私の戦争体験(1)

■【アーカイブ】(1)

中辻政太郎氏 戦争体験         聞き手  木村敏子 

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混迷したこの時代に、世界の何処かで戦争が起こっています。私たちの周辺でも
火種は隠れており、情勢の悪化によっては、いつ発火するか分らない危険性があ
ります。戦争はその国を守るのに本当に必要なのか、戦争によってもたらすものはどん
なことか、私たちがこの地に平和に暮らすためには個個人が国を愛する考えを
しっかり持っていなければならないと思います。
  戦争に参加した人からその体験を直接聞ける機会も少なくなりました。
  そこで貴重な体験を中辻政太郎氏から話して頂きました。  木村 敏子

【聞くポイント】
  ・出征までの仕事・家族 
  ・当時の世の中と身辺の状況
  ・何処から出征・部隊・配属・等級
  ・その時の気持ち
  ・出兵動向・状況の流れ
  ・捕虜生活
  ・復員してきた時の世の中と自分の気持ち
  ・自分の中での終戦・再出発

 私は中辻政太郎です。大正2年7月生まれ。今年満94歳になりました。
  こうして皆さんの仲間に入れてもろたお陰で元気になり、毎週寄せてもらうの
が楽しみとなりました。(水曜日のほのぼのカフェ)戦争体験話をということで、
何かお役に立てれば私の苦労も無駄ではなかったと、思い出しながら話してみ
ます。

 父親と二人暮し。小さい頃から丁稚奉公に出され、大きくなってからは父親を
養った。人には言えん苦労もしてきた。出征する前はエビスベッチン会社で毛出
しの仕事をしていた。

 召集兵となったのは、昭和16年。大阪31部隊で1年間訓練を受けた。その
後18年に再度召集、大阪8連隊で看護兵として包帯の巻き方や薬など必要な訓
練を1年ほど受けた。(30歳頃)そのころ辛かった。朝の集合ラッパに間に合わ
なくて(痔があって便所が長引いた)よく殴られたり、いじめられた。そんな中、
情のある上官に出会って、その人の付き人として抱えられ、やがて星が2つ(一
等兵)になった。

 10日後、「衛生兵として特別な所へやったる。そこは食べものがたっぷりあっ
て、ええとこやで」と言ってな。 満州行きに命令がおりた。10人ほどだった。
そして親との面会許可が下りた。

 兵隊列車で朝鮮から満州へ向かった。看護兵として配属先に持参していく菓子
や其の他の食べ物を隊長は何でかわからんが、食え、食えといって途中で皆で食
ってしもうた。
 
  朝鮮に渡って、4日後に満州の牡丹港に着き、司令部に配属された。看護兵の
訓練を受けていたので軍医の下で直接指令を受けて動いた。なにせ司令部のまっ
ただ中やから周りは偉い人ばっかり、無学なもんはわし一人、司令部は全体で
513名いて、患者はどんどん来る。兵隊不足で対応は軍医一人とわしだけ、そ
りゃあもう忙しくて苦労した。
  軍医の家庭にもよく使いに出され、それが息抜きとなった。

「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の空を眺めちゃひとしずく。お月さん眺
めてひとなみだ」という言葉が思わず口に出たら、その言葉がえらく誉められて、
上等兵になった。それからあの歌謡曲はでた。
そこで2年間居った。戦地ではあるけれども、司令部の中だったので戦争現場は
知らずじまいやった。

やがて終戦になった。すぐに動くこともなく、ソ連の捕虜に連行されるにも半年
待たされた。処理には大勢の人がいるのでそうなった。みんな引き上げて行った
後、ふとん類は中国人が取っていったようだが、食べ物は残っていたので助かっ
た。朝鮮に残っていた一般人は悲惨だった。女は顔に墨を塗り、物乞いしていた。

やがて出発の時が来た。自分の隊は1000人ほどいた。あちこちの部隊がそうして
集められた。夜昼なしに歩いていった。10日間ほど、寒くて喉が渇くが何もない。
雨が降った後踏んだ時できる水溜りの水を飲んでみんな下痢をして次々に倒れ
ていった。隊に遅れたものはどうしようもなく、そのまま置き去りにして進んだ。

ソ連に着いた時は100万人も死んだらしい。その後ソ連兵の命令によって地名
は分らないが、ナホトカの山奥に連れて行かれたようだ。
白樺の木を切って寝床を作るのに15日間かかった。食べ物は与えられず、自然
の中から勝手に探して食べるか、近くの部落にもらいに行くか、とにかく自分で
生きていく方法しかなかった。部落の人は、集団で行ったら固く戸を閉ざすが、
一人で行くと同じ人間として何か分けてくれた。寒さと餓えに苦しみながら過ご
した。その間にも体力のないもんは死んで行った。その後しばらくして兵舎が建
った。

 わしは医療の心得があるから、ここでも労働はせず、監視兵と一緒にあるいた。
労働者はパン2切れと薄いスープが一食だった。
栄養失調で毎日5,6人死んだ。死人はそりに乗せて山奥の基地にほった。上着
を脱がして死体はごろごろとすべり落ちて行った。寒いし、それがどうなったか
はわしらは知らん。

ソ連兵は野蛮で人を人とも思わんかった。シュウバというものを着て、労働した。
ノルマを達しないもんは罰せられ、食事をさらに制限された。鉄道のレールを
つくる労働だ。今はいい町や鉄道になっているらしい。・・・・・

一年半抑留されたころ、自分の体も壊れて陸軍病院に入った。ここでも看護兵の
立場が生かされたわけだ。ここで熱に浮かされている時、種違いの妹が夢に出て
きてささやいた。フランス人形のように舞いながら「兄さんしっかりしぃや」と
その言葉がきっかけで熱が下がってきた。奇跡のようで皆もびっくりした。これ
以上いたら命がないと帰還命令が出た。

ナホトカへ送られて2ヵ月後であった。
帰還命令が出るとしっかり食べて着替えもして、いい待遇だった。日本に病気を
持って行かないためだった。アメリカの援助によって、ナホトカから舞鶴まで4
日間。昭和23年のこと。当時の500円とカンパンと、米の通帳をもらって解放
された。

そしてやっと身も心も自由になったと思った。
日本に帰って来れた、そのことだけを思って、ニコヨンに入って仕事をしていた
が、親戚に野球の巨人の清原がいて、その人の口利きで堺市の役所に勤められた。
そして定年まで働いた。

【質 問】
○従軍慰安婦に関して    
  女郎屋は兵隊用と一般用と分かれていた。どっちも一週間に一度の検査があった。
  兵隊に病気を移さんために。けが人の他に、いやちゅほど女のなには見させられ、
  猛烈に忙しかった。

○帰還時の混乱の中で見たものは
  帰りに赤旗の歌を歌ったものは、アメリカ軍に叩かれていた。

○背広の襟に金バッチが光っているが、それは?
  昭和23年に復員して10年ぐらい経ったころ、恩給制度に半年足らんかったから
  そういう人らが大阪府に呼ばれて、恩給に漏れた代償として、賞状と、金の杯
  と金のバッチと3万円くれた。
  その帰り道、戦友に再会した喜びでみんなで酒を飲み、1万円ほど使ってしま
  った。

○中辻氏の人生観
失語症の野中さんに、「人生 これや、なんちゅうことはない。これが出来なな
らんちゅうことはない。自分の出来ることだけやったらいい。」
  中国はなにせ領土が広くて、人も多い、これからなあー、中国はこわいでー。

                     (聞き手は堺市在住)

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