秋から春へ

■【随想】                     

秋から春へ                高沢 英子

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 新聞でも度々報じられているように、昨今の福祉現場の事情はますます厳しく
なり、これまで我が家に介護ヘルパーを派遣してきた事業所も、ついにこの秋で
閉鎖された。
  そして、十一月二十九日、介護保険利用者の再調査という名目で、2人の女性
の訪問があった。区の福祉職員と、介護事業所のケアマネージャーと呼ばれる有
資格者である。理由は「お子様も大きくなられたことだし、色々事情も変わって
きたであろうから、再調査したいと思いますので」という名目であった。障害の
ある娘の介護と、そのお子様の成長、が、「介護」の中身とどう関係があるのか、
わたしたちは首をかしげた。これまで、どんなに娘も家族もへとへとになり、入
退院を繰り返し、困っていたときでも、我が家の乳幼児の世話を、福祉のほうで
引き受けてもらったことは決してなく、小指の先も、赤ん坊の相手をしてもらっ
た覚えはなかったのだから、尚更腑に落ちなかった。

 区の職員はノートをひろげ、鉛筆を持ち、一通りの質問を済ませると、「これ
を持ち帰りまして会議にかけ、結果はまた後日」といい、私達が極力希望した、
介護保険ではなく、純粋な障害支援にしてほしい、という申し出への結論も、会
議にかけて相談する、ということであった。それから、彼女は、ケアマネージャ
ーが娘相手に雑談を始めたそのすきに、素早く話し合いの場に「立会人」として
参加してほしい、と言われてその場にいた私のそばに、ぴったり寄り添うように
して坐ると、「で、ゴミなどはどのように捨てていらっしゃるんですか」。などと
小声で聞き始めた。

 先刻話している最中に、私が、うっかり、以前、たまたま溜まっていた紙おむ
つの山を、ゴミと一緒にヘルパーさんに捨ててもらったこともある、と漏らした
のをすばやく聞き取っていたのである。「ゴミですか。このマンションは、ダス
トシュート方式で、24時間いつでも捨てられますので、私と娘の夫で適宜処理
しています。備え付けのディスポ―ザもありますので、 それほどの負担ではあ
りません」と答えた。最近は幼児もおむつは取れている。確かに大きくなってい
る。彼女は、なんとなく未練がましい素振りでノートを閉じ、帰っていった。尻
尾を掴めなかったということか、とあとになって不愉快さがこみあげた。些細な
ことだけに尚更のことだった。(ふと、よく似た経験を、かつて西ドイツで経験
したことを思い出した。ビザ更新のときのことである。ミュンヘン警察所属の女
医による審査だった。音を立てずに素早く動く落ち着いた身のこなし、囁くよう
な声、アルカイックな微笑。数日後、届いた結果は肺結核で国外追放。既往症を
聞かれた私が、つい十年も前の病歴を言った為、レントゲン検査もなしで、判定
が下されたらしい。当時かの国では、奔流のように流入してくる外国人就労者に
頭を抱えていた。勿論すぐ修正をしてもらったが・・・)

 十日ほどして結論申渡しが電話で伝えられた。「障害支援申請は却下。引き続
き介護2を適用することにする、ただし、これはあくまでも異例の特典であり、
時間はこれまでの週二回二時間を、一時間に削ります」、というものだった。介
護内容は従来どおり、「室内の掃除」である。

 しかし、こうしていろいろ体験していく中で、結局福祉の最前線で問題処理に
当たっている自治体職員の姿勢をあれこれあげつらうことが、いかに不毛で意味
がないか、ということに気がついてきた。彼らを、そうするべく拘束している制
度そのものが、根本的に見直されない限り、事態は変わらない、という当たり前
の認識に結局辿りついたというわけである。
  問題は政府の、国家と国民に対する意識の質であり、権力を行使する際の方向
性そのものなのだから。しかも、独裁政権では決してないのだから、事情は簡単
でもあり、複雑でもある、という自明の理を、ようやく明確に悟ったというわけ
であった。

 今更いうまでもないが、権力を行使しているのは、実はわれわれ国民という建
前なのだから、国民の意識の質そのものが問題で、それをよい方向に高めて、ひ
とつの大きなエネルギーとして行使できない限り、事態は変えようがないと、切
実に感じるようになった。
  とはいえ、現実はきびしい。選挙のたびに投票率の低さに驚くが、それもこの
国の現実である。現状に不満ならば、絶望することなく地道に努力してゆくしか
ない。老いも若きも微力だの非力だのと、ぶつぶつそっぽを向いて呟いていない
で、持っている権利を、真剣に大切に使う事からはじめなければならない。この
くらいのことは誰でも分かっている筈なのだが、実行するとなるとなかなかすん
なりいかない。こと政治に関して、日本人はどこかエネルギーに乏しいという気
がしてならない。このままずるずる堕ちていくしかないのだろうか。

 毎日の新聞記事も、連日鬱陶しいニュースが満載だ。杜撰すぎる年金問題。政
治の腐敗。薬害被害。え、と一瞬手の動きが止まるような不可解な殺人事件。崩
壊寸前の農山村の実情。気になる教育の歪み。並べるときりがない。
  そして、東京都心には目もくらむようなビルやマンションが、これでもか、こ
れでもか、といわぬばかりに、にょきにょき建てられ、見た目の繁栄度は加速す
る一方である。きらびやかなショッピング街には故郷を捨てた若者たちが群がっ
ている。それに引き替え地方の底力は落ちる一方、なんとも心細い限りだ。どん
どん寂しい国になってゆく、とつくづく思う。
「あーあ、こんな国、税金払ってまで住む気無くなってきた。といって今更ゆく
国もなし。ああしんど、」、今朝も薬を飲みながら、娘が呟いている

 そんなことを考えながら、オルタ48号の力石 定一先生の「 CO2削減を
地元環境のなかで求めよう」。という御寄稿を興味深く読ませていただいた。ひ
とつの提言としてあげておられる「グローバルに考えローカルに行動しよう」と
いう言葉は 心に力強く響く声である。地球環境についても、自然破壊の現状に
ついても、専門的な知識を何一つ持たない身ではあるが、こうした問題のすべて
にわたって、わたしたちにも出来ることを、まず足元から考え、行動することが
大切であると気づかされ、湘南の美しい景観を思い浮かべながら、数々の専門分
野にわたる御提案を読み返し、肝に銘じたい、と思ったのであった。

 また七里 敬子氏の「 世界が100人の村だったら」。日本の子供達の教育の
寒くなるような現状と、彼らの豊かな可能性を、実践を通して見つめ、分析して
おられる。熊取町といえば、かつて私が子育てをしていた貝塚市と目と鼻の先に
あり、当時の泉州では、進んだ意識を持つ人たちの多い新しい住宅地として、注
目を集めていた町である。そういう意味でも懐かしかった。そして、この論説の
最後のところで「『100人の村』に提示されたようなGlobalな視点は難しくても、
せめてLocalな視点からわが子とわが子を取り巻く環境を考え、行動したいもの
です。」と結ばれていたのが、期せずして、先に言及した力石先生の論点と重な
ったのも、市民としての行動の原点を示唆された、という点で心に残った。

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話題を変えよう。

 47号で漱石の臨終の言葉と、軍国時代の死生観の一風景をさりげなく組み合
わせ、高僧仙がいや、親鸞の含蓄ある対話の紹介のあと、天衣無縫の友人の和尚
の話で締め括られた西村徹氏のエッセイを面白く読んだ。死を考えるのも楽しみ
のひとつ、と思わせてしまう独特の文のかたちが面白かった。48号の臆子妄論
で、再び死について、今回は,ゲオルク・ショルティ、フィリップ・シノーポリ、
オスカーワイルド、杉浦民平と多彩な著名人の死についてのコメントが続いた。

 筆者は、齢八十歳ともなれば、死は最大関心事となる、といわれる。私もそろ
そろその時期に近付きつつある。青年時代から氏をよく存じ上げているだけに、
それなりの感慨を抱きながら読んだ。偉人達の死もさることながら、わたしは氏
の父君が亡くなられた詳しい状況をこれまでまったく知らなかったので、僅か三
行ばかり挿入されたエピソードに、はっとした。氏の父上は、かねがね仏教に深
く沈潜され、経典その他御蔵書も多いとは伺っていたが・・・。勿論面識もあっ
た。さりながら、あくまでも個人的なことゆえ、ここでくだくだコメントするの
は控える。しかし、最後の聖路加病院のくだりから、おしまいの落ちのところで、
ちょっと笑ってしまったことだけ白状する。

 短いとはいえないこれまでの生涯で、わたしも多くの死に遭遇し、立ち会って
もきた。昨秋も近しいひとの死を経験し、半ば喪のうちに年を送った。それにし
ても、残されたものの心に、いい死、として受け止められるものは意外に少ない、
という気もする。
  メイ・サートンのエッセー、「夢見つつ深く植えよ」(武田尚子訳)」のなかに、
死について次のような一節がある。
「私は人の死に方は、その生き方あるいは愛し方とおなじほどはっきりと、その
人間の本質を見せるものだと、信じるようになった」と。また、こうも言う.「死
はもっとも重要なものを額に入れてみせる」と。確かにそうかもしれない。

 年老いた楓の大樹が切り倒された夏の日の追憶に始まり、親しかった友人クイ
ッグの死をめぐる、美しい章の全文を紹介することは出来ないが、サートンがこ
れを書いたのは、おそらく50代後半、両親を失い、ニューハンプシャーの片田
舎、ネルソンの、広大な林に囲まれた古い家に移り住んで、十年近く経ったころ
である。孤独の中で、ゆっくりと、生をめぐっての比類ない深い省察が熟してい
った。

 「二十歳では人は不死身だが、五十代も半ばを過ぎると、死の予覚のために、
時間がまったく異なった意味をもちはじめる」。

 鈍感な私などは「死の予覚」どころか、「時間の持つまったく異なった意味」
すら実感できないでいる。早蕨のようにか弱く、それでいて生きるのに必死な稚
い命と日々向き合って、時間に追い回されている日常だからであろうか。しかし、
いまこの時でも、死は常に隣り合わせである、ということすら、しばしば忘れが
ちだ。平凡だが、これはあるいは、ごく自然な、幸せなことなのかもしれない。
              (筆者はエッセイスト・大田区在住)

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