]
 「そうそう、これ、ゴザの時代です。この世界に入ってまもなくだね。わたしはこの男(黒人の方)と同棲していたさ。2番目の彼氏で、だけど住んだのは初めての男だった。まだ白人と黒人の対立が続いていたときでもあるし、けど、『ブラック・イズ・ビューティフル』といって、黒人のプライドがアップしてた、公民権運動が高まってきたときさね。白人対黒人のこの感情と、わたしの沖縄人としてのプライド、ヤマトに対する不信感とかなんとか、沖縄人対ヤマト人の構図が似ているなと、このとき思ったの。彼とかまわりの黒人たちから話を聞いてたら、なんか自分たちの構図と似ているなと思って。それでとても親しみを抱いたっていうのも、ひとつの理由」。

 先に国際関係学者シンシア・エンローが指摘したような、若い米兵3人が、1995年9月、金武町で12歳の女子中学生を拉致し強姦するという事件が起こり、県民の大規模な抗議行動が盛り上がった。懲役7年の刑を終えたその事件の共犯者の一人、ロドリコ・ハープとのインタビューのシーン、とくに彼が絞り出す悲痛な懺悔と後悔の言葉はこの映画の見所の一つだが、それは別に考えなければならないテーマも提起するので、ここでは触れずにおこう。
 問題は「凌辱」である。凌辱をなにものかの「尊厳を奪うこと」とすれば、それはそのまま現在の沖縄の状況に繋がる。

 その目下の焦点が、いうまでもなく、現在進行中の、沖縄県民の民意を無視した、名護市辺野古における米軍基地の建設である。「世界一危険」な普天間飛行場を移設するという名目だが、160haの海を埋め立てて1.8kmの滑走路2本に軍港施設も備えた巨大基地で、耐用年数はなんと200年を見込んでいる。戦後70年使って老朽化した基地を、最新鋭フルセットの基地に更新する目論みといわれるのも頷ける。
 ところが不思議なことに、普天間飛行場では現在、2020年頃までかけて、大規模な改修工事が進行中である。辺野古に代替施設ができても米軍ははたして普天間を返還するのだろうかとの疑問の声も聞かれる。
 日本の僅か0.8%を占める土地に日本国内の米軍基地の74%を抱える沖縄の負担は、軽減するどころか、一層、増加することさえ懸念されるのだ。

 中国脅威論をちらつかせながら、集団的自衛権行使容認の閣議決定、新ガイドライン、安保関連法案の国会審議と、自衛隊と米軍の「一体化」による日米同盟深化の道を、国民の疑念や批判も顧みず突き進む安倍政権は、これらの施策によって日本の抑止力が高まり国民のリスクが下がると主張する。しかし、米軍とともに自衛隊が武力行使をすれば、日本が直接攻撃を受けるリスクが確実に増えることは理の当然だ。とりわけ、米軍基地の大部分を担わされている沖縄は、他地域よりはるかに戦争に巻き込まれる危険が高まる。
 第二次大戦では本土防衛のための「捨て石」にされ、戦後は、日米安全保障条約による日本の基地負担を一手に担わされて米太平洋戦略の「要石」に位置づけられ、そして今度は、日米軍事同盟の最前線に押し出されて再び「捨て石」にされてよいのか。

 一昨年の4月、安倍政権の下で、サンフランシスコ講和条約の発効を記念する式典が初めて催された。日本の独立回復を改めて祝い、若者に希望と誇りを与えるとの趣旨であったが、その日は沖縄県民にとっては、米軍政下に置かれることになった「屈辱の日」として記憶される。政府閣僚や自民党議員が先頭に立って叫ぶ「万歳三唱」を、ほとんど絶望的な眼差しで見る沖縄県民の痛みを慮れる政治家は、もはやいなくなってしまったのか。

 沖縄では、昨年の名護市長選、県知事選、衆院選、いずれも辺野古移設反対を訴える候補が当選した。これらの選挙結果をことごとく無視し、世論調査で80%が辺野古移設反対とする沖縄県民の民意をいっさい無視して、「辺野古移設が唯一の解決策」「粛々と進める」と公言し実行している安倍政権の傲慢な振る舞いこそ、まさに、沖縄に対する「凌辱」、侮辱、「尊厳を奪う行為」といわざるをえない。

 映画の中で元沖縄県知事・大田昌秀は語る。「日本政府は、沖縄をまるで捨て駒、捨て石みたいにしてですね、自分たちの目的を達成するためには沖縄を捨て石にしてもかまわないという発想が、残念ながらあるんですね。我々からいいますと、だから、日本には民主主義はないと見ているわけなんです。ですから、もっともっとお互いが民主主義をしっかり勉強して、沖縄そのものを本当の意味での民主主義の島に変えていって、しかも、アジア太平洋地域のですね、軍事的要石にするんじゃなくて、アジア太平洋地域から世界中に、沖縄の伝統的な平和を発信する島に変えようじゃありませんか」。

 先月末、とんでもないことが明らかになった。自民党若手議員の勉強会で、講師に招かれた百田尚樹が、沖縄県民の立場に添った報道に努め政権批判の論陣も張る地元の2紙を「潰さなあかん」と暴言を吐き、議員たちがこれに喝采・同調し、マスコミを「懲らしめよう」などと応じたという。
 私的な勉強会と言い逃れようとしたが、この勉強会そのものが安倍首相の親衛隊の性格をもち、講師の百田は首相と親密な間柄、加藤官房副長官や荻生田総裁特別補佐など首相側近も参加していて、まさに、安倍政権の政治姿勢が端的に現れたものといえよう。加藤副長官は議会での質問に、百田の話は「大変拝聴に値すると思った」と答えている。
 政治の堕落も極まれりである。

 しかし、真宗僧侶・知花昌一のこの言葉で映画は終わる。
 「沖縄のこの場で、自分たちが被る基地の状況を取り払う運動を続けていくしかないんだろうなと。それを、続ける。沖縄の人たちが負けない限り、“基地反対だ”というこの思いがめげない限り、基地をなくすチャンスはずっと続くと思う。それが何年後かはわからない。でも必ず、“これはおかしい、なくそう”という人たちが増え続ければ、状況は必ず改善できると思う。そういうふうに僕は期待をしていますね」。

 それぞれの決意を語る、知花昌一のこの言葉にも、その前の大田昌秀の言葉にも、基地反対の声が、ヤマトとの連帯を求める一方で、自己決定権を求める動きと合流しつつあることが窺がえよう。

◆◆ 連帯は知ることから

 筆者はこの稿の題名を「私たちは沖縄のことを、どれくらい知っているのだろう?」とした。これはドキュメンタリー映画「沖縄 うりずんの雨」のキャッチコピーをそのまま借用したものだが、筆者自身を含め「私たちは沖縄のことを、どれくらい知っているのだろう?」と真剣に問いたいのである。
 毎日繰り返されている、キャンプ・シュワブ前の座り込みや埋め立て予定海域でのカヌー隊による反対運動と、それに対する沖縄県警・機動隊・米軍基地警備員・海上保安庁による弾圧、をはじめとする、沖縄の人たちのさまざまな思いや動き。「潰さなあかん」とされた地元紙が日々報道しているこれら沖縄での事態は、全国版の新聞やテレビではほとんど伝えられていない。この情報の断絶が沖縄と本土の「温度差」の大きな原因の一つである。

 これだけ情報過剰な時代に奇妙なことであるが、沖縄の現実を伝えてくるのは、ネットの一部を除けば、じつは僅かなドキュメンタリー映画なのである。たとえばその一つは、ポレポレ東中野(東京・東中野)などで上映された、森の映画社制作、藤本幸久・影山あさ子共同監督作品「圧殺の海」である。これは、上記、辺野古のキャンプ・シュワブ前や埋め立て予定海域での抗議行動とそれに対する官憲の凶暴な弾圧を中心に、現在只今の緊迫した状況を伝えている。
 それと対照的に、本稿で紹介した「沖縄 うりずんの雨」は、沖縄戦から現在にいたる歴史的経緯を丁寧に描いて、現実の事象の底流に思いを致すよう導いている。
 戦争を知らない本土の人たちは沖縄の米軍基地の存在を歴史的背景から考えられず、補助金を出せば釣り合いが取れる迷惑施設くらいに認識するが、沖縄の人たちにはこの認識は到底受け入れられないものであり、最近の沖縄での独立を含む自己決定権の拡大への志向には、この本土との意識の隔絶への絶望がある、と指摘される中で、この映画が果たす役割は大きい。

 筆者は「圧殺の海」を多くの人に観てほしい。「沖縄 うりずんの雨」も観てほしい。
 それゆえ、「沖縄 うりずんの雨」を多くの人が観てくれるよう誘うのが本稿の目的である。しかし、観られない人たちにも沖縄の経験や人々の思いを知ってほしい。そこで、映画の中で語られる登場人物たちの証言を多く引用した。シグロ編集・発行の冊子に収められた「『沖縄 うりずんの雨』再録シナリオ」に依る引用・転載である。
 沖縄の民意を無視し新基地建設を強行する安倍政権は批判・糾弾されなければならない。しかし、その安倍政権を選んだほかならぬ私たち国民の責任も問われなければならない。その責任に大きくかかわるのが、「知る」ことへの真摯さであり、「知った」ことから広がる想像力のありようである。

 「沖縄 うりずんの雨」は岩波ホールで上映中。筆者は未見だが、ポレポレ東中野ではドキュメンタリー・ジャパン・東風・三上智恵制作、三上智恵監督作品「戦場ぬ止み」を上映中。「圧殺の海」もアンコール上映の可能性あり。

 (筆者は元桜美林大学教授)


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