■「私の8.15日」 河上 民雄

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昭和20年(1945)7月1日、長野県長野市の東部第11部隊に陸軍二等兵として入隊した。

入隊当日、食事に赤いめしが並んでいるのを見て、おや、軍隊でも赤飯かと一瞬思ったが、それは高粱めしで忽ち下痢するものが続出した。そんな中、あの有名な川中島の決戦があった川原での夜間の匍匐訓練が最初の洗礼となった。

昼間の野外の訓練中、米軍機が飛来してビラをまき、拾うなと言う命令がでたこともあった。この部隊は、長野県及び新潟県の農村出身者と東京出身のそれまで残っていた学生の三つのグループで構成されていたが、東京出身者は度重なる空襲で戦局の不利をすでに覚悟していたのに対し、長野県と新潟県の人たちは、まだまだ望みを捨てていない人が多い、という印象を受けた。

一定の訓練がすむと、列車で湘南の逗子に移動、今度は米軍の上陸に備えて爆弾を抱えて戦車に飛び込む演習を毎日繰り返した。この間、実弾による訓練は一度も行ったことはない。戦車といってもリヤカーをそれに見立て、爆弾といっても砂袋をそれに見たてての訓練である。

あるとき、上官にそっと、我々には実弾による訓練はないのですかと尋ねたところ、2000名の部隊に実弾は大小合わせて2000発しかないのに、お前たちのような下手くそな新兵に1発といえども使わせる訳には行かぬと叱られた。

そんな炎天下のある日、本日正午、玉音放送があるので(確かそういう言い方をしたと思うが)、全員集合!とのお達しが伝えられた。8月15日である。

玉音放送は、その日に立ち会った日本人の誰もが記憶するように、とても聞き取り難く、それが無条件降伏を迫るポッダム宣言受諾の告知であると正確に理解できた人は少ないであろう。だが、二等兵たちは一瞬にして自分たちに今降りかかっている事態が何であるかを了解していた。

整列した隊列がとかれ、一見休憩のような状態になると、兵隊たちは呆然として無口になり、またある者は二、三人ずつでヒソヒソと話し、半時間ほど前は、将校が通りがかったのを見つけると、誰かが「敬礼」と言い、一斉に敬礼をしたのに、いまは将校や下士官が慌しく通過しても誰一人「敬礼」と叫ぶものがなかった。私は組織の崩壊とはこういうものかと思った。

 

班の部屋に戻ると、すぐに私ひとり班長から呼び出され、いきなり「河上お前は嬉しいだろう」と言われた。私は一瞬何と答えるべきか迷った末、やっと思いを定めて「班長殿、これからが大変だと思います」と答えると、こんどは班長のほうが返答に窮したように、ただ「河上、戻ってよし」と小声でいった。あたりにはなお、祖国の敗北に突然直面した悲しみ、怒り、そして不思議なことに奇妙な解放感が交錯していた。

逗子は、確か夏休み中の中学校の校舎を兵舎にしていた筈だが、東京組みは、このまま部隊が解散になって東京に帰れたらよいな、との思いが頭をよぎったが、結局部隊全体で長野に戻り、9月中旬まで留め置かれ、部隊の後始末に従事することになった。

そのとき、父から敗戦後初めてのハガキがきて、「新党をつくる準備で忙しい」ということが書いてあった。あの時受け取った父のハガキを大切に保存しておけば、消印などで、戦後日本社会党の、特に日労系に結党の動きがいつから始まったかを知る手がかりになったであろうにと、悔やんでも致し方ない。

先年亡くなった社会党本部の書記で中執のメンバーでもあった大塚俊雄氏と、彼の晩年、ふとしたことで親しくなり、ガンの転移で何回も手術を繰り返している体調を気遣いながら、時折、食事を共にし、戦後社会党のいろいろの局面を、私は右派の立ち場で、彼は左派の立場で語り合い、確認する楽しい時間を過した。

大塚氏は、社会主義協会のメンバーで、真面目で温厚な性格と読書家で筆が立つのでそのグループでも重きをなしていた。面白いことに彼はまた陸軍士官学校卒で、社会主義協会の論客で代議士にもなった高沢寅男氏の陸士で一期先輩なのである。

昭和20年(1945)8月、当時、厚木にあった陸軍士官学校は、マッカーサー元帥が厚木に飛行機で降り立つのにせかされるように、いち早く解散することになったようである。卒業と同時に組織が解散になったものと思われる。

大塚氏によれば、そのとき、教官から全員にアンケートが配られ、
1),国軍は再建されると思うか。
2),再建される国軍の性格は如何。
3),国軍が再建されたら参加するか。
という三項目の質問が記されていた。

大塚氏の答えは、1)は再建されると思う。2)はその時はアメリカの傭兵となる。3)は従って私は参加しないで、それで生涯、社会党の運動に身を捧げることになった、と静かに笑った。

同期で3)の質問に対し、参加すると答えた一人は、のちに自衛隊に参加し、統合幕僚会議議長になったという。

敗戦前後の記録を見ても、この事実に触れたものはない。このアンケート調査が軍部の意向を受けたものか、陸軍士官学校の意思によるものか。はたまた、その教官の個人的な判断によるものか、一寸考えると興味あるエピソートである。

大塚氏とは、飛鳥田執行部に共に中執メンバーとして加わり、1981年のピヨンヤンと、1979年のワシントンへの党代表団で一緒に旅をし、交渉の場で共に臨んだこともあって、党内での立場は異なっていたにも拘わらず、晩年にお互いに信頼できる話し合いができたことは幸運であった。秘話の数々も忘れ難い思い出である。

私は応召で入隊の直前、静岡高校時代の友人の石橋三郎、熊谷達雄両兄の訪問を受け、談たまたまハンス・カロッサの「ルーマニア日記」の一節が話題となった。カロッサらしき主人公が軍医として砲兵隊に配属になり、あるとき、砲兵隊の隊長が懸命に双眼鏡で敵陣営を探すが、見つからず苛立っているのを見て、一寸それを貸してくださいといって双眼鏡をのぞくと、簡単に敵兵が塹壕で笑いさざめいている様子が映る。それを隊長に告げると、忽ち、若い兵士の命がなくなると思って、黙って隊長に双眼鏡を返す場面である。

石橋兄が「これで行こう」と言い出し、あとの二人が同意した。三人ともほぼ同じ日の入隊を前にしていたのである。

もちろん、その後の軍隊生活は、例え短い期間にすぎなかったにしても、カロッサどころではなかった。我々の世代は、こんな事でへこたれるものかという反発心を秘めながら、どこか、二十才を区切りにこの人生は終わるかもしれないという予感を引きずっていたのかもしれない。

しかし、実際にはそれから、また次のそれぞれの人生を歩んだのである。

                    1945年の夏―文集―より

(筆者は東海大学名誉教授・元衆議院議員・社会党委員長河上丈太郎長男)