私にとってのアジア 140

【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

私にとってのアジア

小島 正剛


◆◆(1)
 戦後70年は、筆者にとって80歳の年月でもある。つまり、敗戦のときは10歳であったのだが、音声不調の玉音放送を耳にしながら、なにやら解放感を覚え、新しい視界が開けたようにも思えた。そして、試行錯誤の民主主義教育のはしりを体験したのである。とはいえ、子供心にも価値基準の変化に馴染むには時間がかかったように思う。その後も茫洋とした思いのまま、新制中学の第2期生としての日々を過ごす中、初めて精神的に覚醒させられる事態に遭遇する。ある労働争議が身近に発生したのである。
 ときは1950年12月、中学3年生の時代。ところは上州の織都・桐生市、生まれ故郷である。学校付近にあった紡績工場で、解雇問題を巡る争議が発生したのだ。2人の女子労働者(1人は19歳)が寒風吹きすさぶ中、30メートルはあろうかという煙突の頂上部に座り込み、ストの象徴となったのであった。クラスの仲間たちのほとんどが昼休みに入ると一斉にスト現場に駆け付け、ジャンヌダルクたちの応援に入ったのである。この争議は、「煙突女、現れる」などの見出しで全国紙でも報道された。ストの応援に繰り出したわれわれが担任の先生に咎められることはなかった。そういう時代だった。
 筆者はこの「原風景」で意識革命に見舞われたと思っている。そして社会科の中嶋芳夫先生が顧問を務める社研は放課後のもっとも魅力ある空間であった。当時刊行された『きけわだつみのこえ』をいち早く紹介していただいたのもその頃で、戦争と平和、人権、民主主義などが、キーワードとしてインプットされたように思う。というよりは、どこに視座を据えるかというヒントを与えていただいたのだった。アジアへの関心もその頃に深まったように思う。たとえば中国に関しては、先生から歴史的流れを解説していただき、「後に南京事件で被害者数に異論を唱える向きもあろうが、問題核心はその数の大小にあるのではなく、そうした事件を起こしたこと自体にある」とする討議のまとめなどはいまでも記憶に新しい。
 時代も流れて浪人中、片時も手離せぬ一冊の本があった。高校時代に手にした一橋大名誉教授・大塚金之助著『解放思想史の人々−国際ファシズムのもとでの追想、1935‐40年』(岩波新書青版1)である。読み進むにつれかつてない興奮を覚えたことであった。この先生に社会経済思想史の教えを乞いたいとの思いはつのり、あえて浪人したのだが、先生は退官して別の大学へ。遠回りはしたが翌年その大学に無事入学、生涯何ものにも代えがたい珠玉のゼミナール時代を過ごすことができたのは、ただ幸運としか言いようがない。

◆◆(2)
 60年安保の年に卒業し、国際産業別組織の国際金属労連(IMF。本部ジュネーヴ)に入職、配属先はその日本事務所(後に東アジア地域事務所)となり、アジア太平洋地域が主たる活動のステージとなった。

 ここで、「私にとってのアジア」を特徴づける逸話を一つ。
 「1982年10月、フィリピンのセブ島を訪問した時のこと。当時結成された金属産業労組の労働講座を手伝うのが主目的の短期滞在だった。現地側担当者はイノシアンさんといい、筆者と同年配、40代の活動家だった。かれは早朝、セブ島対岸のマクタン島に案内してくれ、輸出加工区(EPZ)の後、ある『記念碑』にいざなってくれた。碑文にはこう刻まれていた。『1521年4月21日、この場でラプラプとその仲間たちは、スペインからの侵略者らに対抗し、その首領フェルナンド・マジェランを殺害、一団を撃破した。かくして、ラプラプはヨーロッパからの侵略者を撃退した最初のフィリピン人となった』。やがて労働講座の会場に着くと、若きラプラプたちが30人ほど待ちかまえていた。イノシアンさんが笑って言った。『かれらは君を殺さないよ』。『輸出加工区の外資を殺すようなこともしない。ただそこに社会的公正が行われるようにしたいだけだ』。
 やがて講義も終え、遅い昼食時、爽やかな風の海岸付近で海鮮料理を楽しみ始めたとき、かれが語った一言に、海老を剥く手がふと止まってしまった。『ぼくの父はね、日本兵に連れていかれて、まだ帰ってこないんだ』。筆者は思わず汚れたもろ手で、かれの手を包んでいた」。

 諸外国、とくにアジアを訪問するとき、これに類する場面に遭遇するであろうことは常に念頭にあった。フィリピンのずっと以前にマレーシアでも、シンガポールでも、ミャンマーでも……中国でも韓国でも、訪問の度ごとにではなかったにせよ、こうした体験は少なからずあったのである。筆者のアジア遍歴は、本来の職務はそれとして、ときとして私的謝罪の旅となった。
 移動中の機内で読んだのがカール・ヤスパースの『責罪論』(Die Shuldfrage:訳本には『戦争の罪を問う』、『われわれの戦争責任について』など複数ある)で、戦後ドイツの姿勢の一端を学んだのであった。『加害者側は、ときに不条理と思うことがあったとしても、何度でも詫びねばならない。そしてかれらの心情に寄り添うことだ』と諭してくれた中嶋先生の言葉と呼応するものがあったように思う。戦後70年、うち50年近く遍歴してきたアジア太平洋の空間領域は、筆者にとってはもう一つの故郷のようにも思える。そこでは今こそ真の平和が実現し、社会的公正が行われねばならぬ、そう考える昨今である。
          *     *     *
 「人種間の融和とは、過去を忘れることではない」。そして「私の長い道のりは、まだ終わっていない」。いずれも忘れえぬネルソン・マンデラさんの言葉である。 (2015年8月15日記)

 (筆者は、元国際金属労連(IMF)東アジア地域事務所長;日本労働ペンクラブ代表代理)


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