細島泉氏を偲ぶ

■【追悼】

細島泉氏を偲ぶ      メールマガジン「オルタ」代表  加藤 宣幸

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 9月17日元毎日新聞編集局長・オルタ執筆者細島泉氏が逝去(行年88才)
され、東京・調布市西つつじが丘・延淨寺で20日通夜21日告別式があった。
心から哀悼の意を表します。

 私が細島さんと面識を得たのは、1960年6月15日に日米安保条約が強行
採決された直後の頃であったと思う。当時、安保条約の国会審議では社会党安保
7人衆といわれた横道節雄・松本七郎・飛鳥田一雄・岡田春夫・石橋政嗣・黒田
寿男・西村力弥氏らの精鋭チームが「極東の範囲」などで政府を鋭く追及してい
た。これら社会党議員の活動を裏から支えていたのが新聞・TVなどマスコミ各
社の霞クラブ(外務省記者クラブ)メンバ-の有志だった。

 彼らは共同・毎日・朝日・読売・東京・ジャパンタイムスなど各社の枠を超え
て、連日集まり、その日の審議を検証し、翌日の質疑に必要な資料・情報の収集
に協力したのだ。その中に中心メンバーの一人として細島泉氏がいた。安保反対
の大デモが国会を包む中、安保条約が自然成立したあと、共に戦ったジャーナリ
ストたちはそれぞれの持ち場に帰った。しかし、細島さんを含む何人かは社会党
書記長江田三郎のブレ-ンになって、アジアの平和や日本社会の改革に情熱を燃
やし続けた。

 そのころ、私は社会党本部で働いていて細島さんとお会いしたのだが、いまで
も強烈な記憶にあるのは、後に江田三郎が亡くなった時、名文家の細島さんが毎
日新聞に署名入りで書かれた江田三郎追悼の辞である。細島さんの文章が切々と
して私たちの胸を打ち、心を揺さぶるのは、健筆の内に秘められた熱情と行動力
を感じるからだ。

 細島さんは1924年生まれだが、その生涯は単に筆先だけで生きた人ではな
い。戦時中は陸軍士官学校を卒業し近衛師団将校になった陸軍のエリートだった
が、敗戦後、なぜ日本が誤った戦争に進んだかを解くため、東大の史学科に進み
毎日新聞の記者になった。細島さんは亡くなるまで「日中友好8.15の会」=
(日中友好元軍人の会)で活発に活動されたが戦争の不条理と闘う信念は非常に
固かった。

 私は細島さんが毎日新聞やその後に勤めたジヤーナリスト専門学校校長や昭和
音楽大学教授などの教職を終えられた後、ご夫妻と私ども夫婦は何回か中国旅行
をご一緒したのだが彼が日中友好に懸ける思いは強烈なものがあった。

 細島さんは毎年、年賀状を下さるが決まって熱烈に時局を憂える文言で埋めら
れていた。石原都知事の策謀によって引き起こされた最近の尖閣を巡る日中の動
きには、墓場に入られても、きっと慨嘆・激怒されておられるに違いない。体調
を崩されるまではオルタにいろいろとお力添えを頂いたことを心から感謝する共
に、私たちは細島さんのアジアの平和にかける遺志を継いで進むことをお誓いし
たい。                             (了)

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